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イシュラヴァール拾遺
番外編 朝焼け
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イシュラヴァール王国の政変から二年近くが経とうとしていた。
新王バハルは王都ララ=アルサーシャと、アルヴィラ解放戦線が制圧した砂漠のおよそ半分ほどに及ぶ地域とを治めていた。一方、前王マルスはアズハル湾を本拠地として、西側の海岸沿いの地域を次々と支配下に取り込んでいた。マルスは海賊をも従えて西側の周辺国との交易路をすべて押さえていたため、新政権は外交もままならなかった。勢い、東のアルナハブ王国との繋がりが強くなっていったが、アルナハブもまたイシュラヴァール新政権と懇意にしているダレイ派とニケ王妃派でまっぷたつに分かれ、不安定な政情が続いていた。
唯一中立を保っているレーの港はカナン一派が仕切っていた。カナン自由民には正式な軍隊はなかったが、カナンを構成する人々の多くが軍経験者ということもあり、強力な自警団によって町の治安が守られていた。カナンの勢力もまた、イシュラヴァール各地に拠点を増やしていった。というのも、奴隷解放を掲げていたために国内外の逃亡奴隷や解放奴隷がこぞってレーを目指したのだ。レーの町は前王時代の三倍の規模まで膨れ上がった。レーでは奴隷たちにレーの市民として登録証を発行していたため、奴隷たちは新たな職業につき、また町を出て新しい生活を始める者も多かった。彼らは街道沿いに町を作り、新たなカナンの拠点としたのだ。
更に、地方を治めていた豪族の中には、この乱に便乗して一旗揚げようという者もいた。南部の辺境では、盗賊上がりのような者たちまでが勢いづいて、王国は先の見えない混迷の時代へと転がり落ちていくようだった。
人々は次第に、この混乱を治める指導者を待ち望むようになった。
傀儡のバハルに代わってアトラスが王になるべきという者。逆にアトラスを排してバハルが自ら統治すべきという者。前王マルスを呼び戻すべきだという者。いっそイシュラヴァール王家を解体し、アルヴィラの指導者ジェイクが主導して遊牧民国家を独立させるべきだという者。カナン自由民も例外ではなく、イランやカナルのもとにはカナンの独立を望む声が幾度となく寄せられた。
「カナンは今頃、何やってんだろうなぁ」
イランは時折、星空を見上げて呟く。いつか船の上で、同じようにカナンと星空を見上げたことを思い出す。
『未練がましいなぁ、イラン』
酒瓶を手にしたカナルが、イランの横にどっかりと座って酒を勧めてきた。カナルはイランと二人きりの時は、まだアルナハブ語になる。
『心配しなくても、ユーリと仲良く旅してるって話だぜ』
『誰から聞いた?』
『行商人さ。ずっと南の市場で会ったっていうから、ひと月以上前じゃないか』
『ジェイクとは決裂してるからなぁ。北部には近寄りたくないだろうな』
そう言って、イランはカナルに注がれた酒を一口飲んだ。
『焦らなくても、いずれまた会えるさ』
カナルもまた、ぐいと酒を煽った。
『この状況は長くは続かねぇよ。いつか必ず、カナンもユーリも表舞台に出てくる』
『そうだなぁ……あいつは望まないだろうが』
イランは苦笑した。
『どうだろうな?星の位置だって、何千年もたてば変わっちまう。人の心だって変わらないわけがねえ』
『――それでも、あいつは俺のとこには来ないだろうさ』
盃に滴り落ちるように呟かれた言葉に、カナルはイランの背をぽんと叩いて応えた。
*****
夜明け前、まだ真っ暗な岩場の中で、ふとユーリは目を覚ました。
(……ファーリア?)
