211 / 230
イシュラヴァール拾遺
番外編 東方異聞 前編★☆
しおりを挟む
タリム過去編です。
*****
海に焦がれるのは、海のない土地に育ったからだ。
たまに陸に上がると、思い出す風景がある。波の揺れを感じない夜が、古い記憶を呼び覚ます。
ひたすら風ばかりが吹く、寒い砂漠。
それは、遠すぎる故郷。
東の果てには、かつて世界の半分を支配した大国があった。その大国と、アルナハブ以西の国々との間には、広大な砂漠が広がっている。
その砂漠に住む民は、荒涼とした大地にわずかに残る草原を求めて、移動しながら生活していた。羊を飼い、この地域特有の分厚い羊毛に包まれた円形のテントで、厳寒の冬を凌いでいた。
タリムはその寒い土地に生まれた。
タリムには兄が八人、姉が四人いた。タリムは末っ子の特権よろしく、兄姉たちや老いた父母に溺愛されて幼少期を過ごした。
タリムの父は係累が多く、時に二十以上のテントが張られた。タリム一家のテントはその中でも一番大きかった。
「儂はこの国の王さまだからな」
乳酒で酔った父は、膝にタリムを乗せて、よくそんなことを言った。タリムは子供心に父の言葉を冗談か比喩だと思った。タリムがまだ小さな子供だと思って、喜ばせるために言っているのだと思った。頬を赤く染めた父の体温の熱さを、タリムはまだ覚えている。
「王さまなら、お城に住むんじゃないの。金や宝石もいっぱい持っているんじゃないの」
皆がくれるたくさんの絵本を読んで育ったせいで、賢しいタリムは無邪気に聞いた。父は豪放に笑った。
「タリム、この国の城は、このテントだ。どんな豪華な城より温かいし、羊と共に移動もできる。この国の宝石は羊だ。もしお前が移動できない城に住んでいたら、宝石は草を追いかけていなくなってしまうぞ」
国、というのがタリムにはよくわからなかった。
物語にはよく、尖った屋根の城や冠をかぶった王さまやドレスを着たお姫様が登場した。だがタリムの周囲にはそんなものは何ひとつない。この砂漠の民は部族ごとにゆるやかに繋がって生活しているが、彼らをまとめる国や王さまの存在があるなどと、実感したことがなかった。
だがある日、やはり父は王だったのだと知る。
寒い砂漠の更に北、一年の半分が雪に埋もれる極寒の地を支配する帝国と、東の大国、西のアルナハブに囲まれて、砂漠の民は古来より幾度となく侵略の憂き目に遭ってきた。
タリムが十歳になった年、大規模な不作が大陸を襲った。不作は再び侵略を呼んだ。
その日、タリムの父の元に大勢の人々が押し寄せた。多くが、戦いの準備をして駆けつけた戦士たちだった。女も、タリムほどの子供もいた。周辺には見たこともない数のテントが集まっていた。集まった数百頭の馬に、羊たちは怯えた。
「戦っても勝ち目はない。逃げよう。奴らは所詮、砂漠では生きていけない。逃げて生き延びれば、いつか必ずまた戻ってこれる。逃げろ。生きろ」
父は言った。
戦士たちは家族を守って戦いながら逃げた。南へ南へと。
味方の数はどんどん減っていった。
気付けば三方を十倍の数の兵に囲まれていた。南には、天に届く壁のように、巨大な山々が連なっていた。
「ここまでか……」
タリムの父は足を止めた。
「ここは儂らが食い止める。皆、なんとしても生き延びろ」
馬に乗り弓を手に、父と兄たちが敵に向かっていく。
タリムと四人の姉は、ここまで生き残っていたわずかな人々と共に、南の山脈を目指した。山々は純白の雪を纏って、青空に眩しく輝いていた。
「逃げろ、タリム。生きろ」
父の声を背に、タリムは姉たちと山に入った。
大きなテントはもう手放していたので、タリムたちは山道に設けられた寺や山小屋で夜を過ごした。幸い麓付近にはまだ雪はなかった。
山には山賊が出る。
その夜、タリムたちが泊まっていた無人の寺院を、山賊が襲った。
「きゃあああ!」
十人ほどの山賊たちに、四人の姉たちは代わる代わる犯された。
朝になると倍の数の仲間たちがやってきて、更に犯した。
三番目の姉は、前と後ろから同時に犯されながら絶命した。
二番目の姉は、ぐったりと脱力したまま男たちに抱かれていたが、突然、奇声を上げた。
「キャーーーーッハハハハ!ああアハッあはあアアア!!!」
そして裸のまま脱兎のごとく駆け出していって、崖から身を投げた。
女を失った男たちは、タリムのことも犯した。
地面に引き倒され、乱暴にズボンを下ろされる。ごつごつとした砂礫に押し付けられた背中が痛い。
「見ろよ、そこらの女よりきれいな尻だぜえ!」
タリムの視界に、青空に鋭角にそびえる、真っ白な山が映った。
(なんて美しいんだろう)
タリムはぼんやりと思った。
血と泥と垢と精液にまみれて、地上にいる人間たちはこんなにも汚いのに。
『南には、聖なる山脈がある』
ふと、幼い頃に父から聞いた言葉を思い出した。
『大昔、そこは地の果てだと言われていた。山は白い女神と恐れられていた。だが、その山々を越えてゆく者が現れた。彼ら山の民によって道は拓かれ、山脈の向こう側へ行くことも可能になった』
山の向こうには何があるの、と、幼いタリムは尋ねた。父はにっこりと笑って言った。
『海がある』
*****
海に焦がれるのは、海のない土地に育ったからだ。
