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第十章 王都編
スラムにて
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夜のスラム街は墨を流したように暗い。
このあたりは元々、街路に明かりがない。その上、スラムの住人は、食い詰めた貧民の他にも、何らかの理由で住んでいた町にいられなくなった者、様々な犯罪に手を染めて逃げている者など、脛に傷のある者も多く棲み着いている。そういった人々が、先日の一斉摘発で、粛清の恐怖に息を潜めていた。
『夜の兎』を逃れたファーリアは、人目を避けて闇の支配するスラム街へと足を踏み入れていた。
そこは「バラ」のあった場所からは少し離れた、スラムの外れだった。
反乱軍のアジトだった場所へは近づかないほうがいい、と思っていた。戻ってきた仲間がいないか見張られている可能性がある。それに、夜が明けたら南東門へ向かうつもりだった。今夜だけ、スカイたちをやり過ごせればいいのだ。
ふと、視線を感じて、ファーリアは身構えた。
(誰か……いる……?)
周囲は無秩序に築かれた建物に囲まれ、迷路のように路地と石段が入り組んでいる。その下へ下へと続く石段の底の闇が動いたような気がして、ファーリアは目を凝らした。
一歩、段を下がった。
何か懐かしいような、不思議な匂いを、微かに感じた。
(なんだっけ……この匂い……)
いつ嗅いだものか、記憶を辿る。王宮のジャスミンの庭の匂いとも、少し違う。後宮の女達が競って身にまとっていた香水とも違う。なんだっけ……なんだっけ……と、いつしか夢中で記憶を遡上する。わかりそうでわからない、というのは、とても気になる。
(……なんだっけ)
娼館で焚かれていた香の匂い。ユーリと行った砂漠の市場の匂い。エクバターナの地下水の匂い。どれも、違う。
もう一歩、更に数歩、何かに呼ばれるように、石段を降りる。脇道がなくなり、階下への一本道だけになる。
ぞろり、と、また闇が動いた。その動きにも、見覚えがある気がした。
ふいに悪寒が走った。
(――危険、あれは、あのにおいは)
思い出した。あれは、怖いものだ。おそろしいものだ。そうファーリアの本能が告げている。
ファーリアは踵を返して石段を駆け上がろうとした。が、すぐ近くから伸びてきた手に足首を掴まれて引きずり降ろされた。
「ひっ……!」
咄嗟に腹部をかばってうずくまる。
「懐かしいじゃないか。え?ファーリア」
石段の下で蠢いている何者かよりもずっと近くの脇の建物の陰から、男が姿を現した。
「あ……ああ……」
ファーリアの顔が、恐怖に歪んだ。
その男の背後、一番黒い闇から、嗄れた声がした。
「……ファーリア……ファーリアか……?……おお……儂の……ファーリア…………」
その闇そのもののようなものは、紛れもなく、ジャヤトリア辺境伯だった男――今はその地位を追われ、領地と両手を失った、かつてのファーリアの飼い主だった。
「あ……いや……なんで……?なんで、王都に……?」
カナンは後退った。そうだ、このにおいは。
辺境伯が拷問部屋に焚き染めていた香の匂い。
その香と、辺境伯の体臭が、入り混じった臭い。
「あああ、いや、いや」
なぜ彼の顔が見えたのかわからない。月の光も届かないスラムの奥深くだというのに。
それでもファーリアの足首を握ったままのその男の眼が碧く碧く輝いたのを、確かに見たような気がしたのだ。
このあたりは元々、街路に明かりがない。その上、スラムの住人は、食い詰めた貧民の他にも、何らかの理由で住んでいた町にいられなくなった者、様々な犯罪に手を染めて逃げている者など、脛に傷のある者も多く棲み着いている。そういった人々が、先日の一斉摘発で、粛清の恐怖に息を潜めていた。
『夜の兎』を逃れたファーリアは、人目を避けて闇の支配するスラム街へと足を踏み入れていた。
そこは「バラ」のあった場所からは少し離れた、スラムの外れだった。
反乱軍のアジトだった場所へは近づかないほうがいい、と思っていた。戻ってきた仲間がいないか見張られている可能性がある。それに、夜が明けたら南東門へ向かうつもりだった。今夜だけ、スカイたちをやり過ごせればいいのだ。
ふと、視線を感じて、ファーリアは身構えた。
(誰か……いる……?)
周囲は無秩序に築かれた建物に囲まれ、迷路のように路地と石段が入り組んでいる。その下へ下へと続く石段の底の闇が動いたような気がして、ファーリアは目を凝らした。
一歩、段を下がった。
何か懐かしいような、不思議な匂いを、微かに感じた。
(なんだっけ……この匂い……)
いつ嗅いだものか、記憶を辿る。王宮のジャスミンの庭の匂いとも、少し違う。後宮の女達が競って身にまとっていた香水とも違う。なんだっけ……なんだっけ……と、いつしか夢中で記憶を遡上する。わかりそうでわからない、というのは、とても気になる。
(……なんだっけ)
娼館で焚かれていた香の匂い。ユーリと行った砂漠の市場の匂い。エクバターナの地下水の匂い。どれも、違う。
もう一歩、更に数歩、何かに呼ばれるように、石段を降りる。脇道がなくなり、階下への一本道だけになる。
ぞろり、と、また闇が動いた。その動きにも、見覚えがある気がした。
ふいに悪寒が走った。
(――危険、あれは、あのにおいは)
思い出した。あれは、怖いものだ。おそろしいものだ。そうファーリアの本能が告げている。
ファーリアは踵を返して石段を駆け上がろうとした。が、すぐ近くから伸びてきた手に足首を掴まれて引きずり降ろされた。
「ひっ……!」
咄嗟に腹部をかばってうずくまる。
「懐かしいじゃないか。え?ファーリア」
石段の下で蠢いている何者かよりもずっと近くの脇の建物の陰から、男が姿を現した。
「あ……ああ……」
ファーリアの顔が、恐怖に歪んだ。
その男の背後、一番黒い闇から、嗄れた声がした。
「……ファーリア……ファーリアか……?……おお……儂の……ファーリア…………」
その闇そのもののようなものは、紛れもなく、ジャヤトリア辺境伯だった男――今はその地位を追われ、領地と両手を失った、かつてのファーリアの飼い主だった。
「あ……いや……なんで……?なんで、王都に……?」
カナンは後退った。そうだ、このにおいは。
辺境伯が拷問部屋に焚き染めていた香の匂い。
その香と、辺境伯の体臭が、入り混じった臭い。
「あああ、いや、いや」
なぜ彼の顔が見えたのかわからない。月の光も届かないスラムの奥深くだというのに。
それでもファーリアの足首を握ったままのその男の眼が碧く碧く輝いたのを、確かに見たような気がしたのだ。
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