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第六章 アルナハブ編
洪水
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遡ること数分前。宮殿地下の鍾乳洞は、水位が上がり切っていた。
地底湖の冷たい水に身を浮かべ、アトゥイーとリンは囚人たちと共にホールに水が満ちるのを待った。やがてごつごつとした凹凸のある天井まで水が達すると、息を止めて水に沈む。その瞬間を見計らって、アトゥイーは剣の柄で天井の――つまり厨房の床の扉を、思い切り突き破った。
水圧も手伝って、扉は弾かれたように外れて舞い上がった。
「きゃーっ!」
厨房にいた数人の女中の叫び声が響いたが、すぐに怒涛の水音に掻き消された。
「行けーっ!」
先陣を切るアトゥイーに続いて、囚人たちがわらわらと飛び出してくる。置き去りにされたナイフや棒きれなどを拾い上げて武器にすると、怒声を上げながら誰彼構わず向かっていく。
その一角はダレイ王子の兵で埋め尽くされていた。
「どっちへ行けば……」
行き先に迷ったアトゥイーを、イランが誘導する。
「こっちだ。距離と方角からして、竪穴の先は王宮の外だろうな」
「イラン、あなたはイシュラヴァール語が話せるのか?」
「ああ、会話だけならな。さっきは試すような真似をして悪かった」
イランはどこから見つけてきたのか、長い棒を器用に振り回して敵をなぎ倒していく。アトゥイーがその腕前に見とれているのに気付いて、イランは朗らかに笑った。
「俺は元は槍使いだったんだよ」
イランは髪も髭も伸び放題だったが、身体にまとった筋肉は衰えていない。獄中でも鍛錬を続けていたのだろうか、とアトゥイーは想像した。
不遇に遭って尚、諦めない人がいる。暗闇で残飯しか与えられずとも、できることを見つけ、ひとつずつ積み重ねる力。
「頼もしいな」
アトゥイーも笑い返す。
彼らと共に、アルサーシャへ帰ってもいいのかもしれない、とアトゥイーは思った。スカイなら出自に関わらず、適所へ登用してくれるだろう。もしまだエディたちが王宮に囚われたままだったら、救出する手助けをしてくれるかもしれない。
「あんたこそ、大概度胸の据わった女だよ。何年かぶりに見た女があの迫力だもんな。俺のムスコも気圧されてちっちゃくなっちまった」
いきなり猥談を振られて、アトゥイーは赤面する。
『おいイラン、久々にシャバに出たと思ったら、何いきなり口説いてんだ!』
カナルがイランを小突いた。
『すまんすまん、ついな』
何を言っているのか分からなかったが、ともかく助かったとアトゥイーは胸を撫で下ろした。冗談に切り返せるほどの軽妙さは持ち合わせていない。
「リン!とにかく宮殿から出よう。囚人たちを逃さなければ。ヨナたちと合流して作戦を練り直す!」
「了解、アトゥイー」
水はまだ溢れ続けている。敵兵が洪水に狼狽えて浮足立った隙をついて、アトゥイーたちは出口を目指して走った。
「見えた!城門だ!!」
誰かが言った。
アトゥイーが左右から襲ってきた敵を続けざまに切りつけ、あらためて顔を上げると、見上げるような城門が建っていた。天辺は優美な曲線を描き、壁面は青と白と金の美麗なアラベスクで彩られている。
その美しい模様を背景にして、まるで一枚の絵のように、一人の男が佇んでいた。
周囲の騒乱が嘘のように、彼は穏やかさをまとって立っている。
アトゥイーの両耳から、音が消えた。
入り乱れる敵も味方も、すべてぼやけて、幽霊のように視界を行き来する。
男がふと顔を上げ、こちらに気付いた。
彼は、何事か言ったのかもしれない。
だけど彼女には何も聞こえなかった。水に潜ったような不思議な感覚が耳を塞いでいた。
時間の流れがとてもゆっくりになったように感じた。
最後には、もう彼しか見えていなかった。
まっすぐ自分に向かって駆けてくるファーリアを、ユーリは抱きとめた。
そのままくるりと身を翻し、城門の外へと逃れ出た。
「アトゥイーっ!」
少し後ろから追ってきていたリンは、アトゥイーが何者か――遊牧民らしい風体の男――に捕まったのを目撃した。
(あれは――あの男は――!)
リンはその男に見覚えがあった。かつてアルヴィラ砦で仕留め損ねた――、
(砂漠の黒鷹――!!)
