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問四・このときの感情を答えよ
昔のこと
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俺は、三日かけてミズキの志望校を選定した。
彼の学びたいことや得意分野を踏まえると、ユカリノ美術大学の造形学部・油絵学科が向いているという結論に達した。これは俺の判断というよりも自明のもので、誰が相談を受けても同じ答えを出すのではないだろうか。
ミズキが身を置きたいと考えている環境、指導を受けたい教員、強みなどがあまりに合致していた。最新の入試案内をぱらぱらと眺めつつ、やっぱりここだよな、とひとりごちる。蜂須にも相談したが同じ意見だった。レベルは高いものの、挑戦する価値はある。
〈美大を目指すのなら、ユカリノ大学が向いていると思う。まずはここをターゲットにして課題をこなしていこう〉
ミズキから送られてきた五冊分の作品は、どれも素晴らしいものだった。ただ口だけで美大を目指しているわけではない、意欲と実力の感じられるスケッチだ。ページの表裏にみっしりと詰められた、植物や静物、風景のデッサン。絵具を買い集めることは難しいのか、全て鉛筆で描かれていた。人物画も見たいところだが、他と比べて非常に少ない。モデルになってくれる相手がいないのだろう。街中で見かけた他人をサッと描き写したような、シンプルなクロッキーが数点あるだけだった。
〈正直な感想を述べると、美大を目指せるだけの素質はあると思う。ただ、最終的には親御さんと話し合って決めてほしい。学校の勉強をおろそかにしない範囲で、絵の課題もこなしていこう〉
〈ありがとうございます〉
二回目のミズキとの接触。今日は隣に誰もつかず、事務所の片隅でキーボードを叩いている。ただ、幹部メンバーたちはどこかでやり取りを見ていることだろう。今からチャットルームに入ります、という報告はしていた。
〈僕としても、親を悲しませてまで美大に進みたいわけではないんです。でも諦めたくもない。何とか折り合いをつけられたらと思うのですが〉
殊勝な考えに感心する。素質があると伝えた途端、学業そっちのけになる懸念も抱いていたのだが、安心して良さそうだ。もっとも、美大であろうと主要五科目の知識は必要になる。英語や数学の出題もあるのだから勉強して損はない。
〈それでは最初の課題を出すね。身の回りの静物をデッサンしてきてほしい。たとえば、こういう風な……〉
俺は一枚の写真を送信した。テーブルの上にティッシュ箱を四つ積み、傍らにリンゴを置いている。自宅にあるものをかき集めてそれっぽく撮影したものだ。しばらくアイコンが点滅した後、ミズキから質問が返ってきた。
〈この写真を模写するのですか?〉
〈いや、そうじゃないんだ。これはあくまでイメージで〉
空間を共有できないのが面倒だな。静物デッサンはただ写真を忠実に再現すればいいというものではなく、自身で角度や構図を決める必要がある。俺の写真を参考にするのではなく、自分でモチーフを用意して描いてほしいのだ。
〈直線と曲線の組み合わせがあるなら何でもいいよ。君の方で用意して、それをデッサンしてほしい。どんな構図で描くのか、どんな表現をするのかを見たいからね。俺の写真に合わせる必要はない〉
ユカリノ美術大学の定番課題だ。どの年度の過去問を見ても、こういったデッサンは必ず課されている。ティッシュ箱だったり本だったり、皿だったり塩ビパイプだったりとモチーフは様々だが、直線と曲線の組み合わせであることは変わらない。ありきたりなものをデッサンしながら、どのように自身のセンスを示すのか。そこを見られているのだろう。
練習のコツとして「写真の模写では意味がない」と記載されている。知ったような口ぶりで話しているが、俺はほとんど読み上げているだけだ。
〈分かりました。何か用意して描いてきますね〉
作業に取りかかるため、今日のやり取りはこれで終わりだ。亀の歩みだが、志望校の話ができたので良しとしよう。完全に美大を目指すと決まっているのなら、一日にひとつと言わず次々と課題を出すことができるのだが。彼にはまだメイカ大やハンノ大の可能性が残っている。時間をとらせるわけにはいかない。
「難しいな……」
チャットルームから退室し、小さく呟く。目の前で指導ができないので、何とも手探りの状態だった。とはいえ、手取り足取り教えるのはアラクネの仕事ではない、とも感じる。俺が任されているのはミズキを美大へ入れることではない。彼の選ぶべき道を共に考え、アドバイスをすることだ。課題は判断材料に過ぎない。
画面から目を離して顔を上げる。その途端、周囲の音が堰を切ったように流れ込んできた。それほど騒がしいオフィスではないはずだが、今だけは都会の喧騒の中にいるかのようだ。ミズキとのやり取りに集中するあまり、無意識に外部の情報を排除していたせいだろう。
「ソラくん」
背後からヌッと顔を出されたので驚いた。蝶野が話しかけてきたのだ。彼はデスクに手のひらをつくと、もう片方の手で一枚のチラシを差し出す。
「リンドウ洋菓子店のクリスマスケーキ。社割が利くから注文したら?」
「クリスマスケーキ……?」
ああ、もうそんな時期か。まだ十二月に入ったばかりだが、予約は既に始まっている。アラクネに食品部門はないので社割と呼ぶのは違う気がするが、要は企業同士の縁で値引きしてもらえるということだろう。
「洋菓子店となんて仕事したことありましたっけ」
チラシを受け取りつつ、素朴な疑問を口にする。出版社や科学館、果ては政府と関わりを持ったこともあるアラクネだが、飲食事業には進出していなかったはずだ。蝶野は勝手に隣の席に座り、同じチラシを覗き込みながら答えた。
「あるじゃん、五周年記念の引き出物。ここに依頼してるでしょ」
そういえばそうだったな。結婚式じゃあるまいに、引き出物という呼び方はどうかと思うが。お世話になった関係者へ配るため、洋菓子の詰め合わせを頼んでいたはずだ。アラクネのロゴが入ったマカロンやクッキー。食品に蜘蛛のマークは向かないという意見が出たので、文字だけをレタリングしたものだ。これは俺の仕事ではなく、リンドウ洋菓子店に一任していた。
「その縁でサービスしてもらえるんですね。どれも美味しそうだな……」
定番のショートケーキから、チョコレートケーキやフルーツタルトまで。凝った装飾のない、昔ながらの外見だ。恋人と分け合って食べるというよりは、家族で囲む食卓の方が似合う。まあ、俺にはどちらの機会もないわけだが。
「美味しそうですけど、独り身ですからね。ホールケーキはちょっと」
「いちばん小さいサイズならひとりでも食べきれるんじゃない?」
蝶野が写真を指し示す。紙面では縮尺が分かりづらいが、そこには小さいサイズのケーキが載っていた。三号だから直径九センチか。これなら確かにいけそうだ。
「個人的にはチョコレートが好きなんですが、ショートケーキも捨てがたいですね。お店のおすすめらしいですし」
「じゃあ、両方頼んだら?」
「いや、さすがに両方は……。ひとつ買うだけでも二人前くらいはありますよ。いっそタルトで軽めに抑えておくのも手かな」
「全部頼んだら?」
俺は話をやめて蝶野の顔を見る。本当に他人の行動を否定しないな、この人は。ストッパーがないというか。今回に限らず、誰かが何かを「しようかな」と話す度に「やったらいいじゃん」と返している。無責任と受け取ることもできるが、彼の声色には本心を感じられた。心の底から相手を肯定したいと考えているような……。
「食べきれる範囲で、じっくり考えておきます」
俺がそう返すと、蝶野は手を振ってから立ち去った。入れ替わりにマリアが近寄ってくる。俺に興味があるというよりは、蝶野が絡んだ相手に自分も絡みたい、という無意識の好意を感じられた。
