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第十章 王都編
懇願
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伸ばした手の、指先が空を掻いた。
両手首を縛られているせいでバランスを崩し、脚がもつれる。
「――――あ!」
ファーリアがユーリのもとへ駆け寄ろうとして、つまづいて転びかけたところを、マルスが抱きとめた。
「ユーリ、ユーリ……!」
ファーリアの細い身体がマルスの腕の中でもがく。鉄格子の向こう、囚われて吊るされて、痛めつけられているユーリに向かって、腕をいっぱいに伸ばして。
マルスは暴れるファーリアを背後から羽交い締め、その唇を塞いだ。
「ん……っ」
ファーリアの唇から清浄なものがマルスの中に流れ込んできた。長いことマルスの身体の中に凝っていた澱を洗い流していく。
意識を失いかけていたユーリは、ファーリアの声に呼び戻された。からだじゅうを覆う激痛と闘いながら、ユーリは顔をほんのすこしだけ上げた。
焦点の合わない視界に、ぼんやりとファーリアの姿が見えた。意識を手放そうとする脳に全力で逆らって、ユーリは何度か眼を瞬かせた。
「……ファーリア……?」
「ユーリぃっ!!」
ほとんど悲鳴に近いファーリアの声に、ユーリは徐々に覚醒した。
「……ほんとに……いた……ファーリア……」
ようやく両眼がファーリアに焦点を結んで、ユーリは小さく微笑んだ。大好きなファーリア。
「良かっ……生きて……たんだ……」
弱々しく言って、ユーリは眼を閉じた。
「ユーリ、ユーリ、ユーリっ!」
ユーリを呼び続けるファーリアの顔を仰向けさせて、マルスは再びその唇を塞いだ。
「……んん……!」
歯列を割り開き舌を絡めとり、甘い蜜を堪能する。
「……そろそろ私の名も呼んではくれぬか、ファーリア」
ようやく唇を離したマルスが、ファーリアの顔を見下ろして言った。
「マルス……さま……」
ああ。
どれほどこの声を愛していただろう。
マルスは鼓膜を震わせた小鳥のような声に、ひとときの陶酔を味わった。
「この趣向は、スカイ、お前だな」
マルスはファーリアの囚人服に気付いて言った。それは膝丈ほどの簡素な被り物だった。清潔ではあったが使い古しで、洗っても落ちない染みがあちこちに残っている。
地上への階段の陰から、スカイが姿を現した。
「レーでの失態の、ほんのお詫びにと……お気に召しませんでしたか?」
「服のセンスはシハーブの百倍、悪趣味だ。一体どこから拾ってきた?」
「スラムで狂人に襲われていたところを、偶然居合わせたエディアカラ大尉が。賊はエディが始末したのですが、彼も重傷を負って治療中です」
「エディアカラを昇格させておけ」
そう言って、マルスはまたファーリアに唇を重ねた。その存在を確かめるように、両腕できつく抱き締める。
「……っ、待っ……マルスさま!」
マルスに抱かれながら、ファーリアの眼はユーリばかり見つめていた。
血色のない顔色。鞭の痕が赤く浮き上がった肌。血で汚れた包帯。
「ユーリを、下ろして。ユーリが死んでしまう」
ファーリアは涙声で懇願した。
「そなたはまだ、この男が好きなのか」
「あなたが許せないのはわたしでしょう?打つならわたしを打てばいい、だから……だからユーリを……」
「ほう。この男の命乞いをするのか。この私に向かって」
マルスの心がゆっくりと冷えていった。
(だが、どうせこの男は死ぬのだ)
この男を助けたい一心で、戻ってきたのか。スラムに身を隠してまで。なんと可愛らしく、愚かで、嗜虐心を煽る女だろう。その愚かさを責め立て、虐め抜いてやりたい。