ヌールはすうすうと健やかな寝息を立てて眠っている。
だが、その向こうにいるはずのファーリアの姿がない。
ユーリはヌールを起こさないよう細心の注意を払って起き上がると、岩場の外へ出た。
空がうっすらと白み始めている。
ユーリはぐるりと岩場の回りを駆けた。馬も駱駝も、静かに繋がれたままだ。
ファーリア、と大声で叫びそうになったユーリの頭上から、囁くような声が降ってきた。
「ユーリ」
「……ファーリア!」
見上げると、岩棚の上にファーリアがいた。
ユーリはほうっと息を吐くと、岩棚によじ登ってファーリアを抱きしめた。
「どうしたの?」
「……また、どこかへ消えたのかと」
「ちょっと早く目がさめただけよ」
ファーリアは安心させるようにユーリの頭を撫でた。
「信じてないわけじゃないんだ」
ファーリアを抱きしめたまま、ユーリが言った。
「わかってる」
東の地平が輪郭を現して、あたりが徐々に明るくなっていく。
「ねえ、ユーリ。これ見て」
ファーリアが、二人の座っていた岩棚の少し先を指した。
そこには、岩を石でひっかいたような跡があった。
「ここ、前にも来たことがあったのね」
その跡を指先でなぞりながら、ファーリアが言った。
「ああ」
ユーリは思い出した。この跡はファーリアがつけたものだ。もう何年も前、二人が出逢って間もない頃に、この岩屋に泊まった、その時に。すっかり消えてしまって僅かな跡しかのこっていないが、それはファーリアが描いたものだった。
「思い出した……お前の絵だ」
「見た?」
「ああ、ちゃんと見たよ。俺がここに来たときには、ジャヤトリアの兵がいたが」
「お礼をしたかったの。でもわたし、字が書けなかったから」
ファーリアは近くにあった石を拾って、古い跡をなぞった。
「……あんまりうまく描けないわね」
そう言いながらファーリアが描いたのは、数年前と同じ、笑い合う男女の絵だった。
「そんなことはない。でも、なんで俺は――間に合わなかったんだろうな、あの時」
ファーリアは、二人の間に一回り小さな笑顔を描く。
「いいの。わたし、何も後悔していない。だってヌールが生まれたんだもの。無駄なことなんてなかったのよ、何も」
「ファーリア……」
ユーリはファーリアの背中を抱きしめた。
朝日が岩棚をオレンジ色に染めていく。
「それにね、ユーリ」
ヌールを描き終えたファーリアは、更にその横に小さな丸を描いた。
眠るように両眼を閉じて、口元に微笑みを浮かべた小さな小さな顔。
「……ファーリア、まさか……!」
ファーリアはユーリを振り返った。少し恥ずかしそうな、喜びを抑えきれない顔で。
「名前、考えてね。お父さん」
*****
完読ありがとうございました。
続編「イシュラヴァール戦記」執筆中です。
もしよろしければ、そちらもどうぞよろしくお願いします。
新王バハルは王都ララ=アルサーシャと、アルヴィラ解放戦線が制圧した砂漠のおよそ半分ほどに及ぶ地域とを治めていた。一方、前王マルスはアズハル湾を本拠地として、西側の海岸沿いの地域を次々と支配下に取り込んでいた。マルスは海賊をも従えて西側の周辺国との交易路をすべて押さえていたため、新政権は外交もままならなかった。勢い、東のアルナハブ王国との繋がりが強くなっていったが、アルナハブもまたイシュラヴァール新政権と懇意にしているダレイ派とニケ王妃派でまっぷたつに分かれ、不安定な政情が続いていた。
唯一中立を保っているレーの港はカナン一派が仕切っていた。カナン自由民には正式な軍隊はなかったが、カナンを構成する人々の多くが軍経験者ということもあり、強力な自警団によって町の治安が守られていた。カナンの勢力もまた、イシュラヴァール各地に拠点を増やしていった。というのも、奴隷解放を掲げていたために国内外の逃亡奴隷や解放奴隷がこぞってレーを目指したのだ。レーの町は前王時代の三倍の規模まで膨れ上がった。レーでは奴隷たちにレーの市民として登録証を発行していたため、奴隷たちは新たな職業につき、また町を出て新しい生活を始める者も多かった。彼らは街道沿いに町を作り、新たなカナンの拠点としたのだ。
更に、地方を治めていた豪族の中には、この乱に便乗して一旗揚げようという者もいた。南部の辺境では、盗賊上がりのような者たちまでが勢いづいて、王国は先の見えない混迷の時代へと転がり落ちていくようだった。
人々は次第に、この混乱を治める指導者を待ち望むようになった。
