美味しいパンをあなたと

夏木 蒼

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パンなんか

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「薫、今日もまたあのパン屋行くのか?」
 昼休み。自分の席で弁当を広げていると、吉田が前の席にどかりと座った。俺の机に吉田も弁当を広げ出す。狭い。
「行くよ、吉田は?」
「俺はいいや、店員にナンパしたら避けられるようになったし」
「サイテーだな」
 俺がそう言うと、吉田はぎろりと俺を睨みつけた。すかさず俺の弁当からウインナー(2袋398円のそこそこ高いやつだ)を抜き取って口に放り込む。
「おい、俺のウインナー」
「うるせー、少女漫画みたいな恋の落ち方した挙句、毎日好きな人に会いにパン屋行くくらい浮かれてる奴のウインナーくらい、食ってもバチは当たらねーだろ!」
 図星を指されて俺は黙り込む。あれから頻繁にあのパン屋に通っているのだから、恋心はダダ漏れと言えばそうなのだが。
 
「でも気をつけろよ、母親にバレたらヤバいだろ」
「わかってる」
 冷えたご飯を口に運び、もそもそと咀嚼しながら考える。母親からしたら、息子までパン屋の女にたぶらかされた、と思うに違いない。
 ただでさえ、最近はよく母に「なんかお父さんに似てきたね」と言われるのだ。決して嬉しそうなニュアンスではない。
「……気をつけるよ」
 もう一度呟いて、ご飯を口に詰め込んだ。秘密に蓋をするように。

 放課後。もう行き慣れたブーランジェリー・ルフランへと足を運ぶ。
 最近は他の店員にも顔を覚えられ、そのうちの何人かは俺の恋心にも気づいているようだ。
 カランカラン、というベルの音ももう聞き慣れた。
「いらっしゃ……あら薫くん、また来たのねえ」
 今日のレジ担当はパートの林田さん。俺の母親と歳の変わらないであろう、おばちゃん店員だ。
 林田さんはくすくすと笑いながら、
「今日は橋下さん、あたしと同じ19時上がりよ。今は休憩中でいないの、残念だったわねえ」
 なんてことを教えてくれる。俺がストーカーだったら大変なことになりそうなくらい、個人情報が筒抜けだ。
「そっすか」
 もはやバレバレの好意を隠す気もないが、面と向かって言われるとやっぱり恥ずかしい。長居したらまたからかわれそうだ。手早くムトンをトレーに乗せて、レジへと持って行く。
「ムトンが好きねえ、あたしもこれ大好き。よく買って食べちゃうんだけど、それ見た息子からはいっつも『そんなん食べるから太るんだよ』なんて言われるのよ。可愛くないわよねえ!」
 林田さんには俺と同い年の息子がいるらしい。
 憤慨しながらも言葉の端に愛情がこもっていることがわかる、そんな林田さんの話し方が俺は結構好きだった。
「美味しいから食べちゃいますよね」
 と、無難な相槌を返してお金を払う。そうよね! と何度も頷きつつ、林田さんは慣れた手つきでパンを袋に入れ、お釣りを手渡した。
「駅前のスーパーの休憩スペース、食べ物持ち込んでもいいらしいから、橋下さん待つならそこにいると良いわ」
 袋を渡しながら林田さんは俺に耳打ちする。優しいというかお節介というか。でも、母親とそんな風な話のできない俺にとっては、林田さんと話すのは気恥ずかしいが少し嬉しかったりもするのだ。
 ありがとうございます、と会釈して店を出る。

 林田さんに教えられたスーパーの休憩スペースはそれなりに広く、同じ学校の人はいないというなかなかの好条件なところだった。好きな人のバイトが終わるのを待つ(しかも片思い)なんて、誰かに見られたら恥ずかしすぎる。
 暇潰しにこの前の遅刻の反省文でも書くか、と原稿用紙を取り出した。何回も書いているので、大体のテンプレートは覚えている。
 ムトンをゆっくりと味わいつつ、原稿用紙に筆を走らせる。いたって平和な時間だった。