「……お願い……ユーリを、殺さないで……」
「それは聞けない相談だ。こいつは早晩、処刑される」
マルスは冷ややかに言い放った。
「私の国を脅かし、私の兵を何百人も殺した男だぞ。その罪は償ってもらわねば」
「あなたも殺しているでしょう!?なぜ彼だけが償うの?」
「なんだと……?」
「わたしも殺した、たくさんたくさん。でもそれは……っ」
ファーリアの頬を涙が伝った。背負ってしまったたくさんの十字架。望んだのは人の死なんかではなかったはずなのに。
「誰も、殺したくて殺してるわけじゃない……!」
「……知ったような口をきく」
この女はなぜこうもずけずけと意見するのか、とマルスは憤った。たかが奴隷上がりの小娘のくせに、折に触れてマルスが瞠目するようなことを言ってのける。それが、嫉妬にも似た苛立ちを呼び起こす。
「今更命の尊さでも私に説教する気か。私が何も感じていないとでも思うのか!」
マルスは恫喝した。
「いいえ、マルス、あなたは本当は嫌なんだわ。こんなこと、したくないはずなのに」
ファーリアは知っていた。姫を尋問した後の苦しげな顔も、ジャヤトリアでファーリアを救い出したときの、辺境伯への嫌悪に満ちた顔も。
「どうしてそうやって、自分の心を痛めつけるの?他の方法を考えないの?」
少し離れて二人のやり取りを聞いていたシハーブが怪訝そうに眉を寄せた。
(この娘は……誰を救おうとしているのだ?)
「――黙れ!そなたに何が分かる!」
マルスはファーリアの襟を締め上げた。と、その時。
「差し出がましいことを承知で、ひとつご提案ですが――陛下」
おもむろに、それまで黙っていた看守が口を挟んだ。
「先程陛下はこの男が何を証言しても真偽の程は分からぬと仰せになりましたが、その娘を使えばいくらでも正しい情報が引き出せるように、私には思えるのですが。つまり――」
「よい。皆まで言うな。だいたい察したわ。……その男を起こせ」
両手首を縛られているせいでバランスを崩し、脚がもつれる。
「――――あ!」
ファーリアがユーリのもとへ駆け寄ろうとして、つまづいて転びかけたところを、マルスが抱きとめた。
「ユーリ、ユーリ……!」
ファーリアの細い身体がマルスの腕の中でもがく。鉄格子の向こう、囚われて吊るされて、痛めつけられているユーリに向かって、腕をいっぱいに伸ばして。
マルスは暴れるファーリアを背後から羽交い締め、その唇を塞いだ。
「ん……っ」
ファーリアの唇から清浄なものがマルスの中に流れ込んできた。長いことマルスの身体の中に凝っていた澱を洗い流していく。
意識を失いかけていたユーリは、ファーリアの声に呼び戻された。からだじゅうを覆う激痛と闘いながら、ユーリは顔をほんのすこしだけ上げた。
焦点の合わない視界に、ぼんやりとファーリアの姿が見えた。意識を手放そうとする脳に全力で逆らって、ユーリは何度か眼を瞬かせた。
「……ファーリア……?」
「ユーリぃっ!!」
ほとんど悲鳴に近いファーリアの声に、ユーリは徐々に覚醒した。
「……ほんとに……いた……ファーリア……」
ようやく両眼がファーリアに焦点を結んで、ユーリは小さく微笑んだ。大好きなファーリア。
「良かっ……生きて……たんだ……」
弱々しく言って、ユーリは眼を閉じた。
「ユーリ、ユーリ、ユーリっ!」
ユーリを呼び続けるファーリアの顔を仰向けさせて、マルスは再びその唇を塞いだ。
「……んん……!」
歯列を割り開き舌を絡めとり、甘い蜜を堪能する。
「……そろそろ私の名も呼んではくれぬか、ファーリア」
ようやく唇を離したマルスが、ファーリアの顔を見下ろして言った。
「マルス……さま……」
ああ。
どれほどこの声を愛していただろう。
