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幸福な微笑み3
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ヨシコは涙を流していた。唇から伝わる体のほてり。このまま壊れるほど、狂うほどに、このほてった体を貫いて欲しいのに、もう生きる体力すら残り少ない。しかし、体の奥底から湧き上がる幸福の源泉を再生させ、魂の息吹を今一度ユウヘイのキスは思い起こさせてくれた。
唇を重ねあった時間はとても長く感じられた。永遠とも言えるような優しくゆるやかな時間だった。全身をめぐる血流が、ほてりとなって、ヨシコの体を潤す。死を間近にした人間でも、愛するものを求める体の欲求は静かに灯をつけるのだとヨシコは感じていた。
二人が唇をゆっくり離すとヨシコは言った。
「変わらない。変わりようもない。魂は、ユウヘイをちゃんと覚えている。こんなにも素晴らしいと思える。素敵なことだと思える。今日、ユウヘイにちゃんと会えてよかった」
ユウヘイはヨシコの言葉を受けて黙ったまま、また抱きしめた。
「このままユウヘイの腕の中で死んでいきたい」
「罪な女性だ」
「最後くらい、自分だけの人生に戻っても、いい」
ユウヘイは抱きしめた感触でヨシコの様子がわかっていた。骨ばってゴツゴツとした体になって骨と皮だけになったような印象を感じていた。いやがおうにも死期が近いことを訴えられているようで悲しみがあふれそうだった。それでも、変わらない魂の声を、しっかりと受け止めようと思った。
いくつもの断片がユウヘイの頭を通り過ぎる。初めてヨシコを抱いた日、二人ともどうしていいかわからなかった。本での微かな知識しかないまま二時間も苦戦した。初めて繋がりあった時、ヨシコは嬉し涙を流してユウヘイへと抱きつき、その身も心もすべてユウヘイに委ねた。それからは機会がめっきり少なく、女子寮の三階の窓へと排水パイプを伝って忍び込み、熱烈なキスを何度も交わし、一瞬の濃厚な時間を過ごした。そして時間になれば去るという日々を過ごした。
静かに体を離し、ゆっくりとヨシコを車椅子に座らせる。その時、エミがテラスへと入ってきた。
「あ、お母さん。呼んでるよ」
「ありがとう。エミちゃん」
エミは母親の微笑に気がついていた。それは友達同士の楽しく、嬉しいときに浮かぶ笑顔ではなく、女が静かに燃える幸福を胸に抱いたときに浮かべる笑顔だった。エミはその微妙な違い、内にこめた、底知れぬ幸福な微笑に気がついていた。ユウヘイがとても優しげな瞳でエミを見つめていた。
車椅子をエミが押して行こうとすると、ヨシコはユウヘイに「戻らないの?」と聞くと、ユウヘイは「少し、残らせて欲しい」と言った。エミは、どこか二人の微笑みの源泉が同じなのではないかと直感していた。
一週間後、ヨシコはこの世を去った。葬儀にはユウヘイの姿はなかった。
葬儀がひと段落して、エミは日が過ぎるごとに、徐々に母の死が実感できるようになっていた。それでも、どこか生きているような感じがして悲しみとぬくもりが同居していて変な気分だった。
エミは母親がテラスで見せた男との微笑を思い出していた。過酷ながんとの闘病の苦しみの表情から比べれば、どのような形であろうと幸福を抱いて最後にこの世を去れたのは、人間として最上の形なのではないかと思った。
何も話してくれなかったけれど、いじめられていた母が、あのような形で皆とわかりあうことができた。最後には最愛の人との再会も果たせた。面影もない父の姿を見られた。人の希望は、いつだって安易に捨ててよいものではないのだ。実際、周囲が諦めかけても母だけは諦めなかった。生きて、何かを伝えようとしていた。最後には、わだかまりも消え、満足して死ねた。宛先のわからない何十通もの手紙はすべて遺言により焼却したので手紙には何が書いてあったのかわからない。でも、生き抜くことの先に希望を見出すには、母のような慈愛を持たなければならないのだと、仏壇の写真を見ながら、お鈴を鳴らした。エミは静かに瞳を閉じて母を想った。
唇を重ねあった時間はとても長く感じられた。永遠とも言えるような優しくゆるやかな時間だった。全身をめぐる血流が、ほてりとなって、ヨシコの体を潤す。死を間近にした人間でも、愛するものを求める体の欲求は静かに灯をつけるのだとヨシコは感じていた。
二人が唇をゆっくり離すとヨシコは言った。
「変わらない。変わりようもない。魂は、ユウヘイをちゃんと覚えている。こんなにも素晴らしいと思える。素敵なことだと思える。今日、ユウヘイにちゃんと会えてよかった」
ユウヘイはヨシコの言葉を受けて黙ったまま、また抱きしめた。
「このままユウヘイの腕の中で死んでいきたい」
「罪な女性だ」
「最後くらい、自分だけの人生に戻っても、いい」
ユウヘイは抱きしめた感触でヨシコの様子がわかっていた。骨ばってゴツゴツとした体になって骨と皮だけになったような印象を感じていた。いやがおうにも死期が近いことを訴えられているようで悲しみがあふれそうだった。それでも、変わらない魂の声を、しっかりと受け止めようと思った。
いくつもの断片がユウヘイの頭を通り過ぎる。初めてヨシコを抱いた日、二人ともどうしていいかわからなかった。本での微かな知識しかないまま二時間も苦戦した。初めて繋がりあった時、ヨシコは嬉し涙を流してユウヘイへと抱きつき、その身も心もすべてユウヘイに委ねた。それからは機会がめっきり少なく、女子寮の三階の窓へと排水パイプを伝って忍び込み、熱烈なキスを何度も交わし、一瞬の濃厚な時間を過ごした。そして時間になれば去るという日々を過ごした。
静かに体を離し、ゆっくりとヨシコを車椅子に座らせる。その時、エミがテラスへと入ってきた。
「あ、お母さん。呼んでるよ」
「ありがとう。エミちゃん」
エミは母親の微笑に気がついていた。それは友達同士の楽しく、嬉しいときに浮かぶ笑顔ではなく、女が静かに燃える幸福を胸に抱いたときに浮かべる笑顔だった。エミはその微妙な違い、内にこめた、底知れぬ幸福な微笑に気がついていた。ユウヘイがとても優しげな瞳でエミを見つめていた。
車椅子をエミが押して行こうとすると、ヨシコはユウヘイに「戻らないの?」と聞くと、ユウヘイは「少し、残らせて欲しい」と言った。エミは、どこか二人の微笑みの源泉が同じなのではないかと直感していた。
一週間後、ヨシコはこの世を去った。葬儀にはユウヘイの姿はなかった。
葬儀がひと段落して、エミは日が過ぎるごとに、徐々に母の死が実感できるようになっていた。それでも、どこか生きているような感じがして悲しみとぬくもりが同居していて変な気分だった。
エミは母親がテラスで見せた男との微笑を思い出していた。過酷ながんとの闘病の苦しみの表情から比べれば、どのような形であろうと幸福を抱いて最後にこの世を去れたのは、人間として最上の形なのではないかと思った。
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