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boulangerie refrain
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「ほら、あそこ」
駅から1本離れた通りの入り口で、吉田は一軒の店を指差す。
彼女が持っていた袋と同じオレンジ色の軒先に、ガラス張りのパン屋があった。外からでもわかるほど、たくさんのパンがずらりと並んでいる。
「ぶーらん……じぇりー……リフレイン……?」
「ブーランジェリー・ルフラン。フランス語だな」
軒先に書かれた店名を俺が読み終わる前に、吉田が答えた。
へえ、と答えて視線を店に戻す。
お客さんが扉を開ける度に、パンの焼ける匂いが漂ってきた。その香りにつられて今朝のパンの味を思い出し、また腹が鳴りそうになる。
「こんなところにパン屋があったのか、知らなかった」
俺がそう言うと、
「わりと人気だぞ、ここ。お前んちが特殊なだけ」
吉田は苦笑いしながら扉を押した。
カランカラン、とドアについたベルが軽い音を立てる。
慣れた様子で店内に入る吉田の後に続いて、俺もそろそろと店内に足を踏み入れた。
俺たちの姿を認めた店員から、いらっしゃいませえ、と明るい声が飛んでくる。
吉田は迷わず『ホテル食パン』と書かれた食パンを手に取ってレジへと向かった。早々に会計を済ませ、似合わないウインクを俺に投げて店を出ていく。俺は顔をしかめた。男のウインクなんて嬉しくない。
改めて店内をぐるりと見渡した。
キノコの笠のような形のオレンジ色の照明が柔らかい光を放っている。レンガ模様の壁紙や落ち着いたアプリコット色の床は温かみがあり、緊張していた気分が穏やかになった。
棚やテーブルにはたくさんのパンが並んでいる。店内は小麦の香りで満たされていて、母が来たら発狂しそうだ。俺にとっては天国だが。
入口の方から順番に並んだパンを見て回る。
「新商品」のポップがついたチーズインカレーパン、スイートコーンがつやつや光るコーンパン、フランスパンにチーズを入れたチーズバタール、チョコが溢れそうなチョココロネ、花の形の桜あんぱん、あの子が咥えていたあんぱん、そして俺が今朝食べて虜になったムトン。
ごくり、と唾を飲み込んだ。俺が知らなかっただけで、こんなにも美味そうなパンが世界にはあったのか。
「お客様っ、トレーをどうぞ」
声に振り向くと、エプロンに身を包んだ女性店員が立っていた。
トレイとトングを俺に渡しながら、彼女は俺の顔を何かを探すようにじっと見る。なんだ、とたじろいでいると、彼女はぱっと笑顔になった。
「あ、今朝の……パン欲しそうだった子じゃん! 来てくれたんだ!」
言われて俺も記憶の箱をひっくり返す。たしかにぶつかった女の子はこの子だったような気がするような、しないような。やはりパンしか思い出せない。
俺は曖昧な笑みを浮かべて頭を下げた。
「今朝はすいませんでした、ぶつかっちゃって」
「いやいやいや! 私の不注意だし!」
彼女は両手をブンブンと振って笑う。屈託のない笑顔は子供みたいだ。
胸元に付いている名札には『橋下』と書かれている。橋下さんっていうのか、と改めて顔と名前を頭に刻み込んだ。
「パン、美味しかったです」
そう言うと彼女はまた朗らかに笑った。
「よかった、お口にあったみたいで。今朝のパンはそのムトンね。あとおすすめはチーズバタールと、えーと……」
橋下さんは嬉々として説明を始める。俺は慌てて説明を止めた。
「や、今日はそんな買えなくて」
「そうなの? 残念」
彼女はしょんぼりと眉を下げた。感情がすぐに顔に出るのが可愛らしい。素直な彼女につられて、俺もぽろりと呟いた。
「今日は、というかいつも無理なんです、俺の家」
彼女はきょとんとした顔で首を傾げる。
「どうして? アレルギーとか?」
俺は首を横に振った。
「パン嫌いな奴が家にいるんです」
それだけ言って唇を噛んだ。
パン屋で働き、パンの説明をすらすらできるほどパンが好きな彼女に、母の話をするのはなんとなく憚られた。
誤魔化すようにあんぱんをトレイに乗せて、レジに向かう。彼女も慌ててレジへと走った。
お金を払い、オレンジ色の袋に入ったパンを受け取る。お釣りを用意した彼女は、レジから出てきたレシートを素早く切り取って裏に何かを書き始めた。
「これ、私の連絡先。連絡してくれたら嬉しい」
お釣りと共に手のひらに乗せられたレシートには、名前の横に電話番号とメッセージのIDが書いてある。
「や、なんでそこまで」
戸惑って返そうとする俺に、彼女はきっぱりと言い放った。
「私、パンが好きなの。将来はパン屋になりたいくらい。だから、アレルギー以外でパンが嫌いな人をなくしたいの」
真っ直ぐな視線が俺を射る。
変な奴。俺は黙ってレシートをポケットに入れ、彼女に軽く会釈をして店を出た。
