イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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第五章 恋情編

川辺の告白

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 夕刻、珍しく早く後宮に姿を見せたマルスに、アトゥイーは詰め寄った。
「陛下、どういうおつもりですか」
「なんのことだ」
「だっていきなり、朝から仕立て屋とか宝石屋とか茶碗屋とか……わたし、そんなもの必要ないのに」
「ああ、スカイからお前が部屋から物が消えて困っていると聞いたものだから、不自由のないようにとは言っておいたが」
「宝石なんて元から持ってません」
「商人たちを呼んだのはわたくしですわ」
 唐突に声がして、二人は振り向いた。そこにいたのは側室のサラ=マナだった。
「サラ=マナ様……!」
「だって、後宮にお迎えするならそれなりのものをお持ちじゃないとお困りになりますでしょう?スカイ様のお話を伺って、一式揃えるのにいい機会だと思ったものですから」
「後宮に?わたしが?」
 アトゥイーは事情が飲み込めない。確かにマルスに、後宮に入らないかとは言われたが、そんなに急な話だとは思っていなかった。
「あら。陛下、そういうお話だったんじゃありませんでしたの?」
「ああ、たしかにそうだが……でもまだ正式に決まったわけではない。スカイにもまだいつとは話していないし」
「待ってください、わたしは……」
「あらまあ。でも早いほうがよろしいわ。これを機に、その着たきりの制服をお脱ぎになって、明日から昼間も後宮こちらでお過ごしなさいな。側室としての生活は慣れないことばかりでしょうけれど、わたくし、できる限り助力致しますわ」
「いや、彼女はまだ側室とは――」
「待ってください!」
 アトゥイーが語気を強めたので、マルスとサラ=マナはようやく話を止めた。
「わたしは、後宮に入るつもりは……」
 しばしの沈黙の後、意味ありげな笑みを浮かべたのはサラ=マナだった。
「……まあ、じゃあわたくしの勘違いでしたのね。早合点してしまってごめんなさいね。とりあえず、お二人でよく話し合われた方がよろしいわね」
 そう言い残して、サラ=マナは自室へと下がった。
 つい、と、マルスは回廊から中庭へ出た。
 無言のまますたすたと歩いていくので、アトゥイーは仕方なく後を追う。
 後宮の中庭は入り組んでいる。まだ明るいので、ちらほらと女官たちの姿も見える。落ち着きどころが見つからないまま、マルスは後宮にいくつかある裏門から外に出てしまった。
 アトゥイーは声を掛けそびれたまま、マルスに着いていった。成り行きとは言え、大げさに言えば側室の目の前で求婚を断ったのだ。マルスの面目を潰したと思うと、さすがに気まずい。
 マルスはとうとう王宮の西門まで来てしまった。四人いる門の警備が慌てて制止を試みる。
「陛下!あの、どちらへ?」
「護衛の方もつけずに、危険です!」
 通常、国王が徒歩で護衛もなく市街に出ることはない。
「護衛ならついている」
 マルスは振り返ってアトゥイーを顎で指した。その声は明らかに不機嫌だ。
「ちょっと散歩するだけだ。近衛兵ひとりで十分だ。警備兵おまえたち全員よりも腕は立つ」
 そう言われると、警備兵は引き下がるよりなかった。
 マルスは役所が立ち並ぶ通りを抜けて、ウラ川に架かる橋のたもとまで来た。川、といっても人工の運河で、川幅も狭く水量も多くない。
「陛下、これ以上は……ここから先は、人が多いので」
 アトゥイーが思い切って声を掛けると、ようやくマルスが口を開いた。
「……そなたと出会ったのは、どのあたりだったか」
「もっと先です。12区の貧民街スラムのあたり」
 ウラ川は王都のほぼ中央を東西に流れている。川の北側には王宮や役所が集まり、南側には賑やかな市街地が広がる。
貧民街スラムか……あれもそのうちなくしたいと思っているのだが、なかなか住民と折り合いがつかぬらしい」
 マルスは独り言のように言って、川岸に立って対岸を眺めた。夕暮れに、ぽつりぽつりと明かりが灯っていく。舗装されていない川岸にはアネモネが咲いている。
「……髪が伸びたな、ファーリア」
 マルスが横に立ったアトゥイーの髪を長い指で梳いた。いつか短く切った髪は、肩甲骨のあたりまで伸びていた。
「出会ったときは、少年のようだった」
「あれは――あの夜に、切ったんです」
「長かったのか?」
 アトゥイーは頷いた。
「どれくらい?」
「……このあたり」
 そう言って、手を腰に当てる。
「何故、男の格好をしていたのだ?」
 アトゥイーは無言でマルスを見つめた。ややあって、ふっとマルスが微笑う。
「そなたは自分のことは語らぬ。私のものにもならぬと言う。私の心を弄んでいるのか、それとも試しているのか」
「そんなことは……ただ……」
 怖い。知られるのが怖い。奴隷だっただけではなく、娼館にいたのだと。たぶんマルスは受け容れてくれる。それも、怖い。マルスがアトゥイーを受け入れることで、何かが変わってしまわないだろうか。この完璧な王が、その闇に触れて、損なわれてしまわないだろうか。
「なぜだ?私では不満か?」
 マルスは川岸に腰を下ろして、川面を見つめる。
「私はそなたが欲しい。片時も離れたくない。そなたも同じだと思っていた。だが違うのか」
 そう言うマルスの背中は、夕闇に霞んで心許ない。それは思いがけず寂しげで、アトゥイーは思わずその背中に抱きつきたくなった。
「いいえ、いいえ陛下、わたしも」
 咄嗟に否定しながらアトゥイーは自問する。
 ――本当に、陛下のお傍にいたくないのですか?
 シュイユラーナに聞かれてはじめて気付いた、本当の気持ち。
「わたしも、陛下のお傍にいたい――です」
 声が震えた。
「好きです、マルスさま」


 押し倒され、唇を奪われる。何度も、何度も。
 顔の横でアネモネの花が揺れている。
 群青色に染まっていく空には、星が瞬き始めていた。
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