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第七章 愛執編
死者の群れ
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ぴちゃん、と滴る音がした。
辺りは暗闇に包まれている。
(ここは……あの鍾乳洞……?)
……フーッ……フーッ……フーッ……
かすかな息遣いが聞こえてくる。
……フーッ……フーッ……フーッ……フーッ……
やがて見えない呼気に囲まれる。何十人もの気配が、周囲を取り巻いている。
どこからか、すえた匂いが漂ってくる。
(そうだ……これは、残飯の匂い――)
そう思った時、ふっと明かりが灯った。
「――――!!」
すぐ目の前に、赤黒い血をあちこちから垂らし、皮膚がぐずぐずに崩れた男の顔があった。
身体を切り裂かれ、抉られ、あるいは穿たれ、腕をちぎり取られ、脚をもがれた屍たち。皮膚は爛れ、肉は腐れ落ち、蛆虫がたかっている。それが、十数センチにも満たない距離に、ひしめき合うように周囲を囲んでいた。
腐臭の正体は、彼らの腐りかけた肉体だった。
……フゥーッ……フゥーッ……フゥーッ……フゥーッ……
つい今朝方、エクバターナで殺したアルナハブ兵もいる。
砂漠で殺した遊牧民もいる。
奴隷船の水夫も、ジャヤトリア辺境伯の奴隷も。
決して癒えない傷口をどす黒く腐らせて、虚ろな目でこちらを見ている。
……フーッ……フーッ……フーッ……フフーッ……フフゥーッ……フゥーッ……
キィィン――――と、耳鳴りがした。
「いやあああ!!」
ファーリアは逃げた。
死者をかきわけて、暗く入り組んだ洞窟を闇雲に走る。洞窟はどこまでもどこまでも枝分かれしていく。
出口などない。
(いやだ、ここに閉じ込められるのは)
何年も何年も幽閉されて、腐肉を喰らって、いずれは自らもあの腐った屍に成り果てる。
(いやだ――――!)
手足が尖った鍾乳石で傷つけられるのも構わずに、無我夢中で走った。
と、水音が聞こえてきた。
(あっちだ――縦穴――!)
水が流れている場所から逃げられる。ファーリアは暗く狭い洞窟を、微かに聞こえる水音を頼りに進む。
やがてざあざあと水が流れる場所に出た。
(ここだ――!)
息を切らせて、立ち止まったファーリアに、ざぶんと水が掛かった。咄嗟に腕で顔を拭く。
錆の匂いが鼻をついた。顔を拭いた手が変にぬるりとぬめって、ファーリアは手元を見た。
水だと思ったものは、真っ赤な――。
「――――――っ!!」
ファーリアは飛び起きた。冷や汗で前髪がぐっしょりと額に張り付いている。
「どうした、ファーリア」
すぐ横にいたユーリが、気付いて声を掛けた。
「……ッ、ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
「ファーリア?」
荒い呼吸をしているファーリアを、ユーリが抱き締める。それでようやく、ファーリアは少しだけ落ち着いた。
「あ……ああ……ユーリ……」
「だいじょうぶ。だいじょうぶだ、ファーリア」
ユーリがファーリアの背中をさする。ユーリの肩越しに、ファーリアは恐る恐る自分の手を見た。何も付いていない。
「…………夢…………」
ファーリアは震えながら言った。
「血まみれの……人が……たくさん……」
地底の暗闇で蠢く、見覚えのある顔、顔、顔。
「……っ、みんな、わたしが……っ」
ファーリアは両手で顔を覆って叫んだ。
「あああ、みんな、みんなわたしが殺したの……!」
「…………!」
ユーリはファーリアの悪夢の正体について理解した。
「っ、あああああ――――っ!!」
「……すまない、俺が剣を教えたから――」
ファーリアは顔を覆ったまま首を振る。
「ユーリは悪くない……だって、殺さなきゃ、殺されてた、きっと」
ファーリアの言葉で、ユーリの記憶が蘇る。
(そうだ、殺さなければならない時は迷うなと、俺が言ったんだ――でないと、自分が命を落とすと)
