イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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イシュラヴァール拾遺

番外編 オアシスの夜 3

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 ずっと恐れていた。
 この娘は、いつか逃げていってしまうのではないか。
 伸ばした手の、指先をすり抜けて。
 出逢った日からずっと抱いていた、それはあまりにリアルな予感。

 *

 マルスはファーリアを追って、夜の庭へ飛び出した。
「逃がすか……!」
 軍服だったら見失っていたかもしれない。そうマルスが思うほど、ファーリアは音もなく、とてもすばしこく逃げた。だが着慣れない長衣はファーリアの脚にひらひらと絡みつき、夜目に白く浮かび上がって、マルスに居場所を知らせた。
 下草に足を取られて転びかけたファーリアを、抱きすくめるように捕まえる。
 二人はそのまま柔らかな草の上に倒れ込んだ。
 両眼をいっぱいに見開いて見上げてくるファーリアは、どんな高級娼婦も敵わないほどの艶めかしい色香を放っていた。むせかえるほどの芳香がマルスの情欲を掻き立て、下腹が熱く凝血するのを感じる。
(殻だ)
と、マルスは思った。ファーリアを覆う、恐ろしく硬い殻。こんなにも甘い蜜を滴らせながらも、その殻は固く閉じている。
「私を――そこいらの男どもと同じと思うか」
 マルスの迫力に気圧されたのか、ファーリアは声も出せないまま首を振った。
「では逃げるな。私はそなたの躰を使りはせぬ。そなたが――」
 マルスは白く浮かび上がった細いうなじに唇を押し付けた。
「私を欲しがるまではな」
「……っ!」
 首筋にやんわりと歯を立てると、ひく、とファーリアが反応した。
(硬い……)
 まるで胡桃の殻のようだ、とマルスは思った。ファーリアは両眼を閉じて眉根を寄せ、息を詰めている。無理もない、誰もこの娘に教えなかったのだ。愛される幸福も、快楽の感じ方も。
「ファーリア……」
 強張った唇を割り開いて、きれいに並んだ歯列をなぞり、小さな舌を絡め取る。ファーリアの全身がびくんと痙攣した。その舌は、まだうっすらと血の味がした。ジャヤトリア辺境伯が穿ち抜いた跡が、痛々しく血を流していた。
 マルスの中に怒りが蘇った。
 その時ふと、視界の端に黒々とした井戸の影をみとめた。
「水汲みをしていたというのは、そこの井戸か」
「!」
 ファーリアは息を呑んだ。唇を噛み、目を逸らす。恐怖とも羞恥ともいえない表情が広がっている。
 マルスは嫉妬が沸き起こるのを感じた。
「……書き換えてやる……」
 ぽつりとマルスが呟いた。
「え……?」
「この屋敷に残る記憶など、今夜一晩ですべて書き換えてやろうと言ったのだ」
 そしてマルスは再びファーリアに唇を重ねた。その貪るような激しさに、ファーリアはただ圧倒された。

 女を抱くのに、こんなにも感情に支配されるのは、いったい何年ぶりだろう――とマルスは思った。
(すっかり忘れていた――嫉妬などという感情は)
 あれはかつて、若いマルスが夢中で愛した妃が、死神に魅入られたと知った時だった。
 当時のマルスは、歴代の王の中でも傑物と言われていた。蛮族が割拠する砂漠地帯を制圧し、周辺の強国と肩を並べると同時に、外交にも力を入れた。精悍な肉体の内側では熱い血がたぎって鎮まることがなく、知力は先の先まで見通して、眠っている時ですら戦略を組み立てることができた。そして当然の如く、溢れ続けるエネルギーを受け止める者を求めた。
 美しく賢いヤスミン妃は、マルスの才知に見合うだけの器量を持っていたし、若い二人が深く心を通わせて愛し合うようになるのはごく自然な流れだった。マルスは後宮の他の姫には目もくれず、一途にヤスミンを愛したのだ。
 しかし、精力漲るマルスの愛は、一人の女が受け止めるにはあまりに激しすぎた。
 マルスが愛すれば愛するほど、ヤスミンの身体は疲弊していった。愛の結晶のはずの第二子懐妊が、それに追い打ちをかけた。身体に障るからと医師に遠ざけられ、やがて触れることすらままならなくなった。
 行き場を失ったエネルギーを持て余し、更にそう遠くない未来に愛する妃を失うという予感に、マルスは煩悶した。荒れ狂う感情を抑えきれずに、目につくものを片端から破壊したこともある。そのたびに側近のシハーブがマルスを部屋に閉じ込めて、周囲を人払いして回った。
 唯一の理解者であり、生涯の伴侶だと信じた女は、あっけなく奪われた。
 マルスは運命を呪い、死神に嫉妬した。ヤスミンが神の元へ去ったというなら、神はマルスの敵だった。
 ヤスミンの死後、マルスは固く心を閉ざし、ひたすら政務に励んだ。理性の殻の中に感情を閉じ込めておかないと、気が狂いそうだった。しかし、発狂するにはマルスは聡明すぎたし、自らの立場もよく理解していた。
 結果、感情に流されることの一切ない、冷徹すぎるほど計算しつくされたマルスの治世は、皮肉にも王国を繁栄に導いたのだった。
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