リンは素早く銃を構え、ぴたりと照準を合わせる。
「アトゥイー!頭を下げろ!」
だが、アトゥイーは信じられないような行動に出た。
振り向いたアトゥイーは、リンが狙っている銃の前に出て、相手の男をかばったのだ。
リンが引き金を引く指を止めた一瞬、二人は人波の中に消えた。
「アトゥイー……?なぜ……」
両手を広げたアトゥイーの顔が、リンの目に焼き付いて離れなかった。
地底湖の冷たい水に身を浮かべ、アトゥイーとリンは囚人たちと共にホールに水が満ちるのを待った。やがてごつごつとした凹凸のある天井まで水が達すると、息を止めて水に沈む。その瞬間を見計らって、アトゥイーは剣の柄で天井の――つまり厨房の床の扉を、思い切り突き破った。
水圧も手伝って、扉は弾かれたように外れて舞い上がった。
「きゃーっ!」
厨房にいた数人の女中の叫び声が響いたが、すぐに怒涛の水音に掻き消された。
「行けーっ!」
先陣を切るアトゥイーに続いて、囚人たちがわらわらと飛び出してくる。置き去りにされたナイフや棒きれなどを拾い上げて武器にすると、怒声を上げながら誰彼構わず向かっていく。
その一角はダレイ王子の兵で埋め尽くされていた。
「どっちへ行けば……」
行き先に迷ったアトゥイーを、イランが誘導する。
「こっちだ。距離と方角からして、竪穴の先は王宮の外だろうな」
「イラン、あなたはイシュラヴァール語が話せるのか?」
「ああ、会話だけならな。さっきは試すような真似をして悪かった」
イランはどこから見つけてきたのか、長い棒を器用に振り回して敵をなぎ倒していく。アトゥイーがその腕前に見とれているのに気付いて、イランは朗らかに笑った。
「俺は元は槍使いだったんだよ」
イランは髪も髭も伸び放題だったが、身体にまとった筋肉は衰えていない。獄中でも鍛錬を続けていたのだろうか、とアトゥイーは想像した。
不遇に遭って尚、諦めない人がいる。暗闇で残飯しか与えられずとも、できることを見つけ、ひとつずつ積み重ねる力。
「頼もしいな」
アトゥイーも笑い返す。
彼らと共に、アルサーシャへ帰ってもいいのかもしれない、とアトゥイーは思った。スカイなら出自に関わらず、適所へ登用してくれるだろう。もしまだエディたちが王宮に囚われたままだったら、救出する手助けをしてくれるかもしれない。
「あんたこそ、大概度胸の据わった女だよ。何年かぶりに見た女があの迫力だもんな。俺のムスコも気圧されてちっちゃくなっちまった」
いきなり猥談を振られて、アトゥイーは赤面する。
『おいイラン、久々にシャバに出たと思ったら、何いきなり口説いてんだ!』
カナルがイランを小突いた。
『すまんすまん、ついな』
何を言っているのか分からなかったが、ともかく助かったとアトゥイーは胸を撫で下ろした。冗談に切り返せるほどの軽妙さは持ち合わせていない。
「リン!とにかく宮殿から出よう。囚人たちを逃さなければ。ヨナたちと合流して作戦を練り直す!」
「了解、アトゥイー」
水はまだ溢れ続けている。敵兵が洪水に狼狽えて浮足立った隙をついて、アトゥイーたちは出口を目指して走った。
「見えた!城門だ!!」
誰かが言った。
アトゥイーが左右から襲ってきた敵を続けざまに切りつけ、あらためて顔を上げると、見上げるような城門が建っていた。天辺は優美な曲線を描き、壁面は青と白と金の美麗なアラベスクで彩られている。
その美しい模様を背景にして、まるで一枚の絵のように、一人の男が佇んでいた。
周囲の騒乱が嘘のように、彼は穏やかさをまとって立っている。
アトゥイーの両耳から、音が消えた。
入り乱れる敵も味方も、すべてぼやけて、幽霊のように視界を行き来する。
男がふと顔を上げ、こちらに気付いた。
彼は、何事か言ったのかもしれない。
だけど彼女には何も聞こえなかった。水に潜ったような不思議な感覚が耳を塞いでいた。
時間の流れがとてもゆっくりになったように感じた。
最後には、もう彼しか見えていなかった。
まっすぐ自分に向かって駆けてくるファーリアを、ユーリは抱きとめた。
そのままくるりと身を翻し、城門の外へと逃れ出た。
「アトゥイーっ!」
少し後ろから追ってきていたリンは、アトゥイーが何者か――遊牧民らしい風体の男――に捕まったのを目撃した。
(あれは――あの男は――!)
リンはその男に見覚えがあった。かつてアルヴィラ砦で仕留め損ねた――、
(砂漠の黒鷹――!!)
リンは素早く銃を構え、ぴたりと照準を合わせる。
「アトゥイー!頭を下げろ!」
だが、アトゥイーは信じられないような行動に出た。
振り向いたアトゥイーは、リンが狙っている銃の前に出て、相手の男をかばったのだ。
リンが引き金を引く指を止めた一瞬、二人は人波の中に消えた。
「アトゥイー……?なぜ……」
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