ユーリは唇を噛んだ。あの時、ファーリアは何も知らない少女だった。本当はユーリがもっときちんと剣の扱いを教えなければならなかった。それが突然の別れによって断ち切られてしまった。ファーリアは、人を殺す以外の使い方を教わることなく、ただ剣を振るって生きるしかなかったのかもしれない。
「……それでも、あんなこと、言うべきじゃなかった」
筋が良いと思った。教えたらあっという間に剣を振れるようになったファーリアを、もっと強くしてやりたいと思った。強くなれると思った。それでたまたま一部の側面だけを切り取って話した言葉が、ここまでファーリアに重荷を背負わせることになろうとは。
「殺さなきゃ、殺されてた。だから、殺した。たくさん、たくさん……でも、でもユーリ、わたしはたくさん殺したのに、わたしは生きているの。わたしひとりだけ、生きているのよ」
ファーリアはこれまで抑え込んでいた恐怖と罪悪感を吐き出すように喋り続けた。ひとつの命の重さとはなんだろうと、ずっと引っかかっていた。
「わたしがいなければ――みんな、死ななくてよかった――!」
――お前のせいで、死んだ――。
憎々しげにそうファーリアに言った、あれは誰だったか。
「わたしは、わたしひとりの命のために、たくさん人を殺してしまった――!!」
「ファーリア……」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
生きていて、ごめんなさい。わたしなんかが。
泣きじゃくるファーリアを、ユーリは抱き締めて言った。
「ファーリア、俺は今、お前に逢えて幸せだ。お前が生きていてくれて、幸せだよ」
睫毛に溜まった涙をすくい取るように、まぶたに口づける。
「生きていてくれてありがとう、ファーリア」
「……ごめんなさい……」
「もうだいじょうぶ――俺がお前を守るから」
抱きしめて、ゆっくりと撫でて、落ち着かせる。
「もう殺さなくていい。ファーリア。俺が守るから」
実際、ユーリの読みは当たっていたのだ。
近衛兵はそれなりの精鋭でないと務まらないと聞く。それ以前にも、あちこちの砦を巡る攻防で「国軍のアトゥイー」の戦果はちらほらと耳に入っていた。
辺りは暗闇に包まれている。
(ここは……あの鍾乳洞……?)
……フーッ……フーッ……フーッ……
かすかな息遣いが聞こえてくる。
……フーッ……フーッ……フーッ……フーッ……
やがて見えない呼気に囲まれる。何十人もの気配が、周囲を取り巻いている。
どこからか、すえた匂いが漂ってくる。
(そうだ……これは、残飯の匂い――)
そう思った時、ふっと明かりが灯った。
「――――!!」
すぐ目の前に、赤黒い血をあちこちから垂らし、皮膚がぐずぐずに崩れた男の顔があった。
身体を切り裂かれ、抉られ、あるいは穿たれ、腕をちぎり取られ、脚をもがれた屍たち。皮膚は爛れ、肉は腐れ落ち、蛆虫がたかっている。それが、十数センチにも満たない距離に、ひしめき合うように周囲を囲んでいた。
腐臭の正体は、彼らの腐りかけた肉体だった。
……フゥーッ……フゥーッ……フゥーッ……フゥーッ……
つい今朝方、エクバターナで殺したアルナハブ兵もいる。
砂漠で殺した遊牧民もいる。
奴隷船の水夫も、ジャヤトリア辺境伯の奴隷も。
決して癒えない傷口をどす黒く腐らせて、虚ろな目でこちらを見ている。
……フーッ……フーッ……フーッ……フフーッ……フフゥーッ……フゥーッ……
キィィン――――と、耳鳴りがした。
「いやあああ!!」
ファーリアは逃げた。
死者をかきわけて、暗く入り組んだ洞窟を闇雲に走る。洞窟はどこまでもどこまでも枝分かれしていく。
出口などない。
(いやだ、ここに閉じ込められるのは)
何年も何年も幽閉されて、腐肉を喰らって、いずれは自らもあの腐った屍に成り果てる。
(いやだ――――!)
手足が尖った鍾乳石で傷つけられるのも構わずに、無我夢中で走った。
と、水音が聞こえてきた。
(あっちだ――縦穴――!)