なんだかんだいって彼のこと好きだよな、マリアさんって。
「また蝶野さんに絡まれていたの?」
その質問には是と非とも返しづらい。有益な情報を持ってきてくれたわけだし。ただし後半の会話は無駄話と呼ぶしかないものだった。
「どのケーキを選ぶか迷っていたら全部勧められました。あの人、本当に何もかも肯定するんですね」
マリアにチラシを見せながら言った。アラクネに所属して半年以上が経つが、蝶野に反対や否定をされたことがない。とにかく彼は背中を押してくれる。
「でも、アルバイトの採用に関しては落としてばっかりだったんですよね? 俺が応募してくるまで」
「それは……」
マリアは懐かしむように視線を揺らす。俺が採用されたことにより、大学に掲示されていた募集要項も撤去された。あれから人員を補充する機会は訪れていない。いまだに俺がいちばんの新人だ。
彼が本当に応募者を落としてばかりいたのか、俺の視点では確証が持てなかった。あの性格なら、来るもの拒まず受け入れそうなのに。
「それは、実際に冷やかしが多かったからよ」
苦笑まじりに答えが返ってくる。当時のことを思い出しているのだろう。
「ちょうど、ネットで変な噂が立っちゃった時期で。蝶野さんには、採用というよりも用心棒的な役割を期待していたの。冷やかしで面接を受けに行っても変な男が出てくるだけだ、って噂で上書きしたくて」
「変な男って」
思わず笑ってしまう。マリアもわずかに口元を緩めた。おおかた「アラクネのアルバイトに応募するとマリアと話ができる」なんて噂が広まってしまったのだろう。今となっては笑い話だが、あの頃は本当に困っていたはずだ。明らかに面接には向いていない蝶野を駆り出すくらいなのだから。
「つまり、俺が男である時点で警戒されていたわけですね」
「ちゃんと『大丈夫そうなら私に繋いで』とは言っていたわよ。まさか蝶野さんがそのまま採用を決めちゃうとは思わなかったわ」
彼が俺に対して何を見出したのか、いまだに謎のままだ。マリアは「光るもの」だなんて曖昧な表現をしたが、そんな良いものが俺の中にあるとは思えない。もしかすると打算や私欲で採用されたのかもしれない。
俺はそれでもいいと思っている。
「でも、昔はね――」
くすくすと笑っていたマリアが、ふと表情を鎮めた。どこか悲しそうな、不安げな色を帯びた声で呟くように話す。
「昔はね、ここまでじゃなかったのよ」
俺の顔から視線を外し、遠くを見ている。壁と天井の境界。何もない場所。彼女の頭の中には何が浮かんでいるのだろう。
「相談を持ち掛けたら否定で返されることもあったわ。全てを勧めてくれるわけじゃなかった。成功する可能性が低いからやめた方がいい、ということも言える人だったのよ。言いがかりじゃなくて、ちゃんと誠実に、ね」
「意外ですね」
正直な感想を告げる。俺には想像もつかない。とはいえ、それが人間として正しい形だとも思う。今の蝶野がおかしいだけだ。
まるで、どこか壊れてしまったかのように。
「いつから変わっちゃったんですか」
当然の疑問として、そう尋ねた。マリアは視線を戻す。少しぼんやりとした表情をしていた。月日を数えるように指先が動いた後、唇がそっと開く。
「あれはアラクネが二周年を迎えた頃……」
言いかけてすぐにやめる。失言した、という空気が俺にも伝わってきた。俺としては何気ない質問のつもりだったのだが、触れてはいけなかったようだ。マリアはとってつけたかのように用事を思い出し、足早に去ってしまった。こんな反応をされるということは、他のメンバーから聞き出すことも難しいだろう。
何とも言えない気味悪さを覚えながら、俺も自身の作業へ戻ることにした。
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