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第十章 王都編
後悔
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「怪我人はどこだ」
スカイの声がして、人混みが割れた。複数の兵士を引き連れたスカイが現れ、エディのかたわらに膝をついた。
「重傷だな……。マフディ、止血して。すぐに病院に運ぶ」
「はい」
兵士の一人が携行していた布を裂いて止血帯を作り、手際よくエディの止血をする。別の兵士がどこからか担架を運んできて、エディを乗せていった。そうしている間にも、スカイはてきぱきとその場を処理していく。
「死体は夜が明けたら記録を取って片付ける。朝までに市中警備兵を寄越すから、二人残って見張れ。この中に犯人を見たものはいるか?」
スカイの問いかけに、集まった人々のうち何人かが、碧眼の男が去った方角を差した。
「三十代くらいの男でさあ。体格は、あんたよりひと回り大きいくらいかな」
「ありがとう」
証言した男に礼を言って、スカイは兵士を数人、捜索に向かわせた。
「さてと――ファーリア?」
スカイは、座り込んだまま放心しているファーリアを見た。
「それとも、カナン?」
ファーリアはその時初めて気付いたかのように、スカイを見上げた。
「……まったく、君ひとり捕まえるのに、レーの街ひとつ失っちゃったよ。ほんっと相変わらず、無茶な子だな」
スカイはファーリアの前にしゃがみ込むと、その血だらけの両手に縄を巻いた。顔も服も、返り血で真っ赤だった。
「ごめんね。でもここで君に逃げられたら流石に僕の立場がない」
ファーリアを縛りながら、スカイはちらりとファーリアの全身に目を走らせた。辛うじて尻が隠れる長さの上衣は、襟元を破られ、その下には何も穿いていない。血で汚れていて気づきにくいが、顔や体のあちこちに痣や擦り傷があり、髪は乱れ、服は泥で汚れていた。何があったのか、想像するに難くない。
「……酷い目に遭ったんだね。間に合わなくてごめん。僕がもっと早く君を捕まえていたら、こんなことにはならなかったのに」
それを聞いたファーリアの眼から、涙が溢れ出した。
「……あ……ああ……エディ、エディ、わたしのせい……わたしのせいで」
自分が『夜の兎』から逃げなければ。大人しくスカイに捕まっていれば。エディも自分もこんな目には遭わなかった。
――いや、そもそも、あの夜マルスのもとから逃げなかったら。
むしろ、砂漠でダーナを助けたりしなければ。
「ああ……!」
ファーリアは呻いた。
どこで間違ったのだろう。選ばなかった選択肢の先に、今よりもましな未来があったのだろうか。
レーの奴隷市を襲わなければ。
エクバターナでユーリに出会わなければ。
あのまま王都へ帰り、マルスの愛を受け入れていれば。
それとも銀の月の下で、マルスに出会わなければ。
あの夜、『夜の兎』でユーリとすれ違わなければ。
――あの遠い日に、初めて自分の足で駆けたあの灼熱の砂漠で、ユーリに出会わなければ。いっそあの時、太陽に灼かれて死んでいれば。
これほど多くの血が流れることはなかったかもしれない。
たくさんの人を傷つけることもなかったかもしれない。
声を押し殺して泣くファーリアを抱き上げて、スカイはスラムをあとにした。スカイの腕の中で、ファーリアは子供のように泣き続けた。
*****
どれくらい眠っていたのだろう。時間の感覚がない。薬を飲まされたのをぼんやりと覚えている。
そこは窓のない白い部屋だった。
見覚えのない、白い長衣を着せられている。身体にこびりついていた血や泥などの汚れは綺麗に拭い去られていたので、一瞬、あの出来事はぜんぶ夢だったんじゃないかと思ってしまったが、立ち上がった瞬間に陰部に違和感を感じて、やはりあれは現実だったのだと突きつけられた。