傀儡のバハルに代わってアトラスが王になるべきという者。逆にアトラスを排してバハルが自ら統治すべきという者。前王マルスを呼び戻すべきだという者。いっそイシュラヴァール王家を解体し、アルヴィラの指導者ジェイクが主導して遊牧民国家を独立させるべきだという者。カナン自由民も例外ではなく、イランやカナルのもとにはカナンの独立を望む声が幾度となく寄せられた。
「カナンは今頃、何やってんだろうなぁ」
イランは時折、星空を見上げて呟く。いつか船の上で、同じようにカナンと星空を見上げたことを思い出す。
『未練がましいなぁ、イラン』
酒瓶を手にしたカナルが、イランの横にどっかりと座って酒を勧めてきた。カナルはイランと二人きりの時は、まだアルナハブ語になる。
『心配しなくても、ユーリと仲良く旅してるって話だぜ』
『誰から聞いた?』
『行商人さ。ずっと南の市場で会ったっていうから、ひと月以上前じゃないか』
『ジェイクとは決裂してるからなぁ。北部には近寄りたくないだろうな』
そう言って、イランはカナルに注がれた酒を一口飲んだ。
『焦らなくても、いずれまた会えるさ』
カナルもまた、ぐいと酒を煽った。
『この状況は長くは続かねぇよ。いつか必ず、カナンもユーリも表舞台に出てくる』
『そうだなぁ……あいつは望まないだろうが』
イランは苦笑した。
『どうだろうな?星の位置だって、何千年もたてば変わっちまう。人の心だって変わらないわけがねえ』
『――それでも、あいつは俺のとこには来ないだろうさ』
盃に滴り落ちるように呟かれた言葉に、カナルはイランの背をぽんと叩いて応えた。
*****
夜明け前、まだ真っ暗な岩場の中で、ふとユーリは目を覚ました。
(……ファーリア?)
ヌールはすうすうと健やかな寝息を立てて眠っている。
だが、その向こうにいるはずのファーリアの姿がない。
ユーリはヌールを起こさないよう細心の注意を払って起き上がると、岩場の外へ出た。
空がうっすらと白み始めている。
ユーリはぐるりと岩場の回りを駆けた。馬も駱駝も、静かに繋がれたままだ。
ファーリア、と大声で叫びそうになったユーリの頭上から、囁くような声が降ってきた。
「ユーリ」
「……ファーリア!」
見上げると、岩棚の上にファーリアがいた。
ユーリはほうっと息を吐くと、岩棚によじ登ってファーリアを抱きしめた。
「どうしたの?」
「……また、どこかへ消えたのかと」
「ちょっと早く目がさめただけよ」
ファーリアは安心させるようにユーリの頭を撫でた。
「信じてないわけじゃないんだ」
ファーリアを抱きしめたまま、ユーリが言った。
「わかってる」
東の地平が輪郭を現して、あたりが徐々に明るくなっていく。
「ねえ、ユーリ。これ見て」
ファーリアが、二人の座っていた岩棚の少し先を指した。
そこには、岩を石でひっかいたような跡があった。
「ここ、前にも来たことがあったのね」
その跡を指先でなぞりながら、ファーリアが言った。
「ああ」
ユーリは思い出した。この跡はファーリアがつけたものだ。もう何年も前、二人が出逢って間もない頃に、この岩屋に泊まった、その時に。すっかり消えてしまって僅かな跡しかのこっていないが、それはファーリアが描いたものだった。
「思い出した……お前の絵だ」
「見た?」
「ああ、ちゃんと見たよ。俺がここに来たときには、ジャヤトリアの兵がいたが」
「お礼をしたかったの。でもわたし、字が書けなかったから」
ファーリアは近くにあった石を拾って、古い跡をなぞった。
「……あんまりうまく描けないわね」
そう言いながらファーリアが描いたのは、数年前と同じ、笑い合う男女の絵だった。
「そんなことはない。でも、なんで俺は――間に合わなかったんだろうな、あの時」
ファーリアは、二人の間に一回り小さな笑顔を描く。
「いいの。わたし、何も後悔していない。だってヌールが生まれたんだもの。無駄なことなんてなかったのよ、何も」
「ファーリア……」
ユーリはファーリアの背中を抱きしめた。
朝日が岩棚をオレンジ色に染めていく。
「それにね、ユーリ」
ヌールを描き終えたファーリアは、更にその横に小さな丸を描いた。
眠るように両眼を閉じて、口元に微笑みを浮かべた小さな小さな顔。
「……ファーリア、まさか……!」
ファーリアはユーリを振り返った。少し恥ずかしそうな、喜びを抑えきれない顔で。
「名前、考えてね。お父さん」
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