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第八章 流転編
喪失
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真夜中のシハーブ家は、一時騒然とした。
「お前、一体何事が――」
家の主――シハーブの父が息子に説明を求めた。シハーブは起き出してきた家人たちに自室に戻るよう言い渡し、父に向き直った。
「アトゥイーが姿を消しました」
押し殺した声で短く説明する。
「なんだと……?」
「今、警備の者に追わせていますが――」
父親は呆れたように息を吐いた。
「近衛兵なのだろう?あの娘は。我が家の警備ごときが敵うわけなかろう」
そう言われて、シハーブも嘆息した。
「して、陛下は?」
シハーブははっと気付いて、辺りを見回した。近くにマルスの姿はない。
「まだ西棟に――」
「家の者には私から話しておこう。お前は陛下のお側にいなさい」
「はい」
シハーブは父に一礼して、駆け戻っていった。
外のざわめきから一人取り残されて、マルスは廊下の壁にもたれてようやく立っていた。
ふと振り返ると、先程までファーリアと愛し合っていた部屋が、ぽっかりと口を開けている。
マルスはふらふらと部屋の戸口に立った。
開いた窓から吹き込んだ風が、カーテンを舞い上がらせて、部屋に残ったファーリアの残り香を洗い流していく。
空っぽの寝台の上の乱れた敷布が、そこにもうファーリアがいないことをマルスに突きつけてくる。
「あ、あ」
息が苦しくて、マルスは喘いだ。
「………ハッ………ハァッ………ハァッ………」
抜き身のまま提げていた剣に体重を預け、左手で胸を掻きむしる。
「あ………あああ………あああッ………」
マルスは剣で寝台を斬りつけた。
「あああああッ!あああ!あああああーーーーッ!!!」
闇雲に、何度も何度も斬りつける。白い羽毛が舞い上がった。
「マルス様!」
駆けつけたシハーブの声はしかし、マルスの耳には入らなかった。
「ああああ!」
だらりと持った剣を無造作に振り回して、室内を破壊していく。
シハーブは近寄れないまま、部屋の前で立ち尽くした。
(マルス様が……壊れていく……)
家具や鏡や壁の絵が無残に叩き壊されていくのを、ただ呆然と見つめる。その視界の端を、ちらりと金色が過ぎった。
「――陛下!」
駆けてきたのはスカイだった。一時どこかへ姿を消していたが、騒ぎを聞きつけて戻ってきたらしい。
スカイは迷いなくスラリと剣を抜いて、マルスが振り回している剣を弾き飛ばした。
マルスの動きが止まる。
「………ハァッ………ハァッ、ハァッ、ハァッ」
「陛下、大丈夫ですか?」
スカイは苦しげに喘ぐマルスの背中に触れかけたが、その手はバシッと静電気に弾き返された。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハッ――――」
マルスはよろよろと数歩歩くと、立っていられずに寝台の支柱につかまった。
「――――うぐっ」
マルスは床に吐瀉した。が、胃の中は空っぽだ。ひたすら胃液を吐く。
「マルス様!」
シハーブとスカイが駆け寄って支える。再び静電気が走ったが、そんなことを気にしてはいられなかった。
「ぐふっ――ぐえええっ――――」
嘔吐が止まらない。
「水を……いや、医師を――!」
数人がかりで、マルスはシハーブ家が用意した別の寝室に運び込まれた。
マルスは一昼夜経っても一睡もしないまま、ひたすら吐き続けた。とにかく落ち着くようにと、医師に飲まされた眠り薬が全く効かない。会話もままならないほど消耗しているのに、両眼は爛々と見開いている。
「かなり強い薬をお出ししているのですが――」
侍医は疲労の蓄積した顔で頭を抱えた。深夜に呼び出された侍医もまた、一昼夜の間一睡もしていない。
「私が見ていましょう。先生は一度お休みに」
シハーブの言葉に、侍医は頷いた。
「あとで別の医師を来させます。水だけは飲ませ続けてください」
そう言って、侍医は看護師を残して退がっていった。
マルスは更に丸一日起きていて、医師が「これ以上は危険だ」と言う量の薬を飲んでようやく眠りについた。
「……参ったな……」
肘掛け椅子にどっかりと座り込んで、シハーブは深い溜め息をついた。
「僕がいない間に何があったんですか」
こちらもぐったりと脚を投げ出して長椅子に座ったスカイが訊いた。マルスが起きている前では話せなかったし、常時どちらかがマルスに付き添っていたため、これまで大した会話はできていなかった。
「俺だって部屋で二人が何を話していたかまでは知らんが――」
そう前置きして、シハーブは起こったことを説明した。
「呆れた……他国の王子の前でストリップしたと思ったら、国王に剣を向けるとは。さすが勇気ある僕の部下だ」
シハーブの言葉を引いて揶揄したスカイに、シハーブは苦い顔を向けた。
「上司なら部下の不始末の責任を取って連座するか?」
「弑逆未遂の大罪に?まさか」
スカイは意味ありげな表情で続けた。
「彼女には一人で死んでもらいますよ。そのためにも、さっさととっ捕まえないと」
「果たしてそれをこの方が許すだろうか――」
シハーブは昏々と眠るマルスを見やった。
この数日で、マルスは見る影もなくやつれ果ててしまっていた。頬はこけ、眼窩は落ちくぼみ、唇は乾いて皺が刻まれている。
シハーブは、マルスに剣を止められた感触がまだ手に残っていた。
ほんの幼い頃から、シハーブはマルスと共に育ってきた。マルスは子供の頃から理知的で、涙を見せるようなことなどなかった。記憶では母后が亡くなった時くらいか。
そのマルスが、今にも泣き出すかと思った。しかし涙の代わりに水と胃液を吐き続けている。
(玉座というものは、涙すら流せない場所か……)
シハーブにはそんなマルスが痛々しくてたまらなかった。自由に恋もできないファーリアに同情しないこともないが、マルスを傷つけられた怒りのほうが大きい。
「体を壊されるまで、あの娘に執着しておられる――それを処刑など、耐えられるだろうか」
「そんなの、かわりの女を用意しますよ」
スカイはこともなげに言った。
「お前、一体何事が――」
家の主――シハーブの父が息子に説明を求めた。シハーブは起き出してきた家人たちに自室に戻るよう言い渡し、父に向き直った。
「アトゥイーが姿を消しました」
押し殺した声で短く説明する。
「なんだと……?」
「今、警備の者に追わせていますが――」
父親は呆れたように息を吐いた。
「近衛兵なのだろう?あの娘は。我が家の警備ごときが敵うわけなかろう」
そう言われて、シハーブも嘆息した。
「して、陛下は?」
シハーブははっと気付いて、辺りを見回した。近くにマルスの姿はない。
「まだ西棟に――」
「家の者には私から話しておこう。お前は陛下のお側にいなさい」
「はい」
シハーブは父に一礼して、駆け戻っていった。
外のざわめきから一人取り残されて、マルスは廊下の壁にもたれてようやく立っていた。
ふと振り返ると、先程までファーリアと愛し合っていた部屋が、ぽっかりと口を開けている。
マルスはふらふらと部屋の戸口に立った。
開いた窓から吹き込んだ風が、カーテンを舞い上がらせて、部屋に残ったファーリアの残り香を洗い流していく。
空っぽの寝台の上の乱れた敷布が、そこにもうファーリアがいないことをマルスに突きつけてくる。
「あ、あ」
息が苦しくて、マルスは喘いだ。
「………ハッ………ハァッ………ハァッ………」
抜き身のまま提げていた剣に体重を預け、左手で胸を掻きむしる。
「あ………あああ………あああッ………」
マルスは剣で寝台を斬りつけた。
「あああああッ!あああ!あああああーーーーッ!!!」
闇雲に、何度も何度も斬りつける。白い羽毛が舞い上がった。
「マルス様!」
駆けつけたシハーブの声はしかし、マルスの耳には入らなかった。
「ああああ!」
だらりと持った剣を無造作に振り回して、室内を破壊していく。
シハーブは近寄れないまま、部屋の前で立ち尽くした。
(マルス様が……壊れていく……)
家具や鏡や壁の絵が無残に叩き壊されていくのを、ただ呆然と見つめる。その視界の端を、ちらりと金色が過ぎった。
「――陛下!」
駆けてきたのはスカイだった。一時どこかへ姿を消していたが、騒ぎを聞きつけて戻ってきたらしい。
スカイは迷いなくスラリと剣を抜いて、マルスが振り回している剣を弾き飛ばした。
マルスの動きが止まる。
「………ハァッ………ハァッ、ハァッ、ハァッ」
「陛下、大丈夫ですか?」
スカイは苦しげに喘ぐマルスの背中に触れかけたが、その手はバシッと静電気に弾き返された。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハッ――――」
マルスはよろよろと数歩歩くと、立っていられずに寝台の支柱につかまった。
「――――うぐっ」
マルスは床に吐瀉した。が、胃の中は空っぽだ。ひたすら胃液を吐く。
「マルス様!」
シハーブとスカイが駆け寄って支える。再び静電気が走ったが、そんなことを気にしてはいられなかった。
「ぐふっ――ぐえええっ――――」
嘔吐が止まらない。
「水を……いや、医師を――!」
数人がかりで、マルスはシハーブ家が用意した別の寝室に運び込まれた。
マルスは一昼夜経っても一睡もしないまま、ひたすら吐き続けた。とにかく落ち着くようにと、医師に飲まされた眠り薬が全く効かない。会話もままならないほど消耗しているのに、両眼は爛々と見開いている。
「かなり強い薬をお出ししているのですが――」
侍医は疲労の蓄積した顔で頭を抱えた。深夜に呼び出された侍医もまた、一昼夜の間一睡もしていない。
「私が見ていましょう。先生は一度お休みに」
シハーブの言葉に、侍医は頷いた。
「あとで別の医師を来させます。水だけは飲ませ続けてください」
そう言って、侍医は看護師を残して退がっていった。
マルスは更に丸一日起きていて、医師が「これ以上は危険だ」と言う量の薬を飲んでようやく眠りについた。
「……参ったな……」
肘掛け椅子にどっかりと座り込んで、シハーブは深い溜め息をついた。
「僕がいない間に何があったんですか」
こちらもぐったりと脚を投げ出して長椅子に座ったスカイが訊いた。マルスが起きている前では話せなかったし、常時どちらかがマルスに付き添っていたため、これまで大した会話はできていなかった。
「俺だって部屋で二人が何を話していたかまでは知らんが――」
そう前置きして、シハーブは起こったことを説明した。
「呆れた……他国の王子の前でストリップしたと思ったら、国王に剣を向けるとは。さすが勇気ある僕の部下だ」
シハーブの言葉を引いて揶揄したスカイに、シハーブは苦い顔を向けた。
「上司なら部下の不始末の責任を取って連座するか?」
「弑逆未遂の大罪に?まさか」
スカイは意味ありげな表情で続けた。
「彼女には一人で死んでもらいますよ。そのためにも、さっさととっ捕まえないと」
「果たしてそれをこの方が許すだろうか――」
シハーブは昏々と眠るマルスを見やった。
この数日で、マルスは見る影もなくやつれ果ててしまっていた。頬はこけ、眼窩は落ちくぼみ、唇は乾いて皺が刻まれている。
シハーブは、マルスに剣を止められた感触がまだ手に残っていた。
ほんの幼い頃から、シハーブはマルスと共に育ってきた。マルスは子供の頃から理知的で、涙を見せるようなことなどなかった。記憶では母后が亡くなった時くらいか。
そのマルスが、今にも泣き出すかと思った。しかし涙の代わりに水と胃液を吐き続けている。
(玉座というものは、涙すら流せない場所か……)
シハーブにはそんなマルスが痛々しくてたまらなかった。自由に恋もできないファーリアに同情しないこともないが、マルスを傷つけられた怒りのほうが大きい。
「体を壊されるまで、あの娘に執着しておられる――それを処刑など、耐えられるだろうか」
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