「やあ、目が覚めた?」
白く塗られたドアについた、小さな格子窓からスカイの顔が覗いた。
カチャリとドアが開き、スカイともう一人、兵士が部屋に入ってきた。兵士はファーリアの手首を縛った。
「ごめんね。君、意外と強いし、逃げ足早いから、仕方ないんだ。さ、行こう」
スカイはそう言って、ファーリアを部屋の外へ促した。褒められてはいないんだろうなと思いながら、ファーリアは素直に従った。
白い廊下には、同じように格子窓の着いた白いドアが並んでいた。ファーリアの左右をスカイと兵士が固めている。
「ここはね、精神を病んだ人のための病棟なんだ。大昔の戦争でそういう兵士がたくさんいたんだよ。君を牢獄に入れるわけにいかないし、シハーブ様の家は今更行きづらいだろうし、鍵のない部屋では君は容易く逃げてしまうでしょ?それで、ここにね」
ファーリアが連れて行かれたのは浴室だった。ガラス張りの部屋の向うにはスカイと兵士がいて、中が丸見えだ。
「患者が自傷したり自殺を図ったりしないように、こういう作りなんだよ。君についていた血は拭いただけだから、ちゃんと洗ってね」
縄を解きながらスカイは説明したが、スカイが警戒しているのは自殺ではなく脱走なのだとファーリアは理解していた。
丸裸にしてでも、もう二度と逃すまいという強い意志を感じて、ファーリアは開き直って服を脱いだ。
心地いい熱さの湯と香りのいい石鹸で、全身を洗い流す。
浴室を出ると、新しい衣類が用意されていた。
囚人服だった。
それを見て、ファーリアは自分の立場を痛いほど自覚した。と同時に、これはスカイがわざとやっているのだと察した。ファーリアに惨めさを突きつけて、戦意を削いでいるのだ。
スカイは再びファーリアの手首を縛り、言った。
「じゃあ、行こうか」
どこへ、とは聞かなかった。
ファーリアに選択の余地はなかったし、それに、おおよその見当はついていた。
スカイの声がして、人混みが割れた。複数の兵士を引き連れたスカイが現れ、エディのかたわらに膝をついた。
「重傷だな……。マフディ、止血して。すぐに病院に運ぶ」
「はい」
兵士の一人が携行していた布を裂いて止血帯を作り、手際よくエディの止血をする。別の兵士がどこからか担架を運んできて、エディを乗せていった。そうしている間にも、スカイはてきぱきとその場を処理していく。
「死体は夜が明けたら記録を取って片付ける。朝までに市中警備兵を寄越すから、二人残って見張れ。この中に犯人を見たものはいるか?」
スカイの問いかけに、集まった人々のうち何人かが、碧眼の男が去った方角を差した。
「三十代くらいの男でさあ。体格は、あんたよりひと回り大きいくらいかな」
「ありがとう」
証言した男に礼を言って、スカイは兵士を数人、捜索に向かわせた。
「さてと――ファーリア?」
スカイは、座り込んだまま放心しているファーリアを見た。
「それとも、カナン?」
ファーリアはその時初めて気付いたかのように、スカイを見上げた。
「……まったく、君ひとり捕まえるのに、レーの街ひとつ失っちゃったよ。ほんっと相変わらず、無茶な子だな」
スカイはファーリアの前にしゃがみ込むと、その血だらけの両手に縄を巻いた。顔も服も、返り血で真っ赤だった。
「ごめんね。でもここで君に逃げられたら流石に僕の立場がない」
ファーリアを縛りながら、スカイはちらりとファーリアの全身に目を走らせた。辛うじて尻が隠れる長さの上衣は、襟元を破られ、その下には何も穿いていない。血で汚れていて気づきにくいが、顔や体のあちこちに痣や擦り傷があり、髪は乱れ、服は泥で汚れていた。何があったのか、想像するに難くない。
「……酷い目に遭ったんだね。間に合わなくてごめん。僕がもっと早く君を捕まえていたら、こんなことにはならなかったのに」
