イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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第十章 王都編

希望の欠片☆★

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 スラムで大怪我を負ったエディは、ひと月ほど生死の境を彷徨っていた。
 一命を取り留めてからも、回復までは更に長い時間を要した。ようやく起き上がって歩けるようになったのは、事件から四ヶ月後のことだった。
「エディアカラ少佐!どちらへ?」
 救護院から出ようとしたエディを、看護師が呼び止めた。
「ちょっと散歩に。ずっと寝てばかりで筋肉が落ちてしまったので、少しは鍛えないと」
 エディは振り返って笑った。
「あまり無理しないでくださいよ?軍部なんかに行ったら絶対ダメですからね!?」
 看護師は念を押した。救護院に運び込まれる兵士の中には仕事熱心な者もいて、動けるようになるとすぐに訓練に戻ろうとする。そしてせっかく塞がった傷が開いて再び運び込まれる者が後をたたないのだ。
「分かってますよ。ちょっとそのへんを一周したら戻りますから」
 エディは爽やかな笑顔で答えた。
 折れた鎖骨は、歩くとまだ違和感があった。脚に受けた傷も痛む。寝ている分にはだいぶ痛みが治まってきていたが、やはり立って動き回るとなると話は違った。
「……これは、剣を持てるのはまだまだ先だな……」
 焦っても仕方がない、と頭では分かっていても、何かせずにはいられなかった。
 まだ起き上がれなかった頃に、スカイが昇進の辞令を持ってきた。ファーリアのことを尋ねると、「無事だよ。会わせるわけにはいかないけど」という答えが返ってきた。
(つまり彼女は、王宮ここのどこかにいる……恐らく監禁されて)
 エディは想像した。一度逃した寵姫が手元に戻ってきたのだ。王はファーリアを手放さないだろう。だがファーリアは、ユーリ・アトゥイーと繋がっていた。そしてそのユーリは今、軍部の奥の監獄で処刑を待っている――。だとしたら、ファーリアが監禁されているのは監獄であるはずがない。後宮は女達が出られないように宦官の目が光っているが、いかんせん人目に立ちすぎる。もしファーリアが後宮にいたならば、おしゃべりな女官たちの口からすぐに情報が漏れるだろう。それに、恐らく王は頻繁にファーリアのもとを訪れているはずだ。王が執着しているからファーリアは殺されないし、逃げられない。王がファーリアへの興味を失っているならば、話はこんなにこじれないのだ。良くも悪くも。
 足元に長い影が落ちて、エディは振り仰いだ。
「……塔か」
 ファーリアは、塔にいる。エディは確信した。
(王宮にある塔は、全部で八……いや、九か)
 正門の左右は、後宮と同じ理由で有り得ない。そもそも牢獄としてより敵に攻められた時の堡塁としての役割が大きい。となると、正門及び政庁のある宮殿の東側は候補から外れ、星の間よりも奥、後宮や救護院などがある西側の可能性が高い。
「最悪、軍部の中、っていう可能性も捨てきれないけど……」
 軍部で動き回れば、さすがにスカイの目を逃れられない。何も収穫のない今の段階で、彼に目をつけられるのは得策ではない。
 エディは散歩を日課にした。目立たないように毎日時間帯を変え、宮殿内を歩き回った。
「最近、処刑が減ったと思わないか?」
「ああ、以前まえは毎日のようにあったのにな」
「もう死刑にする捕虜も残っていないんじゃないか?」
「反乱軍とも膠着状態らしいし……これからどうなるんだろうな」
 すれ違いざまに、そんな会話が聞こえてくる。下っ端の役人たちだ。エディは引っかかるものを感じて、西側の小さな門を出た。
 門を出て右手にしばらく行くと、処刑場がある。エディはぶらぶらと散歩しているふうを装って、処刑場の方向へ向かった。
 広場では、確かに処刑は行われてはいなかった。処刑人の代わりに、大工たちが何やら木材を広場に運び入れている。
 エディは背後の城壁を振り仰いだ。果たしてそこには、古い塔が建っていた。
 いかにも大工たちが作っているものに興味がある、というていでちらちらとそちらへ視線を投げかけながら、エディは城壁に沿って歩いた。墓地へ続く閑散とした通りから砂混じりの風が吹いてきた。戦死者の弔いだろうか、処刑のない今日も葬送の歌が聞こえてくる。
 カサリ、と足元で白いものが動いた。その小さな白い塊を、エディは以前、見たことがある。もう何年も前のこと。
 エディはゆっくりと屈み込み、靴の紐を結び直した。そしてその白いものを拾った。
 それは破り取られた本の1ページだった。