 ――そこに母が来るまでは。


 原稿用紙にふと俺以外の影が落ちて顔を上げる。ぎょっと目を見開いた。
 そこには、母が立っていた。
 冷や汗が噴き出し、鼓動が速くなる。なんでここに母がいるんだ。
「あ、やっぱり薫だ」
 母は笑いながら俺の前の席に座る。
「最近帰りが遅いと思ってたら、こんなとこにいたのね」
「ああ、うん」
 机の上に置いていたパンのビニール袋を素早く鞄の中に隠し、俺は原稿用紙をファイルに入れた。袋にパンが入っていたことは見られていない、と信じたい。
「母さんはどうしてここに?」
「今日はPTAの集まりでね。うっかり役員引き受けちゃったから、高校まで行かなきゃいけなくて」
「へえ」
「帰る前に買い物しようと思ってスーパー寄ったら、薫がいるからびっくりしちゃった」
 えへへ、と母は少女のような笑みを見せる。この様子ならパンのことはバレていないようだ。
 ならば今のうちに、と俺は立ち上がる。林田さんと橋下さんに鉢合わせしないように帰ろう。
「荷物持つよ、帰ろう」
 スーパーのビニールを持って帰宅を促すと、母もやれやれと立ち上がった。

 なんとかバレずに済みそうだ、とスーパーを出た時。

「あっ、薫くん!」
 聞き慣れた声が飛んできた。ぴたりと母の動きが止まる。俺も恐る恐る振り向いた。
 オレンジ色の袋を抱えた林田さんと、橋下さんが立っている。袋からはフランスパンがはみ出し、それを見た母は思いきり顔を顰めた。
「……こんにちは」
 ぎこちなく会釈して顔を上げると、俺の母の方を見る彼女が目に入った。
 ああ、母とは会ってほしくなかった。パンが好きな君には、パンが嫌いだなんて罵る人に会って欲しくなかった。
「今帰り? 偶然ねえ! そちらはお母様?」
 林田さんはよく喋る。俺は黙って頷いた。母も訝しげな顔で頭を下げる。「誰?」と小声で俺に聞くが、どう答えれば良いかわからない。
 そうそう、と林田さんは袋からパンを取り出した。
「余ったパン貰ったんだけど、いる? ムトンもあるのよ」
「あ、いや……」
 口籠もりながら、ちらりと母の方を窺う。
 母は――あの日、父親を見るのと同じ目で、俺を見ていた。冷たく、温度のない虚ろな目。
 
 ひゅっと息が詰まり、心臓が早鐘を打つ。溺れた時のように息が苦しい。
 答えられない俺に、母は静かに問う。
「薫、この人たちは誰? あんた、パン食べたの?」
 俺は黙ったまま俯く。
「あのっ、私たち……」
 橋下さんが助け舟を出そうと口を開くが、
「あなたには聞いてないわ」
 母はぴしゃりと跳ね除けた。異様な空気に、林田さんがおろおろと俺と母を見る。
 答えない俺を見て、母は大きなため息をつく。
「あの、パン……」
 林田さんがおずおずとパンを差し出したが、母はちらりと一瞥して顔を顰めた。
「パンなんか要りません。失礼します」
 母は俺の手から買い物の袋を奪い取り、スタスタと駅の方へと歩いて行く。
「すみません、また」
 俺は2人に頭を下げた。顔を上げると、唇を噛み締めて俯く彼女が目に入る。泣くのを堪えているようにも見えた。
 
 そうだよな、君はパンが大好きだもんな。事情は知ってても「パンなんか」なんて言われたら傷つくよな。ごめん。本当に。
 
 そう思っても、それを口に出すことはできなかった。
「……ごめんなさい」
 俺はもう一度2人に頭を下げ、改札へと吸い込まれて行く母の背中を追った。
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