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第五章 恋情編
側室の苦言
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「陛下、ご寝所にゆかれる前に少々お時間をくださいませ」
その夜、後宮に戻ってきたマルスを女官たちの先頭で出迎えたのは、側室のサラ=マナだった。第二王子バハルの母に当たる。
「――わかった」
何の話か、マルスは薄々感づいていた。
サラ=マナはマルスの腕に手をかけると、マルスの後ろに控えていたアトゥイーに言った。
「アトゥイー様、少々お借りしますわ」
ナイフで襲われた前例があったので、アトゥイーは一瞬迷ったが、マルスが目配せしたので一礼して下がった。借りるも何も、アトゥイーにマルスを独占する権利などもとからない。サラ=マナはさすがに第一側室の貫禄で、アトゥイーを表立っていびるようなことはしなかった。
「少し歩きましょうか」
二人は中庭に出た。
「陛下。最近、後宮の秩序が乱れておりまする」
「わかっている」
「小うるさい女と思し召されるのを覚悟で申し上げますと、陛下のお立場であまり前例にないことをなさるのは、争いのもととなりまする」
「――わかっている」
が、どうしようもないのだ。ファーリアへの欲求を止められない。恋愛初期の情熱などひと月もすれば治まるだろうと高を括っていたが、どうもその気配はない。
「ご執心の方がいらっしゃるのは構いませぬ。ただ、後宮の中の女になさっていただきたいのでございます。外にも出られる女に手が付いて、万一のことがありましたら、それこそ後々の争いの種になりまする。もし陛下がどうしても彼女をとおっしゃるなら、せめて後宮にお迎えあそばすことをお考えくださいませ。でなければ後宮22人の姫君方に示しがつきませぬ」
つまり身分不詳の「ご落胤」が生まれるのは困る、というのだ。原則後宮から出られない姫たちが孕んだとしたら、父親は疑うべくもなく国王だが、自由に出入りできる身分の女に王の手が付いたとなれば、その限りではない。サラ=マナの懸念は、至極尤もな話である。
「――よく、わかった」
サラ=マナはくすりと微笑った。
「なんと素直でいらっしゃること。陛下ともあろうお人が」
いつしか二人は、ジャスミンの庭に来ていた。
「後宮のことはそなたに任せている。正妃もなく、もう一人の側室も伏せっている中で、一人で取り仕切るのは気苦労も多かろう。頭の上がろうはずもない」
「……お美しい方でしたわ、正妃様は」
つと、サラ=マナの指先がジャスミンの枝先を手折る。
「ヤスミン様が亡くなられてから、陛下は抜け殻のようでしたわね。連戦連勝だった戦もぱったりとお出にならなくなって……後宮の姫たちは、それまでヤスミン様お一人が独占してらした陛下の寵をようやく賜われると、皆躍起になって磨いたものですわ。陛下はちらりとも見向きもされませんでしたけれど」
「あれから十四、五年になるか……当時は私も若かったからな。父も引退したとはいえ健在であったし、後宮のことまで考えが回っていなかった。が、子が二人では少なすぎると言われてな」
「それでようやくわたくしとイザベル様に御子が生まれて……でも、陛下のお心はあの時のままでしたわね。イザベル様のお二人目の御子ができたら――幼くしてお亡くなりになりましたけれど――元の、氷のような陛下に戻ってしまわれましたわね。わたくしたちを平等に愛してくださっているようでいて、決して誰にも陛下がお心を許すことはありませんでしたわ」
そんなことはない、とは、マルスは言えなかった。
「……すっかりお見通しだな。さすがお前は賢い女だ」
「まさか。わたくしったら、ばかみたい。いっときなどシハーブ様にも妬いたりしましたのよ」
サラ=マナはくすくすと笑う。
「それは勘ぐり過ぎだろう」
マルスもつられて笑った。こういうところがサラ=マナは巧い。相手を立て、場の空気をうまく和ませて、男を追い詰めることがない。
「昔のことですわ……わたくしにはバハルがおりまする。十分に幸せを頂戴しましたわ。もし陛下がお心を許せる方と出会って、新たにお妃にお迎えあそばすなら、それはこの国にとっても喜ぶべきこと。わたくしも息子共々祝福いたしますわ」
つまり、こそこそと隠れるようにアトゥイーを呼びつけていないで、さっさと妃に迎えてはどうか、と言っているのだ。マルスが遠慮しているとしたら、その一番の相手は第一側室であるサラ=マナであることは、誰の目にも明白だ。だからこそ自分からマルスを解放せねばと考えたのであろう。
(――本当に、賢い女だ)
「わたくしは、バハルが成人したらお暇を頂戴したいと考えておりまする」
「帰るのか、故郷へ」
「いいえ、旅に出てみとうございます。わたくしは生まれ育った屋敷と後宮しか知らずに生きてまいりました。できることなら、一度、ほかの国も見てみとうございます」
