イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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第九章 海賊編

花祭

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 その日、ララ=アルサーシャでは花祭が催されていた。
 建ち並ぶ家々の軒先には花が飾られ、何台もの山車が花を撒きながら街中を練り歩く。あちこちで楽器を弾いたり歌を披露したりしているので、街中が見物客でごったがえしていた。夜には花火が打ち上げられる。
 めっきり外出することの減った国王だったが、この日ばかりは民に元気な姿を見せてもらいたいと臣下たちに懇願され、中央広場に設えられた貴賓席に姿を現した。
 ステージでは、鮮やかな衣装を身にまとった演者たちによって、踊りや曲芸などの演目が繰り広げられている。赤や黄色や緑の薄布が、踊り手の動きに合わせてひらひらと舞う様は、なるほど美しくはあった。が、今のマルスには娯楽のすべてが空虚なものに感じられた。目新しいことなど何もない。王国は、多少の問題はあれど概ね平和だ。かつての征服欲も失せ、シャルナク帝国へ討って出るという野望も忘れかけている。マルスはこの世のすべてに飽きて、退屈だった。
 そろそろ王宮に戻ろうか、とマルスは思った。開会から二時間近く席を温めたのだから、民衆への義理は果たしただろう。昼に差し掛かり、気温も上がり切ってきていた。
 傍らのシハーブに軽く手を挙げて合図をし、貴賓席から立ち上がったときだった。ちらりと視界の端に、見覚えのある顔が見えた。
「――シハーブ」
「は」
「少し付き合え」
「……は。街をご覧になりますか?」
 マルスはそれには答えずに、豪奢な刺繍の上衣を脱いだ。そしてターバンを巻き直して髪を隠し、群衆の中へと紛れていった。

「凄い人出だな」
 女は傍らの青年に言った。ありふれた女物の長衣に身を包み、レース編みの薄布で目から下を隠しているが、豊かな金髪は覆われることなく肩から背中にかけて波打っている。
「この規模の催しは年に二回だけだそうですよ。新年と、この花祭りと」
 その身なりと物腰から、どうやら女の付き人らしい男が答えた。
「出ている店も、どこも賑わっているな。人々の身なりもいい。豊かなのがよく分かるな」
「イシュラヴァールは王都と辺境では生活にかなり差があると聞いています」
 そんな会話を交わしながら、人混みを避けつつ歩いていると、不意に女の肩を掴んだ者がいた。
「――!」
 付き人の男が顔色を変えた。その瞬間まで、全く何の気配もしなかったからだ。彼は護衛のために特別な訓練を受けた、選りすぐりの兵士でもあった。その彼が、何者かがみすみす主人に接触するのを許してしまったのである。
「何者――!」
 短剣を抜きかけた手は、しかし別の男によって止められた。白い伝統的な衣装に身を包み、白いターバンを巻いた、浅黒い肌の男だ。
「――まあ、貴方は」
 女主人が、肩を掴んだ男を見上げて目を見開いた。
「驚いたな。このような場で会うとは」
 涼やかな水の音のような声で、彼は言って、ちらりと付き人を見た。
「……護衛は一人か。不用心ではないか、仮にも一国の元首のご息女が――スラジャ・サキルラート殿」
「大勢連れ歩くのも目立ちますし、何より彼は優秀なので。それに、わたしも若干腕に覚えがございますゆえ」
 スラジャは不敵な笑みを浮かべると、付き人に剣を収めるよう目で合図した。
「陛下こそ、護衛が少なくていらっしゃる」
 スラジャは白いターバンの男――シハーブを見て言った。
「私の護衛は目につかないところにいるのだよ」
 マルスも笑顔を浮かべて言った。シハーブは、随分久しぶりにマルスの笑顔を見たな、と思った。
「アルサーシャの祭は初めてか?」
「ええ、とても活気があって驚きましたわ」
「活気という点では貴国の方が豊かであろう」
 スラジャの国・リアラベルデ共和国は、小国ながら海洋貿易によって栄えた国である。イシュラヴァールから見れば、海を挟んでシャルナク帝国の玄関口でもある。国土は猫の額ほどだが、海伝いに多くの国家と親交があり、その外交力によって帝国に吸収されることなく生き残ってきた。したたかな国である。
「我が国は土地柄、新しいものには敏感ですが、所詮は他国からの寄せ集めの文化で――貴国の歴史の深さには感嘆しますわ」
「ふ。市長殿はおだてるのがお上手だ。よければ少し案内しようか?」
「光栄ですわ」
 二人は連れ立って歩き、後ろから付き人とシハーブがついていく。
「無粋だな、お前たち。先に帰っていていいぞ。シハーブ、宮殿でその男に酒でも飲ませておけ」
 マルスは振り返って言った。
「そういうわけにはいきません」
 シハーブはにこりともせずに言った。
「やれやれ。堅物め」
 溜め息をついたマルスを見て、スラジャはくすくすと笑った。しかし実際、あの白いターバンの男――確か、シハーブと言ったか――は相当の手練なのだと思えたし、マルス自身に至っては更に腕が立つのだろう。よほどのことが――例えば怒り狂った群衆に取り囲まれるとか――がなければ、危険に陥るようなことはなさそうだった。
「女物の服もよく似合っておいでだ」
「恐れ入りますわ」
 マルスはスラジャの姿をあらためて眺めた。前回会った時は、スラジャは男装だった。といっても、サイズは彼女の均整の取れた身体にぴったりと誂えてあったし、真紅の生地に金の刺繍という、凡そ男性向けではないデザインだったのだが。
 今日のスラジャは、目のさめるような青い生地に白い模様を染め抜いた、長い衣を着ていた。砂漠の国々で伝統的に着られている形である。
「そういえば父上に返事を書いていなかったな」
 マルスが思い出したように言った。手紙、とは例の縁談の件である。
「……わたしはイシュラヴァール王家に相応しい女ではありませんわ」
 スラジャが心なしか硬い声で言った。
「なぜだ?」
「王宮に大人しく収まっているのは性に合いそうにありません。しかしこのように外出するのは、軽率だと言われます。幼い頃からお転婆娘と評判で」
「そんなことか。ならば私も見ての通りだ、嫁御よめごにとやかく言えた筋ではない。――もっとも、がどう思うかは知らぬがな」
「では――もう殿方を知っている、と言ったら?」
「……ほう」
 やや間を置いて、それでも平静にマルスは言った。そしておもむろにスラジャの手を取って駆け出した。
「――!」
 驚いたのはシハーブたちである。慌てて追いかけるが、群衆が邪魔をする。
「くそっ……どっちへ行った……!?」
 角をふたつ曲がったところで、すっかり見失ってしまった。
「あンの、お方は……っ!」
 シハーブはぎりりと奥歯を噛んだ。スラジャの付き人も嘆息する。
「お嬢様……今日だけは大人しくなさってくださいとお願いしたのに……」
 その様子を見て、シハーブも溜息をついた。
「お互い、辛い立場だな」

