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あなたに食べてほしい
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玄関の扉を開け、靴を脱ぐのももどかしく家に転がり込む。
「母さん!」
叫んでリビングの扉を開けると、母は声を上げて飛び上がった。慌ててテーブルの上に広げていたものを裏返した。何を見ていたのか気になるが、今はそれどころではない。
「な、なによ急に帰ってきて大きな声出して」
「食べてほしい、これ」
早く早く、と焦る気持ちを堪え、丁寧にゆっくりと鞄からパンを取り出す。
「……嫌よ」
母はパンからふいと顔をそらし、腕を組んで拒絶する。
「お願いだ。俺と、……俺の好きな人が作ったパンなんだ」
パンを差し出し、母に頭を下げる。
「俺、ずっと言えなかったけど……パンが好きなんだ。今までずっと、俺がパンを食べたら母さんが悲しむからって我慢してたけど、この前ある人に会ってから食べるようになったんだ」
「……」
母は顔をそらしたまま、じっと黙って話を聞いている。
「その子、パン咥えて走ってきてさ。曲がり角でぶつかったんだけど、何より先にパンの心配するくらいパン好きな子で。パン屋で働いて、パン嫌いな人をなくしたい、って言うくらいパンが好きで……」
「それがあなたの好きな人なの?」
母は俺の方を見ないまま問う。俺は頷いた。
「母さんは、息子までパン屋の女にたぶらかされたって思うかもしれないけど……父さんのことは関係なしに、俺はパンが好きだし、あの子が好きなんだ」
母はぎゅっと唇を噛み締める。それで、と続きを促され、俺は息を大きく吐いてから言葉を紡ぐ。
「母さんに、パンを好きになってほしいとは言わない。母さんだってあの時に傷ついたのはよく知ってるから。でも……このパンだけは食べてほしい」
母の手を取って、そっとパンを乗せた。振り払われるかとドキドキしたが、予想に反して母はじっとパンを見つめている。
俺も唇を噛み締めた。言いたいことは言った。美味しいパンも作った。やれることは全部、やったはず。
どれだけの時間、そうしていただろうか。
ふうっと息を吐いて、母が椅子に座る。
「……わかった。そこまで言うなら、食べてみるわ。好きにはならないと思うけれど」
「ありがとう!」
じわり、と全身に喜びが広がった。でもまだだ、食べてもらうまでは終わりじゃない。
そっとビニール袋からパンを取り出した母は、まずパンをじっくりと見つめた。
「綺麗ね。丁寧に作られてるのがわかるわ」
「不器用だからあんまり上手く形作れなかったけど」
「確かに、こことか」
母が小さく微笑んでパンの出っぱったところを指差す。そこは目を瞑ってくれ、と俺も笑った。
「紅茶の茶葉を使ってる? ダージリンの香りがする」
「そう、母さんが好きって言ってた紅茶」
「好きなもので釣ろうって魂胆ね」
「その通りです」
そして母はゆっくりと、パンを口に運んだ。母にとっても10数年ぶりのパン。俺は思わず服の裾を握り締め、ごくりと唾を飲んだ。
味わうように目を閉じて、パンを咀嚼する母の口元を見つめる。やがて喉が上下して、パンを飲み込んだ。
「……どう?」
おずおずと聞くと、母は深いため息をついた。不味かったんだろうか。俺にとっては美味しかったけれど。顔色を窺う俺をじっと見て、母はすうっと息を吸った。
「美味しい!」
一言そう言うと母はもう一口、パンを口に入れる。
俺は長いため息を吐いた。力が抜けて、思わずその場に座り込む。口元が緩み、笑いが漏れた。
「よかったあ……」
母は俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、パンをべろりと平らげた。
「美味しかった。なんで意地張って今まで食べなかったんだろうってぐらい。ありがとね」
こんなに穏やかな母の顔を見るのは、いつぶりだろうか。よかった、ともう一度呟いたところでふと、テーブルの上に伏せられた写真に気づく。