たまに陸に上がると、思い出す風景がある。波の揺れを感じない夜が、古い記憶を呼び覚ます。
ひたすら風ばかりが吹く、寒い砂漠。
それは、遠すぎる故郷。
東の果てには、かつて世界の半分を支配した大国があった。その大国と、アルナハブ以西の国々との間には、広大な砂漠が広がっている。
その砂漠に住む民は、荒涼とした大地にわずかに残る草原を求めて、移動しながら生活していた。羊を飼い、この地域特有の分厚い羊毛に包まれた円形のテントで、厳寒の冬を凌いでいた。
タリムはその寒い土地に生まれた。
タリムには兄が八人、姉が四人いた。タリムは末っ子の特権よろしく、兄姉たちや老いた父母に溺愛されて幼少期を過ごした。
タリムの父は係累が多く、時に二十以上のテントが張られた。タリム一家のテントはその中でも一番大きかった。
「儂はこの国の王さまだからな」
乳酒で酔った父は、膝にタリムを乗せて、よくそんなことを言った。タリムは子供心に父の言葉を冗談か比喩だと思った。タリムがまだ小さな子供だと思って、喜ばせるために言っているのだと思った。頬を赤く染めた父の体温の熱さを、タリムはまだ覚えている。
「王さまなら、お城に住むんじゃないの。金や宝石もいっぱい持っているんじゃないの」
皆がくれるたくさんの絵本を読んで育ったせいで、賢しいタリムは無邪気に聞いた。父は豪放に笑った。
「タリム、この国の城は、このテントだ。どんな豪華な城より温かいし、羊と共に移動もできる。この国の宝石は羊だ。もしお前が移動できない城に住んでいたら、宝石は草を追いかけていなくなってしまうぞ」
国、というのがタリムにはよくわからなかった。
物語にはよく、尖った屋根の城や冠をかぶった王さまやドレスを着たお姫様が登場した。だがタリムの周囲にはそんなものは何ひとつない。この砂漠の民は部族ごとにゆるやかに繋がって生活しているが、彼らをまとめる国や王さまの存在があるなどと、実感したことがなかった。
だがある日、やはり父は王だったのだと知る。
寒い砂漠の更に北、一年の半分が雪に埋もれる極寒の地を支配する帝国と、東の大国、西のアルナハブに囲まれて、砂漠の民は古来より幾度となく侵略の憂き目に遭ってきた。
タリムが十歳になった年、大規模な不作が大陸を襲った。不作は再び侵略を呼んだ。
その日、タリムの父の元に大勢の人々が押し寄せた。多くが、戦いの準備をして駆けつけた戦士たちだった。女も、タリムほどの子供もいた。周辺には見たこともない数のテントが集まっていた。集まった数百頭の馬に、羊たちは怯えた。
「戦っても勝ち目はない。逃げよう。奴らは所詮、砂漠では生きていけない。逃げて生き延びれば、いつか必ずまた戻ってこれる。逃げろ。生きろ」
父は言った。
戦士たちは家族を守って戦いながら逃げた。南へ南へと。
味方の数はどんどん減っていった。
気付けば三方を十倍の数の兵に囲まれていた。南には、天に届く壁のように、巨大な山々が連なっていた。
「ここまでか……」
タリムの父は足を止めた。
「ここは儂らが食い止める。皆、なんとしても生き延びろ」
馬に乗り弓を手に、父と兄たちが敵に向かっていく。
タリムと四人の姉は、ここまで生き残っていたわずかな人々と共に、南の山脈を目指した。山々は純白の雪を纏って、青空に眩しく輝いていた。
「逃げろ、タリム。生きろ」
父の声を背に、タリムは姉たちと山に入った。
大きなテントはもう手放していたので、タリムたちは山道に設けられた寺や山小屋で夜を過ごした。幸い麓付近にはまだ雪はなかった。
山には山賊が出る。
その夜、タリムたちが泊まっていた無人の寺院を、山賊が襲った。
「きゃあああ!」
十人ほどの山賊たちに、四人の姉たちは代わる代わる犯された。
朝になると倍の数の仲間たちがやってきて、更に犯した。
三番目の姉は、前と後ろから同時に犯されながら絶命した。
二番目の姉は、ぐったりと脱力したまま男たちに抱かれていたが、突然、奇声を上げた。
「キャーーーーッハハハハ!ああアハッあはあアアア!!!」
そして裸のまま脱兎のごとく駆け出していって、崖から身を投げた。
女を失った男たちは、タリムのことも犯した。
地面に引き倒され、乱暴にズボンを下ろされる。ごつごつとした砂礫に押し付けられた背中が痛い。
「見ろよ、そこらの女よりきれいな尻だぜえ!」
タリムの視界に、青空に鋭角にそびえる、真っ白な山が映った。
(なんて美しいんだろう)
タリムはぼんやりと思った。
血と泥と垢と精液にまみれて、地上にいる人間たちはこんなにも汚いのに。
『南には、聖なる山脈がある』
ふと、幼い頃に父から聞いた言葉を思い出した。
『大昔、そこは地の果てだと言われていた。山は白い女神と恐れられていた。だが、その山々を越えてゆく者が現れた。彼ら山の民によって道は拓かれ、山脈の向こう側へ行くことも可能になった』
山の向こうには何があるの、と、幼いタリムは尋ねた。父はにっこりと笑って言った。
『海がある』
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
94
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる