僕の好きな人は桜色のコートを纏う

いぬチワワ

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春の朝は爽快な目覚めでいたい。

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春の朝は爽快そうかいな目覚めでいたい。
それは桜を楽しむために必要な事だからと僕は思う。
昨日の仕事の疲れなど残していたら、せっかく通勤路に咲いている桜を楽しむことができないからだ。

「なんて我が身とはほど遠い事を思っても、切なくなるだけか」

そう。今日も目覚めは最悪だ。
取引先の決算書類が回ってくるのが遅れに遅れ、昨日も残業。
その後に上司に飲みに連れていかれ、帰宅したと同時に爆睡してしまった。
気付けば朝になり、慌ててシャワーと着替えを済ませてから出勤準備。
通勤路の桜並木の色とは程遠い、灰色の生活を送っている。
それでも、この生活が何とか続けられているのは

「あら、秋田君。今日も早いのね」

「お、おはようございます。神坂さん」

通勤路でばったり出くわした神坂桜子(かんざかさくらこ)さん。
会社の先輩で、明るく気さくながら、仕事もバリバリこなせる出来る女子って感じの人だ。

「秋田君、大変だったでしょ。昨日もホラ‥」

昨日、みんなで残業したあと飲みに行った事を言われてるんだろう。

「神坂さんだって、一緒じゃないですか」

「私は早く帰らせてもらったから大丈夫。秋田君こそ無理はしないでね」

「は、はい」

この笑顔を見るために早起きしてるんです。
とは口が裂けても言えない。
そう、ばったりなんて真っ赤な嘘だ。
神坂さんが出社する時間が早いから、それに合わせて出勤してるだけ。
そしてこんな何気ない会話で、元気が貰える。
我ながら何と単純な思考回路なんだ。

「神坂さん、そのコート…」

今日の神坂さんは一段と見目麗みめうるわしい。
その一端を担っているのは、間違いなく神坂さんが羽織っている淡い桜色のコートだろう。
その事について触れようとすると

「あ、これ?良い色でしょ。気に入ったから、買って貰っちゃった」

と上機嫌で返された。

「あ、はい…」

買って貰った?
誰に?
仕事が恋人って感じで、そんな素振りなんて全然無かったのに。
疑問で頭が一杯で、ろくに返事を返せない。

「この間の休日、兄がこっちに来たときに誕生日祝いだって。買ってくれたの」

が、答えはすぐ明らかになった。

「そうなんですね。僕はてっきり…」

「てっきり?」

露骨ろこつ安堵あんどする自分に恥ずかしくなって、思わず余計なことを口走る。
それを見逃す神坂さんではなかった。

「いや、あの」

「どうしたの?」

「か、彼氏さんからかなぁとか思ってみたりしてました」

「ふふ、何それ」

神坂さんは笑ったが、僕にとっては笑い事ではない。
勇気を振り絞った探り入れだったが、はぐらかされたのかもしれない。

「神坂さんって、その、そういった方は…」

この機を逃せば、もうチャンスは無いかもしれない!
何とかくらいつこうとすると、

「秋田君」

「は、はい!」

いやに真剣な顔で制止されてしまう。
何か気にさわったかな?

「こういう時は、女子は誉めて貰えると嬉しいんだよ」

真面目な顔でビシッと指を指される。
か、顔が近いんですけど!

