イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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第九章 海賊編

レー沖の夜

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 レーは南北に長大な湾の北の最奥部に位置し、付近の海は概して波が穏やかだ。日暮れ前、カナルはレーの港を遠くに望む位置に船を停めた。
「カナン、外は風が気持ちいいぜ。軽く一杯やらないか?飲みやすい乳酒もある」
 カナルが酒瓶を軽く掲げて誘った。航海中にカナルはだいぶイシュラヴァール語を習得していた。
「ありがとう。今ちょっと用があるから、あとで」
 カナンは曖昧に笑い返して、自室へと向かった。
 カナンは日が暮れると甲板に出ない。そこには嫌な思い出があったから。
 そして、目の前に迫ったレーの港にもまた、苦い記憶があった。思い出したくない――しかしそれこそが怒りを呼び覚ます。カナンは船室の硬い寝台に仰向けに横になって目を閉じた。
(――明日、決着をつける)
 この忌まわしい記憶に。レーの奴隷市を襲撃して、市場を占拠し、奴隷たちを開放する。
 忌まわしい記憶の元凶の男は一番奥まった船室にいた。窓のない部屋で、戸口には外から錠を下ろされ、見張りこそいないが軟禁状態である。
 その男――奴隷商人のタリムもまた、この日を待っていた。
 船員たちが寝静まるのを待って、タリムは身支度を整えた。作り付けの寝台の床板を外すと、船室の床が現れた。そこに四角い小さな枠があった。捕まった時に武器の類は没収されている。タリムは隠し持っていた食事用のフォークを取り出して、その枠に差し込むと、上に引き上げた。フォークの長さに対して船室の床板の厚さが勝っていたために少々手こずったが、なんとか蓋を開けると、するりとその下に潜り込んだ。
 元々はタリムの船である。船の構造は熟知している。船室の下は船倉で、やはり外からしか鍵が開かない。タリムが壁際に積み上げられた食糧の袋をいくつか下ろすと、壁の上方に通気口が現れた。タリムは袋の山によじ登って通気口へと身体を滑り込ませた。

