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文化祭2日目 異変

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 ジャアジャアトイレの水が流れる音を背に、ホールへと向かう。
 ゲボった身の上、厨房に立ち入るのも気が引けた。誘導係のヘルプなら、まだ懸念は薄いかなどと考えつつ、教室の扉を開けて。
「…………委員長、早かったね…って」
 会計中の亀山の、言葉が途切れる。何事かと眉を顰めれば、猫田が早足にこちらに向かってくる。その表情に平生の脱力感はなく、怒りすら感じさせるような焦りが滲んでいるようだった。
「…………な、なに、」
「委員長、もう今日は休んどけ」
「は……、急になに、」
「鏡で自分の顔見ろよ」
 俺の腰に手を添えて、グイグイと教室の外へと追いやって来る。よろめきながらも、文句を吐こうと上躯を捻って。
ぐにゃり。
地面がゆがんだ。気付けば、その場に這いつくばっていた。
何が起きたかわからない。
ぐわんぐわんと変な音がする耳が、猫田の声だとか、周囲のざわめきを拾ってはぐちゃぐちゃに混ぜたまま脳ミソに伝達して。 
最高に気持ちが悪かった。
「…………あの、大丈夫ですか」
 唯一鮮明に響いた声に、縋るように視線を擡げる。
 恐らく外部生だろう。可憐な少女が、黒目がちな双眸に憂いを滲ませて、こちらに手を差し伸べてきていた。
 白くて、小さくて柔らかい手を掴んで。
 恍惚に蕩け、潤んだ目に、吸い寄せられたまま視線を逸らせない。思考の先端から麻痺していくような酩酊感。
 頬を撫でられたかと思えば、少女のそれだけではない。気付けば無数の手がこちらへと伸びてきていた。俺を取り囲んでは見下ろす人々のなかには、男もいれば女もいた。けれども皆が皆、熱を湛えた眼で俺を見ていて。
 柔らかい女の手が、汗で頬に張り付いた髪を払う。
 男の整えられた指先が、シャツのボタンを外していく。
 骨ばった手が、ベルトのバックルに掛かる。
 真っ白で長い指が、俺の半開きの唇の間から押し入ってくる。
 遠くから聞こえてくる、クラスメイトの悲鳴も相まって、僅かな違和感が脳裏を掠める。けれども噎せかえるような甘い香りに、それもすぐに形を失って。
 咥内をぐちゃぐちゃに掻き回される多幸感に、自然と口端が吊り上がる。
 身体が、無性に熱くて仕方がなかった。
 少女の桃色の唇が、「かわいい」と甘い声を漏らして弧を描く。
導かれるまま、少女の肩口に相貌を預けて。
 鼻腔を擽った甘い香りに、咥内にじゅわり と唾液が溢れるのが分かった。
「────臭っ」
 ぐん、と。
 思い切り腕を引かれる感覚に、ぐるんと重い頭が揺れる。
「なに⁉なにこれ臭ァ!散れ、Ωァ!」
嗅覚も視覚もろくに機能しなくなっていたが、その声にだけは覚えがあった。
「ちょっと目ぇ離した隙に、なんや、これ。どういう状況」
「あ、たご?」
俯いたまま問いかければ、返事のかわりに腕をその逞しい肩回りに回させられる。愛宕と肩を組んだ状態で、弛緩しきった身体を無理やり立たされて。
「…………最悪、完全に発情しとうやん」
「ぁ、え」
「委員長さぁ。僕の記憶が正しければ、βやったよね?──否。もういいや、この際」
 吐き捨てるように言って、俺の身体をハンマー投げの要領でブン投げる。
が、また地面に転がる直前に、俺の身体は薄い胸板に抱き留められる。猫田だった。
「……っ、もっと丁重に扱え!」
「しゃーしいわβァ!重いんだわ」
「方言でキレんな!怖いんだよ!」
「こいつら黙らすけん、お前は委員長はよこっから隔離せぇ!」
 正気を失った外部客を踏んづけながら、愛宕が鋭く何かを投擲する。
「……抑制剤」
「はよ行け、キビキビ走れ!」
 投擲されたそれをキャッチして、猫田が眦を決する。
「……ちょっと揺れるけど我慢しろ」
 穏やかながらも緊張に張りつめた声音で、俺の腕を自らの肩に回した。
 最早返事すらできなかった。言葉の意味も理解できないまま、半開きになった口から唾液が垂れた。
猫田に寄りかかったまま、半ば引き摺られるようにぐにゃぐにゃ歪む世界を行く。
道中で、あちらこちらから伸びて来る手を、猫田が血走った目で払い除ける。
その光景に、わけもなく昔見た、ゾンビのパニックホラー映画を思い出す。

「……もう嫌ァ…何ィ…?バイオハザードすぎる……」

終着は、人気の少ない西棟だった。
憔悴しきった声で呻いた猫田は、そのまま懐から取り出した錠剤をこちらに押し付けてくる。
定まらない焦点のままそれを眺めれば、痺れを切らしたように無理やりそれを口内に押し込まれて。
顎を無造作に押し上げられて、嚥下させられる。
喉元から漏れた呻きに、「我慢してぇ」と辟易した様子で答えた。
「即効性の高いやつだと思うから、効くまでそんな時間かからないと思う。副作用とかはないはずだし」
「……うん…………」
「でもα用だ。効くのか?つか、効いてくれないと困るし──」
はたと、澱みなく吐き出されていた言葉が途切れる。
 幾分か冷えて頭で、言葉の先を探すように隣の青年を仰ぎ見た。「猫田?」
「…………クソαだ」
 呟いて、震えるスマートフォンを懐から取り出す。通話ボタンを押すと同時に、俺にまで聞こえてくるような声量で『すまん、β!』という叫びが聞こえてくる。
 奴にしては珍しい、純粋な焦りの滲んだ声だった。
『一人逃した、つか、そっち行った!』
「大口叩いといてそれかよ」
『きさん、まじで帰ったら覚えとけよ』
「…………一人くらいならどうにかできるから、委員長が落ちついたらすぐ移動す────」
『馬鹿、今すぐ動け!』
 いよいよ切迫してきた声音に、猫田の眉間に皺が寄る。
 同時だった。
「────ひろとぉ」
 その声に、通話口の向こうから大きく息を吸う音が聞こえる。顔を覆っては天を仰ぐ愛宕の姿が、目裏に浮かぶようだった。
なぜなら俺の隣で、猫田もまた同様に天を仰いだから。
シャープな横顔に浮かんだ笑みは引き攣っており、一筋の汗が、その輪郭を伝う。前方──中央棟と西棟の連絡通路を凝視する、その視線を追って。
「…………最悪」
連絡通路の陰から現れた青年に、猫田が悪態を吐く。
そのシルエットには、見覚えがあった。
「原…………」
俺の呟きに、青年──原は、ゆったりと微笑んだ。
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