「わかった。その時には最大限の援助を約束しよう」
マルスはそう約束して、サラ=マナのひたいに口づけた。
その夜、後宮に戻ってきたマルスを女官たちの先頭で出迎えたのは、側室のサラ=マナだった。第二王子バハルの母に当たる。
「――わかった」
何の話か、マルスは薄々感づいていた。
サラ=マナはマルスの腕に手をかけると、マルスの後ろに控えていたアトゥイーに言った。
「アトゥイー様、少々お借りしますわ」
ナイフで襲われた前例があったので、アトゥイーは一瞬迷ったが、マルスが目配せしたので一礼して下がった。借りるも何も、アトゥイーにマルスを独占する権利などもとからない。サラ=マナはさすがに第一側室の貫禄で、アトゥイーを表立っていびるようなことはしなかった。
「少し歩きましょうか」
二人は中庭に出た。
「陛下。最近、後宮の秩序が乱れておりまする」
「わかっている」
「小うるさい女と思し召されるのを覚悟で申し上げますと、陛下のお立場であまり前例にないことをなさるのは、争いのもととなりまする」
「――わかっている」
が、どうしようもないのだ。ファーリアへの欲求を止められない。恋愛初期の情熱などひと月もすれば治まるだろうと高を括っていたが、どうもその気配はない。
「ご執心の方がいらっしゃるのは構いませぬ。ただ、後宮の中の女になさっていただきたいのでございます。外にも出られる女に手が付いて、万一のことがありましたら、それこそ後々の争いの種になりまする。もし陛下がどうしても彼女をとおっしゃるなら、せめて後宮にお迎えあそばすことをお考えくださいませ。でなければ後宮22人の姫君方に示しがつきませぬ」
つまり身分不詳の「ご落胤」が生まれるのは困る、というのだ。原則後宮から出られない姫たちが孕んだとしたら、父親は疑うべくもなく国王だが、自由に出入りできる身分の女に王の手が付いたとなれば、その限りではない。サラ=マナの懸念は、至極尤もな話である。
「――よく、わかった」
サラ=マナはくすりと微笑った。
「なんと素直でいらっしゃること。陛下ともあろうお人が」
いつしか二人は、ジャスミンの庭に来ていた。
「後宮のことはそなたに任せている。正妃もなく、もう一人の側室も伏せっている中で、一人で取り仕切るのは気苦労も多かろう。頭の上がろうはずもない」
「……お美しい方でしたわ、正妃様は」
つと、サラ=マナの指先がジャスミンの枝先を手折る。
「ヤスミン様が亡くなられてから、陛下は抜け殻のようでしたわね。連戦連勝だった戦もぱったりとお出にならなくなって……後宮の姫たちは、それまでヤスミン様お一人が独占してらした陛下の寵をようやく賜われると、皆躍起になって磨いたものですわ。陛下はちらりとも見向きもされませんでしたけれど」
「あれから十四、五年になるか……当時は私も若かったからな。父も引退したとはいえ健在であったし、後宮のことまで考えが回っていなかった。が、子が二人では少なすぎると言われてな」
「それでようやくわたくしとイザベル様に御子が生まれて……でも、陛下のお心はあの時のままでしたわね。イザベル様のお二人目の御子ができたら――幼くしてお亡くなりになりましたけれど――元の、氷のような陛下に戻ってしまわれましたわね。わたくしたちを平等に愛してくださっているようでいて、決して誰にも陛下がお心を許すことはありませんでしたわ」
そんなことはない、とは、マルスは言えなかった。
「……すっかりお見通しだな。さすがお前は賢い女だ」
「まさか。わたくしったら、ばかみたい。いっときなどシハーブ様にも妬いたりしましたのよ」
サラ=マナはくすくすと笑う。
「それは勘ぐり過ぎだろう」
マルスもつられて笑った。こういうところがサラ=マナは巧い。相手を立て、場の空気をうまく和ませて、男を追い詰めることがない。
「昔のことですわ……わたくしにはバハルがおりまする。十分に幸せを頂戴しましたわ。もし陛下がお心を許せる方と出会って、新たにお妃にお迎えあそばすなら、それはこの国にとっても喜ぶべきこと。わたくしも息子共々祝福いたしますわ」
つまり、こそこそと隠れるようにアトゥイーを呼びつけていないで、さっさと妃に迎えてはどうか、と言っているのだ。マルスが遠慮しているとしたら、その一番の相手は第一側室であるサラ=マナであることは、誰の目にも明白だ。だからこそ自分からマルスを解放せねばと考えたのであろう。
(――本当に、賢い女だ)
「わたくしは、バハルが成人したらお暇を頂戴したいと考えておりまする」
「帰るのか、故郷へ」
「いいえ、旅に出てみとうございます。わたくしは生まれ育った屋敷と後宮しか知らずに生きてまいりました。できることなら、一度、ほかの国も見てみとうございます」
「わかった。その時には最大限の援助を約束しよう」
マルスはそう約束して、サラ=マナのひたいに口づけた。
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