   *****

 ――ユーリ……いや……見ないで…………
 ファーリアの声が、目の前で陵辱される姿が、ユーリの脳裏に焼き付いている。
 暗い地下牢で、ユーリは太く重い鎖に両手両足を繋がれ、死人のように横たわっていた。
 黒髪は艶を失って伸び放題に伸び、髭が顔面を覆った。囚人服にこびりついた血液はどす黒く変色し、包帯は膿の臭いを放った。食事は材料が何だったのかわからないほど酷いものだったが、幸い食欲が湧かない上に、何を食べても味すらも感じなかったので、気にならなかった。どうでも良かった。何かを考えようとすると、あのときのファーリアの姿が浮かんでくる。泣きながら喘ぐ声が聞こえてくる。すべての気力を失って、ユーリはただ呼吸していた。排泄の時だけはさすがに身体を起こし、牢の隅の溝で用を足した。排泄物が身体から出ていく時、まだ生きていることをぼんやりと実感した。
 ファーリアが嘆願してくれたのだろうか。ユーリへの拷問は止んでいた。
 しかしいずれ死刑になるのは確実だった。ある日は裁判官がわざわざ牢までやって来て、罪状を確認し、サインをさせられた。反論を述べるかと訊かれたが、裁判所で行われる公の裁判でもない、聴衆もいない場で遊牧民の窮状を訴えたところで、黙殺されるだけだ。ユーリは力なく首を振った。
 とうとう処刑の日も近いのか、と覚悟したが、それから何日経っても死刑執行人は現れなかった。
 裁判官が来た日、ユーリは数カ月ぶりに五分だけ身体を洗うことを許された。清潔な囚人服に着替えさせられ、後ろ手に縛られて髭を剃られた。
 撃たれた傷は癒えていた。
 ユーリは塞がった傷跡をひと撫でして、それから不意に立ち上がり、鉄柵に歩み寄った。鉄柵を両手で握りしめる。あの日ファーリアが掴んだ場所を。
 ひとまわり小さいファーリアの手を、ユーリは自分の手の中に感じた。それは幻だ。分かっている。
 ユーリは両眼を閉じて、あの日を思い起こした。
『――ユーリを、下ろして……』
 二人の男にとろとろに溶かされて、ファーリアは甘い声で泣いていた。
 耳を塞いでも、幻聴になって頭の中に響く。
『ユーリ……ユーリ……見ないで……』
 美しい王にファーリアが犯されるのを、ただ見上げるしかできない自分。弱くて、無力で、情けない自分。
 後ろから貫かれている間、ファーリアはこの柵にしがみついていた。声を上げまいと歯を食いしばって、ただ涙だけを流していた。
「くっ……!」
 記憶している光景が残酷すぎて、ユーリは唇を噛んだ。ぷつりと皮が裂けて血が滲む。
 王は微塵もその表情を変えずに、ファーリアを何度も何度も突き上げ、そして中に射精した。
 事を終えた王は、服を整えると身を翻し、側近たちと何事か会話をした。
 力尽きたファーリアは柵の前にずるずると倒れ込んだ。
『……ユーリ……』
 ファーリアの手が柵の間から伸びて、ユーリの手に触れた。

 ――その感触が、今もユーリの手に残っている。
『ユーリ……諦めないで……助けが来る……生きて……』
 そう、ファーリアは言ったのだ。王の眼が一瞬離れた僅かな隙を見計らって。
 ユーリは顔の前で両手を重ねて握りしめた。
「俺は……生きないと」
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