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『憤怒』のつくりかた

⭐︎きみと出会ったはなし

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父と母は開業医だった。
 直接言われたわけではなかったけれど、二人は俺に後を継がせるつもりだったのだと思うし、実際俺もそのつもりだった。両親のことが大好きで、尊敬していたから。
 両親のような医者になるためには、勉強を頑張らなければならないと知ったので、勉強を頑張りたいと両親に伝えた。
 両親は喜んで塾に通わせてくれたし、たくさんの教材や本を買い与えてくれた。
 頑張って、結果をだして。頑張れば頑張るほど、妹や両親が喜んでくれたので、俺は勉強が好きだった。
「良いよな。医者の息子はやっぱ頭の出来が違う」
 だから、そんな言葉を投げかけられたとき、俺は「ちがうよ」と、堂々と答える事ができた。
「おれは、たくさん勉強しているだけ」
 それを聞いて、同級生は怖い目で俺を見た。当時の俺にはその理由が分からなかったけれど、その一瞬で自分が嫌われたのだということだけは分かった。
 小学六年生。
 その会話を聞いていた友人たちは、「あんな厭味ったらしい言い方ないだろ」「勉強教えてもらっといて、よく当たり散らせるよな」と俺の肩をたたいた。
 俺は友人たちの言うように、彼に対して嫌味だとか、腹立たしいとかは思わなかった。中学受験も控え、彼もまたピリピリしていたのだと知っていたから。
 けれどその日から、俺の胸にはしこりのようなものが巣食うようになった。仲の良かった友人に嫌われるという経験を初めてしたからか、その言葉が特別印象的だったからか。理由はよくわからない。
 とにかく今まで見えなかったものが、視界に入って来るようになった。
「俺は、自分の意思で医者を志したんだよ」
 両親と対立しながらも、特待生枠を勝ち取って自分の進路を切り開く女生徒。
「だから、塾とたくさんの参考書で、いつも勉強しているよ」
 家計に余裕がなく、図書館に籠り、中古の参考書で勉強する男子生徒。
「両親も妹も、おれの事を応援してくれるんだ」
 両親の理解が得られずに、受験を諦めざるを得なかった友人。
「たくさん頑張ったら、頑張った分だけ報われるから楽しいよ」
 授業を最前列で真面目に聞いて、寝る間も惜しんで人一倍勉強して。それでも校内偏差値の平均に届かないクラスメイト。
 俺は、両親みたいな医者になりたいと思ったから頑張っていて。
 頑張ったから、こうして結果が出ている。
 少しずつ、少しずつ。
 自分の中の軸が、ぶれていく。
 どこからが両親の意思で、何処までが俺の気持ちなんだろう。
 どこからが与えられた物で、何処までが俺自身が掴み取った物なんだろう。
 そんな漠然とした──人によっては、「贅沢だ」「甘ったれるな」と一蹴するような──不安定。それを抱えたまま、立ち止まることもせず、ただただ歩いて。

 25歳の春、きっと俺は死んだ。
 寝ている間に隣室の火が回り、あっという間に炎に巻かれていた。
 喘ぎ、熱さに悶えながら意識を失って。
 目を覚ましたとき俺は、全く知らない世界に、ただただぼうっと立ち尽くしていた。
 そして、そこで俺は人を殺した。
 求められるまま男に手を伸ばしては、その息の根を止めた。人を殺してはいけない。万人に適用される一線を、あまりにもあっさりと超えてしまった。もう二度と医師を名乗ることができないと、全てを理解しながら、正気のまま。
 20年以上抱え、縋り続けてきたものをこうも簡単に捨てられたのだと、他人事のように恐怖する。
 ただただ、それが悪い夢であることを願ったけれど、何日、何週間たっても『夢』が覚めることは無かった。

 そして気付けば、俺はこの世界の学園に辿り着いていた。
 学校では、見た目も中身も自分のまま、「呪われた血筋」「常識知らず」と身に覚えの無い罵言と共に毎日殴られた。
 あたり前のように神秘を扱う人々に、魔力の強さと家柄が物を言う人間関係。
 人一倍努力しても、周りの『当たり前』に適応することが出来なかった。
 唯一優しくしてくれた人には、犯されて、殺された。
 殺されたかと思えば、何事もなかったかのように朝が来て、また犯された。
 応戦しようと身構えても、あの時の──初めて何かを殺したときの感覚がフラッシュバックする。呼吸が荒くなって、血の気が引いて、手足が震えて。成すすべもなく、直ぐに引き摺られた。
 罰なのだと思った。人を一人殺した人間に、憤る資格などないのだと。自分に言い聞かせながら、ただ朝に怯えた。

 毎日、毎日。殴られて、罵られて、犯されて、殺されて、殴られて、罵られて、犯されて、殺されて、殴られて、罵られて、犯されて、殺されて、殴られて、罵られて、犯されて、殺されて、殴られて、罵られて、犯されて、殺されて、殴られて、罵られて、犯されて、殺されて、殴られて、罵られて、犯されて、殺されて、殴られて、罵られて、犯されて、殺されて、殴られて、罵られて、犯されて、殺されて、殴られて、罵られて、犯されて、殺されて、殴られて、罵られて、犯されて、殺されて、殴られて、罵られて、犯されて、殺されて

 壊れたラジオみたいな笑い声が、響いていた。
 腹を裂かれて、内臓を引き摺り出されて、生きたまま食われながら。
 痛みすら碌に感じられなくなった思考のまま、ただ思い知らされる。
 両親のいない世界で、俺は驚くほどに無力だった。
 理不尽を避けようという気力も、逆境に立ち向かうだけの精神力も。
 自分の意思なんて、何処にもなかった。与えられた物を享受していただけで、自分の力で掴み取った物なんて一つもなかった。
 結局、俺には何もない。何も得られなくて、こんなにもからっぽの人間だった。
 ようやっと見つけた20年来の答えに、静かに足先から体が重くなる。心が末端から死んでいくみたいだと思った。

 そして30日目の夜。
 気付けば、縄状に編んだワイシャツを部屋の梁に括り付けていた。
 毎日毎日犯されて、殺される。
 過去の空虚さを突きつけられて、医者になる未来すら失った。
 前も後ろも真っ暗だった。終わりの見えない地獄を前に、途方に暮れて。
「…………ああ、」
 目を覚まして、絶望する。
 吐瀉物と排泄物の匂いが立ち込める室内で、どこにも逃げられない事を悟る。
 3日も経つ頃には、索状痕は綺麗になくなっていた。
 それから10日間の内に餓死したり衰弱死したりがあった気がしたけれど、正確な数は分からなかった。
 自分が死んでいるのか、寝ているのかの区別もつかなくなっていた。
 41日目の朝に、部屋を出た。
 やっぱり俺は、殺された。
 死んだ数が20を超えたころには、自分の死すらどこか他人事のように受け入れるようになっていた。
 精神から感情が切り離されるような危機感を覚えつつ、幾分か冷静になった頭は滑らかに動く。
 30回死んだ頃には、俺は自分の死に、いくつかの法則性を見つけていた。
 彼らがこちらに殺意を向ける時には、決まって一定のアルゴリズムが存在すること。
 まるでゲームみたいだな、なんて。
 そんな感想を抱くと同時に、生前、妹が彼らにそっくりなゲームキャラクターに熱をあげていたことを思い出す。
 信じ難い仮設だったけれど、今更物事を現実的だ何だの尺度で測る道理もなかった。
 これがゲームなら、何らかの勝利条件を満たすことで、苦痛から解放されるのではないか。
 何もかもが不明瞭ななかで、唯一できた指針らしきものだった。
 それからは、いつの間にか机に置いてあった手帳に、自分を殺した人間と、そこに至るまでの選択肢を記録するようになった。
 そして確認できた対象のなかで、最も不確定要素──ランダム性の少ない対象に絞って攻略を試みた。
 良好な関係を構築するための応答が、確立されてきた。犯されることはほぼ無くなった。
 けれど。
『許して。ごめんなさい』
 3つあとの選択肢で死んだ。
『逃げてない』
 2、3往復の問答で、また腹を裂かれた。
『化け物。死んでしまえ』
 気付いたら、身体が俎上の魚みたいに三枚おろしになっていた。
 どの選択肢を選んでも、五体満足では済まない。どん詰まりの頭打ち。俺は、完全に行き詰まっていた。
 試行、失敗、試行、失敗、試行、失敗、試行、失敗。
 試行するごとに、『死』を正しく認識できなくなっていく。命を数として消費しては、精神性が、人のそれとかけ離れていく。
 痛みの次は、味があまり分からなくなった。人としての皮を、外側から丁寧に丁寧に剝がされているようだった。
 けれど、それで良いのだと──その方が良いのだと思った。
 だってもう、これで、傷つくのも死ぬのも怖くない。

 けれど。
「…………」
 伸ばした手が、小刻みに震える。
 3つ目の選択肢の後に、武力での抵抗を試みた場合。
 前に進むために、俺はあらゆる可能性を試行しなければならない。
 理屈も、理論も理解している。あらかじめ刻印を刻んだ硬貨に魔力を巡らせて、設定した座標に押し出す。
 それだけで、まず間違いなく眼前の男の脳天を吹き飛ばすことが出来る。
「…………っ、」
 けれど結局俺は、眼前の脅威に背を向けていた。
 傷つくのも、死ぬことすら怖くない。
 けれど、他人を傷つけることだけは怖くて仕方がなかった。
 将来なんてない。いまさら惜しむ物なんてない。
 ただ、そこに横たわる断崖を飛び越える事だけが怖かった。
 対岸に辿り着いたとき、自分が全く知らない自分になっているような。
 人間でなくなるのには耐えられても、『俺』でなくなるのには耐えられなかった。
 そんな、漠然とした恐怖。
 自分の感情の輪郭も掴めないまま、ただただ逃げた。
 逃げて、逃げて、逃げた先。
 終点は、医務室だった。

「…………そんなの、おかしい」
 はじめは何を言われているのかよく分からなかった。
 医務室最奥のベッドから顔を出した青年は、「これ、口止め料な」と言って、ココアを淹れて差し出してきた。
 そして、俺の怪我に気付くと、少しだけ真剣な表情になった。
「なにがあった」
 確か、俺を今追いかけてきている青年も、最初はそんな風に気遣ってくれたんだっけ。
 他人事のように考えながらも、比較的正直に事態を青年に伝えた。何回か犯されたり殺されたりしたことは、咄嗟に隠してしまったけれど。

 ────この青年は、どんなふうに俺を殺すんだろう。

 泥水みたいな水面をただ眺める俺に、青年は、小さく顎を引いて。
「…………そんなの、おかしい」
 冒頭の通りの言葉を吐いた。
 何を言われているのか、よくわからなかった。けれど、俺は数カ月、数週間ぶりに泣いていた。
 干からびた感情が、一気に潤って、芽吹いて。
 人間に戻れた気がした。もしくは、生まれ直したような。
 いたい。こわい。もう嫌だ。どうしておれが、こんな目に合わなければいけないのか。たすけて。ここから解放して。ころして。
 とめどなく溢れてくる感情を、会って一日も経っていない青年にぶつけた。
 泣きわめいて、子供みたいに追い縋った。
 青年はただ、俺の話を聞いているだけだった。それでも、俺の心は確かに救われていて。
「俺が、お前を守護り通して見せる──!」
 青年──圭一と名乗った彼は、俺の心だけじゃなくて、身体まで守ってくれた。
 責任を感じる必要がないと言っても尚、俺と怖い人たちの間に走りこんでは、いつも守ってくれた。
 もはや圭一は、俺の全てだった。
 だって、全部が変わったのだ。圭一と出会ってから俺は、一度も死ななかった。
 俺が何十回死んでもたどり着けなかった解を、いとも簡単に提示してくれる。
 そしてそのたびに──彼がこの世界の創造主であることを実感するたびに、俺は怖くなった。
 圭一に見捨てられたならば、俺はまたあの地獄に戻ることになるのだと理解していたから。
「……圭一は、どうしてそんなに優しくしてくれるの」
 だから、とうとう耐えられなくなってそう尋ねた。
 ベッドに腰かけたまま、ぶらついていた足が止まる。足を止めて、圭一は何かを逡巡しながら頬を掻いた。
「…………おまえ、いい奴だから」
「え?、」
「……『悪意が無いから、悪くない』って。そう言ってくれたろ」
 俺の言葉に被せるように、圭一は言った。
 どこを見ているかよくわからない目で、ぴ、と天井を指先して。
「すぐ後悔したよ。あんまりに卑怯だと思った」
「卑怯?」
「そうだろ。だって、お前はそう言うしかない。俺だって、お前の立場だったら怖いよ。四六時中相手のご機嫌伺いだ」
 気まずげに逸らされた双眸に、俺もまた目を見開いていた。
 思えば確かに、あれ以来圭一は俺に謝ることは無かった。そして俺は、それを有難いとも思っていた。
 口ではああ言ったし、その言葉は完全な嘘というわけでもない。
 けれど。「どうして俺がこんな目に」と、そんな行き場の無い感情を持て余していたのも事実なのだ。
 打算で圭一の言う、『ご機嫌伺い』のような言動をとったこともあった。
 圭一の指摘は、的を射ている。
 そしてそれが、正直意外だった。
 圭一が、その非対称性に自覚的だとは思わなかったから。
「だからさ」なんて。そんな言葉に、豆鉄砲を喰らったような心地のまま目を瞬く。
 眠たげな黒目が、顎を引いた拍子に逸らされて。
「そんなに気張らないでほしいっていうか、もっと我儘言ってほしいっていうか…………」
「圭一……」
「いや、本当に俺の立場で言えたことじゃないんだけど、その、」
 ──友達、なんだし。
 消え入りそうな声に、わけもなく鼻がつんと痛んだ。
 よくわからない感情がまた込み上げてきて、圭一の身体に追い縋った。
 腕の中で、薄っぺらい肢体が少しだけ強張ったのがわかる。
 けれど初めて会った時みたいに、圭一は何も言わずに俺の感情を受け止めてくれていた。