 そこは人通りのない路地裏だった。建物と建物の間にある階段の、行き止まりの奥の暗がりで、マルスはスラジャを壁に押し付けていた。
「――で?男を知っているって?」
 マルスの長い指が、スラジャの顎を軽く持ち上げる。スラジャはマルスを見返した。きりりと強い光を放つ、大きな瞳。
「では確かめてみようか」
 マルスはスラジャの顔のベールを剥ぎ取った。
「……良いんですの?お立場は」
「バセル王子はまだ十七だ。お転婆の市長殿には物足りなかろう」
「陛下は十五の頃には既に戦場で戦果を上げていたと伺っていますわ」
「男を比べるものではない――スラジャ」
 名を言い終わる前に、マルスの唇がスラジャのそれを塞いでいた。
「ん……っ」
 スラジャの形の良い歯が、細かく震えている。が、それを割ってマルスが舌を差し入れると、スラジャもそれに応えて舌を絡ませてきた。
 濃厚な接吻を受けながら、スラジャは困惑していた。これは何を意味するのか?婚約者となるべき男――まだ会ったこともない――の、よりによって父親と。
 だが、マルスはすぐに唇を離してしまった。そして。
「――いつまで見物してる。さっさと出てこい」
「え……っ?」
 一瞬、誰に向かっての言葉なのかわかりかねて、スラジャの頭に疑問符が浮かんだ。
「お取り込み中すみません、陛下」
 思いもよらない方向から爽やかな声がして、スラジャはびっくりして振り返った。
 屋根の上に立ってこちらを見下ろしていたのは、金髪碧眼の青年だった。近衛隊の制服の胸には勲章の星が山ほど並んでいる。
「何の用だ、スカイ」
「レーで反乱です」
 その言葉に、マルスとスラジャ、両方の顔色が変わった。
「反乱軍か?」
「別の組織のようです。なんでも、奴隷船荒らしの海賊が奴隷市を襲ったとか」
「――一旦王宮に戻ろう。シハーブは?」
「まだ表通りをうろうろしてますよ」
「彼女を頼む。シハーブと一緒に彼女の護衛がいるはずだ」
「一人で平気ですわ。では陛下、ごきげんよう」
 スラジャは極力平静を装っていたが、挨拶のために曲げた膝が小刻みに震えていた。その理由は今もたらされた情報のせいか、それとも先程の接吻のせいか。スラジャは震える脚を叱咤するように、表通りへと駆け戻っていった。
「レーは競売の日だったか……祭の対応で警備がアルサーシャに集中していた。隙を突かれたな」
「王都の市中警備兵は回せませんね。陸軍の半数と傭兵隊も21ポイントに出払っています。治安部隊を出しますか?」
「ああ。スカイ、お前が指揮を取れ。すぐに出れば夜には着くだろう」
「わかりました。陛下は?」
「シハーブと合流して王宮に戻る」
「お気をつけて」
 スカイが屋根の向こうへと姿を消したのを見送って、マルスはスラジャが消えた方向へ向かった。

 スラジャが表通りに出ると、すぐに付き人の青年と合流できた。
「お嬢様……!今までどこに」
「ちょっと話し込んでしまっただけよ。それより、レーで反乱が起きたぞ」
「えっ!?」
「すぐにレーへ向かう。――くそっ、レーはわたしが狙っていたのに……!」
 スラジャは唇を噛んだ。奴隷船荒らしがどんな奴だか知らないが、先を越されたのが悔しい。
 二人は町外れで馬を借り、一路西へと向かった。
 暮れかけた街道は、人の顔が判別しにくい程度には薄暗く、距離を開けて二人の後を尾けてくる影には気付いていなかった。
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