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第四章 遠征編
霧中
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雨は夜の内に止んだが、一帯には霧が発生し、朝の砂漠は白い靄に包まれた。
カイヤーンは一旦撤退したが、明け方から再び攻撃を開始した。
シハーブは軍を立て直してこれに応戦したが、視界の効かない中、大所帯は思うように身動きが取れない。他方、砂漠に慣れた戦闘民族たちは濃い霧の中から波状攻撃を仕掛けてくる。
「……くそ、こいつらの狙いは足止めだな……」
軍が進もうとすると行く手を阻み、追えば霧の中に消える。その繰り返しに、国軍側は徐々に疲弊してきた。それでなくとも昨夜の夜襲から休息を取れていない。精鋭の騎兵はともかく、寄せ集めの歩兵たちの数が多いことが仇となった。戦場経験の浅い兵士たちは、士気が下がると動きも鈍くなる。
加えて、シハーブはマルスの消息を掴めていなかった。
敵の手に落ちたならば、こんなに呑気な攻撃を仕掛けてくるはずがない。だが昨夜カイヤーンと闘り合っている間に、マルスの姿はテントから消えていた。マルスはかなりの剣の使い手だったが、昨夜は毒を盛られて剣を持つどころではなかったはずだ。まさか命を落としてはいまいとは思うが、焦燥感が募る。
「シハーブ様!」
シハーブのもとに、騎馬が一騎駆けてきた。
「エディか」
エディはシハーブのすぐ横に馬をつけ、小声で伝えた。
「陛下は逃れました」
シハーブは思わず天を仰ぎ、深く息を吐いた。
「……そうか」
「お姿は見えませんが、アトゥイーがついています。霧が晴れ次第、捜索に出ます」
「頼む。陛下がいないことを気取られるな。味方にもだ」
シハーブは小声で念を押す。
「承知しました」
カイヤーンがようやく攻撃をやめて完全に撤退したのは、その日の夜のことだった。
疲れ果てた兵士たちは束の間の休息を得て、言葉少なだ。負傷者も多く、衛生兵は夜遅くまで手当てに追われた。
マルスはまだ見つかっていなかった。シハーブは昨晩に引き続き、一睡もできないまま朝を迎えた。
翌朝、マルスの捜索のために数騎を残し、シハーブは先を急いだ。マルスのことは気掛りだが、先発隊も本隊の到着を待っているはずだ。一日の足止めが戦局にどう影響しているのか。嫌な予感しかしなかった。
そしてその悪い予感は的中した。その日の夜、ようやくアルヴィラ砦に到着したシハーブの目に写ったのは、満身創痍の先発隊だった。
戦況のあまりの悪さに言葉を失いかけたシハーブに、更に悪い報せが追い打ちをかける。
「……今、なんと言った?」
「ですから、スカイ殿が傷を追って、敵の捕虜に」
報告しているのは傭兵隊の狙撃手、リンだ。
「望遠で見ていたのですが、かなりの重症のようでした。馬から落ちた後、砦に運ばれていくのを見ました」
シハーブは軽い吐き気を覚えた。しばらく眠っていないし、ろくに食べてもいない。
「……一旦、全員退かせろ。陣を立て直して、明日になったら使者を立てる。スカイが生きているなら人質交渉をする。エディ」
「はい」
唐突に呼ばれて、エディは居住まいを正した。
「士官学校では傑出していたと聞いている。交渉できるか」
「……はい!」
だが、翌日になって戦局は更に不利になっていった。
各地に散らばっていた遊牧民たちが、反乱に呼応して続々とアルヴィラ砦に集結してきたのだ。その数は昼には千人を越えた。
「気圧されるな。主要な部族は既に砦内にいる奴らだ。後から集まってきているのは所詮、寄せ集めの遊牧民に過ぎん。戦闘力はたかが知れている」
シハーブは無理にも鼓舞したが、兵力差での圧倒的有利な立場は崩れ去ろうとしていた。
(マルス様……どうか、ご無事でいてくれ)
シハーブは初めて、心中で祈った。マルスさえ生きていれば乗り切れる。その安否がわからないまま、撤退は絶対にできなかった。