手にとって見ると、それは幼い頃の俺を映したものだった。パンを頬張り、満面の笑みでカメラにピースサインを向けている。
「こういう写真、全部捨てたんじゃなかったの?」
パンストライキを始めた時に、母はパンが映った写真や誰かがパンを食べている写真も全て捨てていた。
「こんな満面の笑みの写真、なかなか捨てられないわよ」
ふっと小さく笑って、母は写真を覗き込んだ。
「この頃から、薫はパンが好きだったもんね。母さんが勝手にパン食べるなって言ったせいで、食べられなかっただけで。ごめんね」
俺は黙って首を横に振る。
「馬鹿馬鹿しいとは思ってたの。ずっと、パンに罪はないのにって思うのに……でもやっぱりパンを見ると、あの人への怒りがふつふつと湧き上がってきてね。大人気ないのはわかってるんだけど」
「仕方ないよ、あれは父さんが悪い」
母は俺の手からそっと写真を抜き取って、表面を撫でた。
「薫は優しいから、ずっと我慢してたのも知ってた。でもだめね、この前パンを持った人と鉢合わせしたでしょう? それで薫がその人たちと知り合いってわかっただけで……薫があの人に被って見えて。最近よく似てきたし」
「……ごめん」
「謝らないで。謝らなきゃいけないのは私の方。ずっと我慢させて、ごめんなさい」
母が俺に向かって頭を下げる。細い肩は小さく震えていて、俺はあの日のようにぎゅっと母を抱きしめた。
「謝らなくていいよ。俺と、あの子が作ったパンを食べてくれただけで十分」
ありがとう、と呟くと母も俺を抱きしめた。
生まれた時からずっと一緒に過ごしてきた母と、今初めて心が通じた気がした。
「さ、早く行きなさい」
ぱっと母が体を離し、俺の背中を叩いた。
「え、どこに?」
「バカね、あんたの好きな子と2人でパンを作って私に食べさせようとしてたんでしょ? なら早く結果を教えてあげなさいよ」
いつまでもここにいたらマザコンって言われるわよ、と言いつつ母はもう一度俺の背中を叩いた。目尻を指で拭いながら。
俺はこくりと頷いて、リビングを飛び出した。脱ぎ捨てた靴を慌ただしく履き、玄関の扉を開けて走る。
今度こそ、あの子に伝えなければ。
「母さん!」
叫んでリビングの扉を開けると、母は声を上げて飛び上がった。慌ててテーブルの上に広げていたものを裏返した。何を見ていたのか気になるが、今はそれどころではない。
「な、なによ急に帰ってきて大きな声出して」
「食べてほしい、これ」
早く早く、と焦る気持ちを堪え、丁寧にゆっくりと鞄からパンを取り出す。
「……嫌よ」
母はパンからふいと顔をそらし、腕を組んで拒絶する。
「お願いだ。俺と、……俺の好きな人が作ったパンなんだ」
パンを差し出し、母に頭を下げる。
「俺、ずっと言えなかったけど……パンが好きなんだ。今までずっと、俺がパンを食べたら母さんが悲しむからって我慢してたけど、この前ある人に会ってから食べるようになったんだ」
「……」
母は顔をそらしたまま、じっと黙って話を聞いている。
「その子、パン咥えて走ってきてさ。曲がり角でぶつかったんだけど、何より先にパンの心配するくらいパン好きな子で。パン屋で働いて、パン嫌いな人をなくしたい、って言うくらいパンが好きで……」
「それがあなたの好きな人なの?」
母は俺の方を見ないまま問う。俺は頷いた。
「母さんは、息子までパン屋の女にたぶらかされたって思うかもしれないけど……父さんのことは関係なしに、俺はパンが好きだし、あの子が好きなんだ」
母はぎゅっと唇を噛み締める。それで、と続きを促され、俺は息を大きく吐いてから言葉を紡ぐ。
「母さんに、パンを好きになってほしいとは言わない。母さんだってあの時に傷ついたのはよく知ってるから。でも……このパンだけは食べてほしい」
母の手を取って、そっとパンを乗せた。振り払われるかとドキドキしたが、予想に反して母はじっとパンを見つめている。
俺も唇を噛み締めた。言いたいことは言った。美味しいパンも作った。やれることは全部、やったはず。
どれだけの時間、そうしていただろうか。
ふうっと息を吐いて、母が椅子に座る。