水が流れている場所から逃げられる。ファーリアは暗く狭い洞窟を、微かに聞こえる水音を頼りに進む。
やがてざあざあと水が流れる場所に出た。
(ここだ――!)
息を切らせて、立ち止まったファーリアに、ざぶんと水が掛かった。咄嗟に腕で顔を拭く。
錆の匂いが鼻をついた。顔を拭いた手が変にぬるりとぬめって、ファーリアは手元を見た。
水だと思ったものは、真っ赤な――。
「――――――っ!!」
ファーリアは飛び起きた。冷や汗で前髪がぐっしょりと額に張り付いている。
「どうした、ファーリア」
すぐ横にいたユーリが、気付いて声を掛けた。
「……ッ、ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
「ファーリア?」
荒い呼吸をしているファーリアを、ユーリが抱き締める。それでようやく、ファーリアは少しだけ落ち着いた。
「あ……ああ……ユーリ……」
「だいじょうぶ。だいじょうぶだ、ファーリア」
ユーリがファーリアの背中をさする。ユーリの肩越しに、ファーリアは恐る恐る自分の手を見た。何も付いていない。
「…………夢…………」
ファーリアは震えながら言った。
「血まみれの……人が……たくさん……」
地底の暗闇で蠢く、見覚えのある顔、顔、顔。
「……っ、みんな、わたしが……っ」
ファーリアは両手で顔を覆って叫んだ。
「あああ、みんな、みんなわたしが殺したの……!」
「…………!」
ユーリはファーリアの悪夢の正体について理解した。
「っ、あああああ――――っ!!」
「……すまない、俺が剣を教えたから――」
ファーリアは顔を覆ったまま首を振る。
「ユーリは悪くない……だって、殺さなきゃ、殺されてた、きっと」
ファーリアの言葉で、ユーリの記憶が蘇る。
(そうだ、殺さなければならない時は迷うなと、俺が言ったんだ――でないと、自分が命を落とすと)
ユーリは唇を噛んだ。あの時、ファーリアは何も知らない少女だった。本当はユーリがもっときちんと剣の扱いを教えなければならなかった。それが突然の別れによって断ち切られてしまった。ファーリアは、人を殺す以外の使い方を教わることなく、ただ剣を振るって生きるしかなかったのかもしれない。
「……それでも、あんなこと、言うべきじゃなかった」
筋が良いと思った。教えたらあっという間に剣を振れるようになったファーリアを、もっと強くしてやりたいと思った。強くなれると思った。それでたまたま一部の側面だけを切り取って話した言葉が、ここまでファーリアに重荷を背負わせることになろうとは。
「殺さなきゃ、殺されてた。だから、殺した。たくさん、たくさん……でも、でもユーリ、わたしはたくさん殺したのに、わたしは生きているの。わたしひとりだけ、生きているのよ」
ファーリアはこれまで抑え込んでいた恐怖と罪悪感を吐き出すように喋り続けた。ひとつの命の重さとはなんだろうと、ずっと引っかかっていた。
「わたしがいなければ――みんな、死ななくてよかった――!」
――お前のせいで、死んだ――。
憎々しげにそうファーリアに言った、あれは誰だったか。
「わたしは、わたしひとりの命のために、たくさん人を殺してしまった――!!」
「ファーリア……」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
生きていて、ごめんなさい。わたしなんかが。
泣きじゃくるファーリアを、ユーリは抱き締めて言った。
「ファーリア、俺は今、お前に逢えて幸せだ。お前が生きていてくれて、幸せだよ」
睫毛に溜まった涙をすくい取るように、まぶたに口づける。
「生きていてくれてありがとう、ファーリア」
「……ごめんなさい……」
「もうだいじょうぶ――俺がお前を守るから」
抱きしめて、ゆっくりと撫でて、落ち着かせる。
「もう殺さなくていい。ファーリア。俺が守るから」
実際、ユーリの読みは当たっていたのだ。
近衛兵はそれなりの精鋭でないと務まらないと聞く。それ以前にも、あちこちの砦を巡る攻防で「国軍のアトゥイー」の戦果はちらほらと耳に入っていた。
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