それを聞いたファーリアの眼から、涙が溢れ出した。
「……あ……ああ……エディ、エディ、わたしのせい……わたしのせいで」
自分が『夜の兎』から逃げなければ。大人しくスカイに捕まっていれば。エディも自分もこんな目には遭わなかった。
――いや、そもそも、あの夜マルスのもとから逃げなかったら。
むしろ、砂漠でダーナを助けたりしなければ。
「ああ……!」
ファーリアは呻いた。
どこで間違ったのだろう。選ばなかった選択肢の先に、今よりもましな未来があったのだろうか。
レーの奴隷市を襲わなければ。
エクバターナでユーリに出会わなければ。
あのまま王都へ帰り、マルスの愛を受け入れていれば。
それとも銀の月の下で、マルスに出会わなければ。
あの夜、『夜の兎』でユーリとすれ違わなければ。
――あの遠い日に、初めて自分の足で駆けたあの灼熱の砂漠で、ユーリに出会わなければ。いっそあの時、太陽に灼かれて死んでいれば。
これほど多くの血が流れることはなかったかもしれない。
たくさんの人を傷つけることもなかったかもしれない。
声を押し殺して泣くファーリアを抱き上げて、スカイはスラムをあとにした。スカイの腕の中で、ファーリアは子供のように泣き続けた。
*****
どれくらい眠っていたのだろう。時間の感覚がない。薬を飲まされたのをぼんやりと覚えている。
そこは窓のない白い部屋だった。
見覚えのない、白い長衣を着せられている。身体にこびりついていた血や泥などの汚れは綺麗に拭い去られていたので、一瞬、あの出来事はぜんぶ夢だったんじゃないかと思ってしまったが、立ち上がった瞬間に陰部に違和感を感じて、やはりあれは現実だったのだと突きつけられた。
「やあ、目が覚めた?」
白く塗られたドアについた、小さな格子窓からスカイの顔が覗いた。
カチャリとドアが開き、スカイともう一人、兵士が部屋に入ってきた。兵士はファーリアの手首を縛った。
「ごめんね。君、意外と強いし、逃げ足早いから、仕方ないんだ。さ、行こう」
スカイはそう言って、ファーリアを部屋の外へ促した。褒められてはいないんだろうなと思いながら、ファーリアは素直に従った。
白い廊下には、同じように格子窓の着いた白いドアが並んでいた。ファーリアの左右をスカイと兵士が固めている。
「ここはね、精神を病んだ人のための病棟なんだ。大昔の戦争でそういう兵士がたくさんいたんだよ。君を牢獄に入れるわけにいかないし、シハーブ様の家は今更行きづらいだろうし、鍵のない部屋では君は容易く逃げてしまうでしょ?それで、ここにね」
ファーリアが連れて行かれたのは浴室だった。ガラス張りの部屋の向うにはスカイと兵士がいて、中が丸見えだ。
「患者が自傷したり自殺を図ったりしないように、こういう作りなんだよ。君についていた血は拭いただけだから、ちゃんと洗ってね」
縄を解きながらスカイは説明したが、スカイが警戒しているのは自殺ではなく脱走なのだとファーリアは理解していた。
丸裸にしてでも、もう二度と逃すまいという強い意志を感じて、ファーリアは開き直って服を脱いだ。
心地いい熱さの湯と香りのいい石鹸で、全身を洗い流す。
浴室を出ると、新しい衣類が用意されていた。
囚人服だった。
それを見て、ファーリアは自分の立場を痛いほど自覚した。と同時に、これはスカイがわざとやっているのだと察した。ファーリアに惨めさを突きつけて、戦意を削いでいるのだ。
スカイは再びファーリアの手首を縛り、言った。
「じゃあ、行こうか」
どこへ、とは聞かなかった。
ファーリアに選択の余地はなかったし、それに、おおよその見当はついていた。
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