「……わかった。そこまで言うなら、食べてみるわ。好きにはならないと思うけれど」
「ありがとう!」
じわり、と全身に喜びが広がった。でもまだだ、食べてもらうまでは終わりじゃない。
そっとビニール袋からパンを取り出した母は、まずパンをじっくりと見つめた。
「綺麗ね。丁寧に作られてるのがわかるわ」
「不器用だからあんまり上手く形作れなかったけど」
「確かに、こことか」
母が小さく微笑んでパンの出っぱったところを指差す。そこは目を瞑ってくれ、と俺も笑った。
「紅茶の茶葉を使ってる? ダージリンの香りがする」
「そう、母さんが好きって言ってた紅茶」
「好きなもので釣ろうって魂胆ね」
「その通りです」
そして母はゆっくりと、パンを口に運んだ。母にとっても10数年ぶりのパン。俺は思わず服の裾を握り締め、ごくりと唾を飲んだ。
味わうように目を閉じて、パンを咀嚼する母の口元を見つめる。やがて喉が上下して、パンを飲み込んだ。
「……どう?」
おずおずと聞くと、母は深いため息をついた。不味かったんだろうか。俺にとっては美味しかったけれど。顔色を窺う俺をじっと見て、母はすうっと息を吸った。
「美味しい!」
一言そう言うと母はもう一口、パンを口に入れる。
俺は長いため息を吐いた。力が抜けて、思わずその場に座り込む。口元が緩み、笑いが漏れた。
「よかったあ……」
母は俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、パンをべろりと平らげた。
「美味しかった。なんで意地張って今まで食べなかったんだろうってぐらい。ありがとね」
こんなに穏やかな母の顔を見るのは、いつぶりだろうか。よかった、ともう一度呟いたところでふと、テーブルの上に伏せられた写真に気づく。
手にとって見ると、それは幼い頃の俺を映したものだった。パンを頬張り、満面の笑みでカメラにピースサインを向けている。
「こういう写真、全部捨てたんじゃなかったの?」
パンストライキを始めた時に、母はパンが映った写真や誰かがパンを食べている写真も全て捨てていた。
「こんな満面の笑みの写真、なかなか捨てられないわよ」
ふっと小さく笑って、母は写真を覗き込んだ。
「この頃から、薫はパンが好きだったもんね。母さんが勝手にパン食べるなって言ったせいで、食べられなかっただけで。ごめんね」
俺は黙って首を横に振る。
「馬鹿馬鹿しいとは思ってたの。ずっと、パンに罪はないのにって思うのに……でもやっぱりパンを見ると、あの人への怒りがふつふつと湧き上がってきてね。大人気ないのはわかってるんだけど」
「仕方ないよ、あれは父さんが悪い」
母は俺の手からそっと写真を抜き取って、表面を撫でた。
「薫は優しいから、ずっと我慢してたのも知ってた。でもだめね、この前パンを持った人と鉢合わせしたでしょう? それで薫がその人たちと知り合いってわかっただけで……薫があの人に被って見えて。最近よく似てきたし」
「……ごめん」
「謝らないで。謝らなきゃいけないのは私の方。ずっと我慢させて、ごめんなさい」
母が俺に向かって頭を下げる。細い肩は小さく震えていて、俺はあの日のようにぎゅっと母を抱きしめた。
「謝らなくていいよ。俺と、あの子が作ったパンを食べてくれただけで十分」
ありがとう、と呟くと母も俺を抱きしめた。
生まれた時からずっと一緒に過ごしてきた母と、今初めて心が通じた気がした。
「さ、早く行きなさい」
ぱっと母が体を離し、俺の背中を叩いた。
「え、どこに?」
「バカね、あんたの好きな子と2人でパンを作って私に食べさせようとしてたんでしょ? なら早く結果を教えてあげなさいよ」
いつまでもここにいたらマザコンって言われるわよ、と言いつつ母はもう一度俺の背中を叩いた。目尻を指で拭いながら。
俺はこくりと頷いて、リビングを飛び出した。脱ぎ捨てた靴を慌ただしく履き、玄関の扉を開けて走る。
今度こそ、あの子に伝えなければ。
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