 圭一に何かを返したくて、討伐に行った。
 報酬がもらえるようだったし、自分が戦えるようになれば圭一の負担も減ると思った。
 あれだけ圭一に言われたのに、俺は自分の存在意義を示すことに必死だったのだ。
 けれどやっぱり、何かを殺す直前になると、身体が動かなくて、何もできなくなった。あの時の感覚が、頭から離れない。名も知らぬ男の呻きが、耳の奥から響いてくる。
 そして同時に、怖くなる。
 圭一は、俺の境遇に対して、「おかしい」と憤った。けれどそれは、俺の全てを知らないからだ。
 俺が、人を殺せる人間なのだと知られたのなら。そして、犯されて殺されて、汚れる事を「当然の報い」だと切り捨てて。
 ────唯一の支えを、喪ったのなら。
 今度こそ、自分がどうなってしまうのかわからなかった。
 俺が無様に尻込みしている間にも、圭一は俺を守るために傷ついた。
 俺は罰を受けて当然の人間だ。誰かに守られ、憐れまれるような資格は無い。
 分かっている。理解しているのに、彼に不誠実であり続けては、彼が傷つく姿を看過している。
 彼に嫌われたくない。拒絶されたく無い。
 そんな、身勝手なエゴだけで。
 不甲斐なくて、弱い自分が情けなくてただ泣いた。
「ごめん」「おれ、何もできなくて」
 もっと言うべきことがあるはずなのに、そんな嗚咽しか出てこない。
 子供みたいに泣きじゃくる俺に、圭一は困ったように腕を組む。
 何かを考えて、「じゃあ」と右眉を上げる。
「俺の萌え語りにたまに付き合ってくれ」
「萌……えっと……」
「お前は『うんうん』って頷いてくれてれば良いから」
 よくわからなかったけれど、圭一の頼みなら断る理由も無かった。
 曰く、「吐き出さないとやっていけない」らしい。
 けれど、言葉の割に彼は乗り気ではなさそうだった。俺に罪悪感を与えないように、何かしらの役割を与えてくれたのではないか。
 少しだけ赤い顔で話す彼を見て、なんとなく思った。
 それでも俺にできることはそれしかなかったので、ただ「うんうん」と彼の話を聞いていた。次第に圭一は、澱みなく話すようになった。
 好きな作家さんのはなし、漫画の話。
 洗脳だとか監禁だとか。不穏な言葉が度々聞こえてきて、「そんな良いものじゃ無い……と思うよ」と口を挟めば、なぜか少しだけ嬉しそうな顔をする。
 その後も、圭一の話に口を挟んだりするたびに、彼は嬉しそうに難しいことを早口で話した。
 分からないことは多かったけれど、圭一と話すのは楽しかった。
 好きな食べ物、好きな漫画、家族のこと、幼少期のこと。
 話すたびに、彼のことをもっと知りたいと思った。
 だから、一言一句聞き逃さないように耳を傾ける。 
 少しだけ頬を上気させて、普段は半開きの目をキラキラ輝かせる姿を見ていると、なんだか胸が温かくなった。
「見すぎ」
 と、怒られることが増えた。怒られては、自分の頬がだらしなく緩んでいることに、指摘されて初めて気付く。
 「圭一が楽しそうだと、おれも嬉しい」
 素直に心中を吐露したら、圭一は口をムズムズさせた。
 気付けば俺は、朝に怯えずに眠ることができるようになっていた。
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