カランカラン、というベルの音が、いつまでも耳に残っていた。
駅から1本離れた通りの入り口で、吉田は一軒の店を指差す。
彼女が持っていた袋と同じオレンジ色の軒先に、ガラス張りのパン屋があった。外からでもわかるほど、たくさんのパンがずらりと並んでいる。
「ぶーらん……じぇりー……リフレイン……?」
「ブーランジェリー・ルフラン。フランス語だな」
軒先に書かれた店名を俺が読み終わる前に、吉田が答えた。
へえ、と答えて視線を店に戻す。
お客さんが扉を開ける度に、パンの焼ける匂いが漂ってきた。その香りにつられて今朝のパンの味を思い出し、また腹が鳴りそうになる。
「こんなところにパン屋があったのか、知らなかった」
俺がそう言うと、
「わりと人気だぞ、ここ。お前んちが特殊なだけ」
吉田は苦笑いしながら扉を押した。
カランカラン、とドアについたベルが軽い音を立てる。
慣れた様子で店内に入る吉田の後に続いて、俺もそろそろと店内に足を踏み入れた。
俺たちの姿を認めた店員から、いらっしゃいませえ、と明るい声が飛んでくる。
吉田は迷わず『ホテル食パン』と書かれた食パンを手に取ってレジへと向かった。早々に会計を済ませ、似合わないウインクを俺に投げて店を出ていく。俺は顔をしかめた。男のウインクなんて嬉しくない。
改めて店内をぐるりと見渡した。
キノコの笠のような形のオレンジ色の照明が柔らかい光を放っている。レンガ模様の壁紙や落ち着いたアプリコット色の床は温かみがあり、緊張していた気分が穏やかになった。
棚やテーブルにはたくさんのパンが並んでいる。店内は小麦の香りで満たされていて、母が来たら発狂しそうだ。俺にとっては天国だが。
入口の方から順番に並んだパンを見て回る。
「新商品」のポップがついたチーズインカレーパン、スイートコーンがつやつや光るコーンパン、フランスパンにチーズを入れたチーズバタール、チョコが溢れそうなチョココロネ、花の形の桜あんぱん、あの子が咥えていたあんぱん、そして俺が今朝食べて虜になったムトン。
ごくり、と唾を飲み込んだ。俺が知らなかっただけで、こんなにも美味そうなパンが世界にはあったのか。
「お客様っ、トレーをどうぞ」
声に振り向くと、エプロンに身を包んだ女性店員が立っていた。
トレイとトングを俺に渡しながら、彼女は俺の顔を何かを探すようにじっと見る。なんだ、とたじろいでいると、彼女はぱっと笑顔になった。
「あ、今朝の……パン欲しそうだった子じゃん! 来てくれたんだ!」
言われて俺も記憶の箱をひっくり返す。たしかにぶつかった女の子はこの子だったような気がするような、しないような。やはりパンしか思い出せない。
俺は曖昧な笑みを浮かべて頭を下げた。
「今朝はすいませんでした、ぶつかっちゃって」
「いやいやいや! 私の不注意だし!」
彼女は両手をブンブンと振って笑う。屈託のない笑顔は子供みたいだ。
胸元に付いている名札には『橋下』と書かれている。橋下さんっていうのか、と改めて顔と名前を頭に刻み込んだ。
「パン、美味しかったです」
そう言うと彼女はまた朗らかに笑った。
「よかった、お口にあったみたいで。今朝のパンはそのムトンね。あとおすすめはチーズバタールと、えーと……」
橋下さんは嬉々として説明を始める。俺は慌てて説明を止めた。
「や、今日はそんな買えなくて」
「そうなの? 残念」
彼女はしょんぼりと眉を下げた。感情がすぐに顔に出るのが可愛らしい。素直な彼女につられて、俺もぽろりと呟いた。
「今日は、というかいつも無理なんです、俺の家」
彼女はきょとんとした顔で首を傾げる。
「どうして? アレルギーとか?」
俺は首を横に振った。
「パン嫌いな奴が家にいるんです」
それだけ言って唇を噛んだ。
パン屋で働き、パンの説明をすらすらできるほどパンが好きな彼女に、母の話をするのはなんとなく憚られた。
誤魔化すようにあんぱんをトレイに乗せて、レジに向かう。彼女も慌ててレジへと走った。
お金を払い、オレンジ色の袋に入ったパンを受け取る。お釣りを用意した彼女は、レジから出てきたレシートを素早く切り取って裏に何かを書き始めた。
「これ、私の連絡先。連絡してくれたら嬉しい」
お釣りと共に手のひらに乗せられたレシートには、名前の横に電話番号とメッセージのIDが書いてある。
「や、なんでそこまで」
戸惑って返そうとする俺に、彼女はきっぱりと言い放った。
「私、パンが好きなの。将来はパン屋になりたいくらい。だから、アレルギー以外でパンが嫌いな人をなくしたいの」
真っ直ぐな視線が俺を射る。
変な奴。俺は黙ってレシートをポケットに入れ、彼女に軽く会釈をして店を出た。
カランカラン、というベルの音が、いつまでも耳に残っていた。
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