 カナンは暗闇にいた。
 短剣が肉に食い込む感触が手に残っている。――逃げなければ、と思うが、肉に刺さった剣が抜けない。手が血で滑って、気ばかりが焦る。
(逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げ――)
 気がつくと、周囲を大きな影に囲まれていた。怒りと欲望に目をぎらつかせた男たちが、自分を見下ろしている。
(い……や……)
 逞しい腕が何本も下りてきて、床に身体を押さえつけられる。罵声を浴びせられるが、何を言っているのかわからない。カナンはいつの間にか裸にされている。自分の無防備さと無力さに涙が滲む。
(いや……やめて……いや……)
 両脚を乱暴に広げられて、巨体がのしかかってくる。昂奮した男の体温が熱い。カナンは自分がこれから何をされるのかわかって絶望した。一人……二人……と見下ろす影を数える。でも影は揺らめいて、いつまでも数え終わらない。
「いや――――っ!」
 目を開けると、狭い船室の天井があった。じっとりと汗をかいている。下腹部がちくりと痛んだ。
「痛……」
 カナンは起き上がると、汗に濡れた服を脱いで、薄手のシャツに着替えた。それでもなんとなく身体が火照っている。外の空気を吸おうと、カナンは部屋を出た。
 通路には誰もいない。が、僅かな違和感を感じて、カナンは通路を進んだ。
(足音がする……)
 起きている船員もいておかしくない。だが、その足音の主は、間遠な波の音に重ねるように注意深く歩いている。
(誰だ……?)
 カナンは部屋に剣を置いてきたことを後悔した。取りに戻ろうかとも思ったが、足音を追う方を選んだ。
 狭い階段を上がり、甲板に出る。丁度月のない夜で、暗くてよく見えない。
「――!」
 突然背後から口を塞がれ、羽交い締めにされた。そのまま更に暗い物陰に引きずり込まれる。
「なんだ、君か、坊や」
「……タリム!どうして――」
「言っただろ。僕の船だ、もともと逃げることなんて造作なかったのさ」
「っ、誰か――!」
「うるさいよ」
 タリムは床に倒れ込んだカナンの上に跨って、首元にフォークを突きつけた。
「……いつでも逃げられたなら、なんで、今まで」
「逃げなかったのかって?別に大した理由じゃない――君等が何をしたいのか気になったから見物していただけだよ」
 タリムはにっこりと笑った。その細い目。
(そうだ、わたしはこいつのこの笑顔に騙されたんだ)
「タリム……っ!」
 怒りと悔しさがこみ上げてくる。許せない、騙したこいつも、騙された自分も。
「レーの警備隊にでも駆け込んで、わたしたちを捕らえさせる気か」
「まさか。そんなことに興味はないよ。どうせ僕は今、奴隷うりものも持っていないし」
 カナンはフォークをもぎ取ろうと、タリムの手首を掴んだ。が、タリムは一瞬早くフォークを逆手に持ちかえて、ファーリアのシャツを勢いよく裂いた。
「――――っ!」
「……ねえ、覚えてる?懐かしいよねえ。ここ」
 カナンは目を見開いた。甲板から見上げるマスト。どこまでも暗い夜空。
 どくん、と心臓が鳴った。
「あ…………っ……」
 身体から力が抜けていく。下腹部が鉛のように重くなって、手足が力を失って、ぱたんと床に落ちた。
「きみが自由になる方法を教えてやろうか。俺を殺したらいい」
 タリムはそう言うと、カナンに唇を重ねた。
「――今日は噛まないの?」
 唇を離したタリムが囁いた。タリムの掌が破れた服の下に滑り込み、カナンの乳房をやんわりと包んだ。
「んっ……」
 ぴくん、とカナンの身体が反応した。タリムが(あれ?)と思うのと、カナンがするりとタリムの腕をすり抜けたのは、ほぼ同時だった。
 しゅる、と腰紐を解いて、タリムの頸に巻きつけ、勢いよく引く。
「グッ」
 カナンは無表情のまま、容赦なく紐を引っ張った。タリムは細い目を見開き、口を大きく開けて喘いだ。
 タリムの脳裏に死という文字がちらりと過ぎったとき、ぶつっと音がして、肺に空気が流れ込んできた。
「……ゲホッ、ゲホ、ゲホッ」
「殺す気か、カナン」
「イラン……!」
 紐を切ったのはイランだった。
「貴様、どうやって出た?」
 イランがタリムに怒鳴る。
「うるさいなあ。部屋を見たら分かるさ。僕はそろそろ船を降りるよ、お望み通り」
 にっこり笑ってそう言うと、タリムはひらりと手すりを乗り越え、夜の海へと飛び込んだ。
 イランとカナンが手すりに駆け寄ったときには、もう何も見えなかった。
「くそ――逃げられたか」
 イランは舌打ちをした。
「まずいな、計画をバラされたら」
「……それは、しないと言っていた」
 カナンが言った。ではなぜ今、逃げたのだろう。
「どうだかな。どっちみち今からは身動き取れん。肚を括るしかないな。――おい、これでも着とけ」
 シャツの前を裂かれたカナンを見かねて、イランは自分のシャツを脱いでカナンに渡した。
「イラン――それ」
 カナンはイランの裸に目が釘付けになった。
「ああ、これか?驚かせちまったかな」
 カナンはゆっくりと首を振る。
「ごめんなさい……あの、ちょっとびっくりして」
「気にしないでくれよ。昔、ちょっとな」
 イランはなんでもない、というように破顔した。
 イランの上半身は、前も後ろも、古い疵痕だらけだった。
 カナンはシャツを持ったまま、呆然とイランの身体に見入っていた。イランはその手からシャツを取って、カナンの頭からすっぽりとかぶせた。
「だからな、お前さんの辛さもちょっとは分かるつもりだよ。だけど、憎んだからって疵が消えるわけじゃねぇしな」
「うん」
 カナンはまるで小さな子どもになったかのように、素直にうなずいた。
「傷口を癒やすのはいつだって、優しさとか希望とか、そういうやつだってな、気付いちまうんだよな。そういう力のほうが、憎しみよりも何倍も強い」
「うん……」
 そうだ、とカナンは思い出す。自分を救ったのは、エディの優しさとか、与えられた仕事とか、マルスの愛とか、そういうものだった。何度も打ちのめされても前を向いてこられたのは。
「よしよし、いい子だ」
 イランは子どもにするようにカナンの頭をぽんぽんと撫でた。
 月のない夜空には星がうるさいほど輝いている。
 イランが温かいコーヒーをいれてきて、カナンの隣に座った。
「ありがとう、イラン」
 カナンは渡されたカップから一口コーヒーを啜った。香ばしい香りが、染み込むように気持ちをほぐしていく。
「ひとつ聞きたかったことがあるんだ。あんた、ユーリ・アトゥイーの何なんだ?」
「……ユーリ……」
「エクバターナであんたが消えたときだ。一緒にいた黒い男、あれはユーリ・アトゥイーだろう」
 カナンは胸を押さえた。
 その名前を聞くだけで、胸が苦しい。
「……ユーリ、は」
 わたしの何なんだろう。
 何も知らない。どこの生まれで、どうして戦っているのかも。
 何の約束もしていない。いつ会えるのかもわからない。
 カナンは膝頭に顔をうずめた。
「……わからない……」
「あんたが国軍にいられなくなったのは、彼のせいか?」
 カナンは答えられなかった。そうだといえばそうかもしれないし、もっと違う理由があるような気もした。
「わたしはどちらへも行けない――なくしてしまった。居場所も、信用も、友達も、全部」
「後悔してるのか、国軍を離れたことを」
 カナンはまた首を振った。
「ううん――どのみちあそこにはいられなかったし」
 イランは先程からカナンの背を優しくさすっている。それで少し落ち着いて、カナンは顔を上げた。見上げた空では星たちが楽しそうに瞬いているので、カナンはまた少し心が安らいだ。
「わたし、はじめはなんにも持っていなかったの。ぜんぶがくれた。だけど、もらったものが大きすぎて、逃げ出してしまった――だからもう戻れない」
「誰だ、って」
「言えない」
 カナンは小さく笑った。
「軍の偉いさんかなんかか」
「まあそんなところ」
「で、ユーリ・アトゥイーは何なんだ?恋人か?」
「恋人――」
 恋人、という響きは、あまりに遠く感じた。
「――わからない」
 ユーリはカナンのことをどう思っているのだろうか。それすらもカナンにはわからなかった。ユーリが止めるのも聞かずに王都に戻ったことを、怒っているだろうか。それとももうカナンのことなど忘れ去っただろうか。
 地上の憂いなど素知らぬ顔で賑やかに瞬く星々の中に、ひとすじの流星が尾を引いた。カナンは、一瞬何もかも忘れて呟いていた。
「逢いたい……」
 イランがカナンの頭を優しく抱き寄せた。

 戦いなどなければいい、とカナンは思う。
 解放戦線が勝利すれば、会えるのだろうか。
 でもそれは王国の滅亡を意味しているのだろうか。
 そのとき、自分は、マルスは、どこにいるのだろうか――。
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