両軍睨み合ったまま、太陽はじりじりと中天を超え、やがて西へと傾いていった。
*****
雨と夜の闇で、地形が全くわからない中を、アトゥイーは進んでいった。
やがて雨が上がり、空が群青色に白んできた。だが周囲には野営地どころか、人の気配がまったくない。
立ち込めてきた霧が体温を奪っていく。マルスの唇が紫色になっている。アトゥイーも寒さに震えた。二人とも、服は重く濡れたままだ。
「どこか……休める場所を見つけないと」
太陽が顔を出し、霧が金色に染まっていく。その金色の靄の中に、ぼんやりと木々の影が浮かび上がった。
「オアシス……」
アトゥイーはその木を目指して、馬を進めた。
「おい、大丈夫か」
崩れるように馬から降りると、霧の中から手が差し伸べられた。男が二人、マルスとアトゥイーを支えている。
「どこから来たんだ?こっちの男は怪我をしているのか?」
アトゥイーは頭を振った。
「怪我はないが、毒を飲んだ。タジャの実はあるか?」
「タジャだな?わかった。とにかく中へ」
アトゥイーは安心したせいか力が抜けて、男にしがみつくようにして立った。男の顔も服も、よく見えていなかった。
ふらつく足取りで、オアシスの屋敷に入っていく。男たちはどうやらこの屋敷の門番らしい。
助かった、と思った。先程の口ぶりだと、タジャの実――スナカズラの解毒剤も、ここで手に入りそうだ。知らず、緊張が緩んだ。
ふと、懐かしい気持ちに襲われた。
アトゥイーは顔を上げた。初めてしっかりと周囲を見た。
(ここは……)
その屋敷に、アトゥイーは見覚えがあった。
「――――!」
どくん。
心臓が、喉に詰まったような気がした。
「……ッ、ハァッ……ハァッ……」
呼吸が浅く、速くなる。
ぐらぐらと視界が回り、足がもつれた。
「大丈夫か?」
アトゥイーはしがみついていた男の腕を放した。一歩、下がる。
男の姿が、霧から現れた。
紅いマントに、染め抜かれた蓮の花。
アトゥイーは更に後退った。二歩、三歩と下がったところで、手首を掴まれた。
「おっと」
振り向いた、その顔。
碧い碧い目。
「今度は逃さないぜ、ファーリア」
カイヤーンは一旦撤退したが、明け方から再び攻撃を開始した。
シハーブは軍を立て直してこれに応戦したが、視界の効かない中、大所帯は思うように身動きが取れない。他方、砂漠に慣れた戦闘民族たちは濃い霧の中から波状攻撃を仕掛けてくる。
「……くそ、こいつらの狙いは足止めだな……」
軍が進もうとすると行く手を阻み、追えば霧の中に消える。その繰り返しに、国軍側は徐々に疲弊してきた。それでなくとも昨夜の夜襲から休息を取れていない。精鋭の騎兵はともかく、寄せ集めの歩兵たちの数が多いことが仇となった。戦場経験の浅い兵士たちは、士気が下がると動きも鈍くなる。
加えて、シハーブはマルスの消息を掴めていなかった。
敵の手に落ちたならば、こんなに呑気な攻撃を仕掛けてくるはずがない。だが昨夜カイヤーンと闘り合っている間に、マルスの姿はテントから消えていた。マルスはかなりの剣の使い手だったが、昨夜は毒を盛られて剣を持つどころではなかったはずだ。まさか命を落としてはいまいとは思うが、焦燥感が募る。
「シハーブ様!」
シハーブのもとに、騎馬が一騎駆けてきた。
「エディか」
エディはシハーブのすぐ横に馬をつけ、小声で伝えた。
「陛下は逃れました」
シハーブは思わず天を仰ぎ、深く息を吐いた。
「……そうか」
「お姿は見えませんが、アトゥイーがついています。霧が晴れ次第、捜索に出ます」
「頼む。陛下がいないことを気取られるな。味方にもだ」
シハーブは小声で念を押す。
「承知しました」
カイヤーンがようやく攻撃をやめて完全に撤退したのは、その日の夜のことだった。
疲れ果てた兵士たちは束の間の休息を得て、言葉少なだ。負傷者も多く、衛生兵は夜遅くまで手当てに追われた。
マルスはまだ見つかっていなかった。シハーブは昨晩に引き続き、一睡もできないまま朝を迎えた。