「あ、はい!その、とてもよくお似合いです!」

「良かった。きっと秋田君ならそう言ってくれると思った!」

私が言わせてるだけかもね。
なんていいながら、鼻歌交じりの神坂さん。

「お二人とも。今日も早いですね」

「おはようございます」

と、至福の時間もここまで。
同期の冴木蓮二(さえきれんじ)と、一つ後輩の榊千夏(さかきちなつ)さんが向こうからやってくる。

「何の話をしてたんですか?」

「あらかた、秋田君が馬鹿なこと言って、神坂さんに説教されてたんだろうね」

さかきさんの問いに、冴木が茶々を入れる。

「冴木君。私って、秋田君に説教なんてしたことあったかしら?」

不思議そうな顔で聞いてくる神坂さん。

「冗談ですよ。ね、さかきさん」

冴木はいつものつかみどころの無い笑顔で、さかきさんに話を振る。

「えっと、その…」

口下手なさかきさんは、こうなると軽いパニックになってしまう。

「こら、千夏ちゃんを苛めないの。
ごめんね、千夏ちゃん。変なこと聞いたわね」

「あ、いえ、そんな…」

すかさず神坂さんはフォローを入れる。
即断即応そくだんそくおう
つまりは今日も神坂さんは頼れる人だった。

感心してみていると、ふと冴木と目があった。

「なんだよ」

「いや、朝から幸せのお裾分けを貰っただけさ」

だのと訳の分からない言葉ではぐらかす冴木。
ウィンクつきなのは、イケメンだろうと気持ち悪いからやめてほしい。

「始業まであまり時間がないですね」

「そうね。準備もあるし、そろそろ入ろうかしら」


神坂さんとさかきさんはそういって、会社の建物に入ろうとする。
新人は次の新人が入るまで、始業の前に一通りの準備をしなければならないという会社の暗黙あんもくのルールがある。
運悪くさかきさんの世代は他に新人がいないから、一人で準備をしていたのだ。
それを見かねた神坂さんが手伝っているという訳だ。

「神坂先輩、一人でも大丈夫ですから。先輩は色々なプロジェクトに関わって忙しいですし」

「今さらそんなこと言いっこ無しだよ、千夏ちゃん。
それに、皆が気持ちよく仕事できるようにする。
これってとっても大事な仕事だから、私は好きだよ」

そう笑って言う神坂さんは、とても眩しい。

「僕たちも手伝いますから」

「達って僕もカウントされてるのかな?」

神坂さん達に申し出ると、にこやかな顔を崩さず、冴木が口を挟んでくる。

「当たり前だろ、この流れでお前だけ断るのかよ」

「いや、まぁそうなるよね」

分かっていた展開だ、と訳知り顔で頷きながら建物に入っていく冴木と

「あ、冴木先輩。私も行きます」

それを追いかけるさかきさん。

二人残された僕たちだったが、いつまでも話しているわけにも行かない。


「給湯室はあの二人に任せるとして、僕たちも行きましょうか」

「えぇそうね。
ごめんなさい、秋田君。私のワガママに付き合ってくれて」


ワガママ。
言わんとすることは分かる。
これは新人の仕事だ。
僕たちや、まして神坂さんがする仕事ではない、と良い顔をしない人も社内にはいるようだ。
神坂さんもその事を知ってるのか、少し神妙そうに謝ってくる。

「神坂さんが謝ることではないですから」

朝の麗しい桜がこんなことでしぼんでしまうのは望んでいない。
が、うまい返答も思い付かず、当たりさわりの無い言葉が口をつく。

「そっか。じゃあ」

ありがとう。と、そういって微笑む姿は、春の朝に相応しい素敵なものだった。

「いえ」

顔が赤くなるのを自覚しながら、早足で建物へ入ろうとすると

「秋田君、さっきの話だけど」

後ろから神坂さんに呼び止められる。

「さっきの話、ですか?」

何のことだろう。
新人の朝の仕事についての事ならば、確かに僕にも思うところはあるが、


「私、仕事が恋人だからいないんだ」


「え?」

一瞬何のことか分からず、戸惑っていると

「なんでもないよ。早く行こう」

そう言って僕を追い抜いて行く神坂さん。
その頬は朝の肌寒さのせいか少し紅潮こうちょうしていたようにも見えた。


「そっか、いないのか」

何がいないのか。
それを実感するにいたり、胸の奥がじんわり熱くなっていくのが分かった。

今日は良い仕事ができそうな、そんな無責任な予感に心踊らせながら、僕は神坂さんを追いかけるのだった。
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