マルスは鼓膜を震わせた小鳥のような声に、ひとときの陶酔を味わった。
「この趣向は、スカイ、お前だな」
マルスはファーリアの囚人服に気付いて言った。それは膝丈ほどの簡素な被り物だった。清潔ではあったが使い古しで、洗っても落ちない染みがあちこちに残っている。
地上への階段の陰から、スカイが姿を現した。
「レーでの失態の、ほんのお詫びにと……お気に召しませんでしたか?」
「服のセンスはシハーブの百倍、悪趣味だ。一体どこから拾ってきた?」
「スラムで狂人に襲われていたところを、偶然居合わせたエディアカラ大尉が。賊はエディが始末したのですが、彼も重傷を負って治療中です」
「エディアカラを昇格させておけ」
そう言って、マルスはまたファーリアに唇を重ねた。その存在を確かめるように、両腕できつく抱き締める。
「……っ、待っ……マルスさま!」
マルスに抱かれながら、ファーリアの眼はユーリばかり見つめていた。
血色のない顔色。鞭の痕が赤く浮き上がった肌。血で汚れた包帯。
「ユーリを、下ろして。ユーリが死んでしまう」
ファーリアは涙声で懇願した。
「そなたはまだ、この男が好きなのか」
「あなたが許せないのはわたしでしょう?打つならわたしを打てばいい、だから……だからユーリを……」
「ほう。この男の命乞いをするのか。この私に向かって」
マルスの心がゆっくりと冷えていった。
(だが、どうせこの男は死ぬのだ)
この男を助けたい一心で、戻ってきたのか。スラムに身を隠してまで。なんと可愛らしく、愚かで、嗜虐心を煽る女だろう。その愚かさを責め立て、虐め抜いてやりたい。
「……お願い……ユーリを、殺さないで……」
「それは聞けない相談だ。こいつは早晩、処刑される」
マルスは冷ややかに言い放った。
「私の国を脅かし、私の兵を何百人も殺した男だぞ。その罪は償ってもらわねば」
「あなたも殺しているでしょう!?なぜ彼だけが償うの?」
「なんだと……?」
「わたしも殺した、たくさんたくさん。でもそれは……っ」
ファーリアの頬を涙が伝った。背負ってしまったたくさんの十字架。望んだのは人の死なんかではなかったはずなのに。
「誰も、殺したくて殺してるわけじゃない……!」
「……知ったような口をきく」
この女はなぜこうもずけずけと意見するのか、とマルスは憤った。たかが奴隷上がりの小娘のくせに、折に触れてマルスが瞠目するようなことを言ってのける。それが、嫉妬にも似た苛立ちを呼び起こす。
「今更命の尊さでも私に説教する気か。私が何も感じていないとでも思うのか!」
マルスは恫喝した。
「いいえ、マルス、あなたは本当は嫌なんだわ。こんなこと、したくないはずなのに」
ファーリアは知っていた。姫を尋問した後の苦しげな顔も、ジャヤトリアでファーリアを救い出したときの、辺境伯への嫌悪に満ちた顔も。
「どうしてそうやって、自分の心を痛めつけるの?他の方法を考えないの?」
少し離れて二人のやり取りを聞いていたシハーブが怪訝そうに眉を寄せた。
(この娘は……誰を救おうとしているのだ?)
「――黙れ!そなたに何が分かる!」
マルスはファーリアの襟を締め上げた。と、その時。
「差し出がましいことを承知で、ひとつご提案ですが――陛下」
おもむろに、それまで黙っていた看守が口を挟んだ。
「先程陛下はこの男が何を証言しても真偽の程は分からぬと仰せになりましたが、その娘を使えばいくらでも正しい情報が引き出せるように、私には思えるのですが。つまり――」
「よい。皆まで言うな。だいたい察したわ。……その男を起こせ」
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