翌朝、マルスの捜索のために数騎を残し、シハーブは先を急いだ。マルスのことは気掛りだが、先発隊も本隊の到着を待っているはずだ。一日の足止めが戦局にどう影響しているのか。嫌な予感しかしなかった。
そしてその悪い予感は的中した。その日の夜、ようやくアルヴィラ砦に到着したシハーブの目に写ったのは、満身創痍の先発隊だった。
戦況のあまりの悪さに言葉を失いかけたシハーブに、更に悪い報せが追い打ちをかける。
「……今、なんと言った?」
「ですから、スカイ殿が傷を追って、敵の捕虜に」
報告しているのは傭兵隊の狙撃手、リンだ。
「望遠で見ていたのですが、かなりの重症のようでした。馬から落ちた後、砦に運ばれていくのを見ました」
シハーブは軽い吐き気を覚えた。しばらく眠っていないし、ろくに食べてもいない。
「……一旦、全員退かせろ。陣を立て直して、明日になったら使者を立てる。スカイが生きているなら人質交渉をする。エディ」
「はい」
唐突に呼ばれて、エディは居住まいを正した。
「士官学校では傑出していたと聞いている。交渉できるか」
「……はい!」
だが、翌日になって戦局は更に不利になっていった。
各地に散らばっていた遊牧民たちが、反乱に呼応して続々とアルヴィラ砦に集結してきたのだ。その数は昼には千人を越えた。
「気圧されるな。主要な部族は既に砦内にいる奴らだ。後から集まってきているのは所詮、寄せ集めの遊牧民に過ぎん。戦闘力はたかが知れている」
シハーブは無理にも鼓舞したが、兵力差での圧倒的有利な立場は崩れ去ろうとしていた。
(マルス様……どうか、ご無事でいてくれ)
シハーブは初めて、心中で祈った。マルスさえ生きていれば乗り切れる。その安否がわからないまま、撤退は絶対にできなかった。
両軍睨み合ったまま、太陽はじりじりと中天を超え、やがて西へと傾いていった。
*****
雨と夜の闇で、地形が全くわからない中を、アトゥイーは進んでいった。
やがて雨が上がり、空が群青色に白んできた。だが周囲には野営地どころか、人の気配がまったくない。
立ち込めてきた霧が体温を奪っていく。マルスの唇が紫色になっている。アトゥイーも寒さに震えた。二人とも、服は重く濡れたままだ。
「どこか……休める場所を見つけないと」
太陽が顔を出し、霧が金色に染まっていく。その金色の靄の中に、ぼんやりと木々の影が浮かび上がった。
「オアシス……」
アトゥイーはその木を目指して、馬を進めた。
「おい、大丈夫か」
崩れるように馬から降りると、霧の中から手が差し伸べられた。男が二人、マルスとアトゥイーを支えている。
「どこから来たんだ?こっちの男は怪我をしているのか?」
アトゥイーは頭を振った。
「怪我はないが、毒を飲んだ。タジャの実はあるか?」
「タジャだな?わかった。とにかく中へ」
アトゥイーは安心したせいか力が抜けて、男にしがみつくようにして立った。男の顔も服も、よく見えていなかった。
ふらつく足取りで、オアシスの屋敷に入っていく。男たちはどうやらこの屋敷の門番らしい。
助かった、と思った。先程の口ぶりだと、タジャの実――スナカズラの解毒剤も、ここで手に入りそうだ。知らず、緊張が緩んだ。
ふと、懐かしい気持ちに襲われた。
アトゥイーは顔を上げた。初めてしっかりと周囲を見た。
(ここは……)
その屋敷に、アトゥイーは見覚えがあった。
「――――!」
どくん。
心臓が、喉に詰まったような気がした。
「……ッ、ハァッ……ハァッ……」
呼吸が浅く、速くなる。
ぐらぐらと視界が回り、足がもつれた。
「大丈夫か?」
アトゥイーはしがみついていた男の腕を放した。一歩、下がる。
男の姿が、霧から現れた。
紅いマントに、染め抜かれた蓮の花。
アトゥイーは更に後退った。二歩、三歩と下がったところで、手首を掴まれた。
「おっと」
振り向いた、その顔。
碧い碧い目。
「今度は逃さないぜ、ファーリア」
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