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六月・命短し流せよ素麺
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その人の髪は、何より目を惹いた。
腰まで届く長さの黒髪を、太い三つ編みにしている。編んだ上でその長さなのだから、解けばそれ以上だろう。生まれてから一度も染めたことが無さそうな、深い、深い黒。三日月の如き白い艶が、結び目ごとに浮かび上がる。そんな見事な髪を持つ女性が、カフェのカウンタ席に座っていた。
私は二階から降りてきたところだった。いつものように、螺旋階段をカンカン鳴らして店の様子を覗きに来たのだ。その音はここにいる全員の耳に響き、彼女と、そして隣に立つ青年を振り返らせることになった。女性の方は初対面だ。こんな容姿の知人がいれば、絶対に忘れない。対する青年はカフェの常連客であり、名を二色小龍という。
「サークルの先輩。学部の先輩でもあるけれど」
彼はそう言って紹介した。
サークルとは大学での活動のことだろう。小龍のような社交的な男が、どこにも所属していない方が不思議というものだ。とはいえ、今までその手の話を聞いたことがなかった。家族の話なら何度も聞いたし、双子の妹に会ったこともある。しかし、彼が大学の話をすることはほとんどなかった。女性のことを学部の先輩でもあると言ったが、その学部すら私は知らなかったのだ。
「待って、当ててみる」
まだ女性はひと言も発していない。柔らかに微笑む彼女を前に、私は片手を突き出して制した。小龍には音楽の才能がある。だが、音楽家を目指しているわけではない、ということは二月に聞いた。あの頃は同じアパートに住む少女の家庭教師をしていたが、今でも誰かに教えているのだろうか。少なくとも、教え子を志望校に合格させた実績があることは確かだ。
「……教育学部」
私が呟くと、ふたり揃って「当たり」と応えた。
「先輩ゆうても、ウチは院生や。二色くんは学部四回生やしね」
意外なことに彼女の口からは関西の訛りが紡がれた。こちらを向いた彼女の顔は、息を呑むほどに美しい。髪だけでない。容貌の全てが人形のように整っている。比べるような、品定めするような真似は良くないと分かっていても、こんなに綺麗な人を見たことはないと考えてしまった。
「自己紹介せなあかんな」
椅子を回して立ち上がる。細い体躯が、純白のワンピースに包まれていた。六月とはいえ既に蒸し暑く、涼やかなレースの袖がよく似合っていた。
「望野七珠(もちのななみ)です。修士二年、二十四歳。まあ、サークルやとけっこうな古株やな」
互いに歩み寄る。凛とした姿勢で手を差し伸べる七珠に応じると、握手した途端に触れた場所から花弁が舞い落ちた。
「わっ」
私と彼女、どちらかが花の精だった、なんてワケもなく。
「びっくりした?」
落ちた造花を拾い上げた彼女は、それを手の中に詰める。次にパッと開いたときにはどこにも見えなくなっていた。
「これがうちらのサークルでやってることや」
「奇術サークルなんだよ」
小龍がくすくすと笑っている。よほど私がぽかんとした顔をしていたのだろう。それほど彼女の手品は見事だった。小龍もこのようなことをするのだろうか。
「いや、俺は――ジャグリングの方、だな」
私の疑問に彼は応える。
「マジックかジャグリングか、サークルメンバの中でだいたい分かれている。七珠さんみたいに両方できる人もいるけれど。俺はジャグリングが専門」
「ええー、見たい!」
「道具が無いからまた今度。狙った場所に物を投げたりするの、得意だよ」
その後も七珠はいくつかの手品を見せてくれた。マジシャンたるもの、いつでも期待に応えられるようにタネを仕込んである――と誰かが言っていたっけ。トランプの数字が変わり、指の間に玉が現れ、喉をひと突きしたナイフが首の後ろから飛び出した頃、ようやく私は彼らの目的について尋ねた。
「もしかしておふたりさん、ここで誰か待ってる?」
先ほどから店長が姿を見せない。テーブルにはグラスがひとつずつ置かれているが、全て飲み干され氷が小さくなりつつあった。私が来るよりずっと前からいたのだろう。まるで誰かと待ち合わせしているような。
「そうなんよ、ちょっと人を待っていて」
彼女が時計を見上げたときだった。
ガラス扉の向こうのピロティに車が入ってくる。夏の日差しに黒い塗装をぎらりと輝かせながら回転し、ラインに沿って停止した。少し厳つい乗用車。運転席が開いて降りてきたのは、その車と同じ雰囲気の大柄な男だった。まとう空気に柔らかさは一切なく、顔の見えない距離からでも真面目な職種の人間であると感じる。彼が、ふたりの待ち合わせの相手なのか。
「難波先生!」
七珠が立ち上がり、手を振る。小龍は黙って眺めているだけだ。どうやら特に親しいのは彼女の方であり、彼は付き添いなのだろう。男はこちらに視線を向けた後、後部座席のドアを開けた。同乗者の両足がその下から覗き、やがてちょこんと全身を見せる。一緒に車に乗っていたのは、五、六歳ほどの少年だった。
「すまない。遅くなった」
ドアベルの音。扉を押し開けた男の腕の下から少年が滑り込む。
「お姉ちゃん!」
そう言って七珠に駆け寄るので親戚の子かと思ったが、彼女が男のことを先生と呼んだので違うだろう。恩師か、あるいは今も世話になっている教授とその息子、といったところか。だが、彼らの素性に推測を巡らせるより先に、ずっと思考を奪う部分がある。少年の頭は丸刈りであり、それを毛糸の帽子で隠しているように見えるのだ。積み木の色みたいに鮮やかな、シンプルな青色の帽子だった。じゃれ合う相手の七珠が見事な髪を持つものだから、対比が痛々しいほどに目立ってしまう。
「君はここの店員かな」
上着を脱ぎながら男が問うてきた。いいえ、とも、そのようなものです、とも返す間もなく彼は言葉を続ける。
「私は夏川大の理学部で助教授をしている 難波零次(なんばれいじ)という。そこにいる二色くんと望野くんの在籍している大学だが、ふたりとも学部が異なるので接点はない、な」
「ウチとは入学前からの個人的な付き合いやね、先生」
「そういうことだ。高校生の頃、うちのゼミに見学まで来た君がまさか文系に進むとは思わなかったが――ああ、最初に会った日はいつだったかな」
「そんなん覚えとるわけないやないの。あの頃ウチはまだ十七やで。ハジメくんも生まれとらんし」
「二千五百六十二日前、だよ」
「あはは。適当にゆうたあかん、ハジメくん」
思わずカレンダを見る。今日は六月二十日だった。ハジメと呼ばれた少年が何を根拠にその数字を告げたのかは分からないが、私の頭では季節すら浮かばない。カレンダに視線を据えたまま計算を続けていると、隣の戸口から店長が姿を見せた。
「どうも、難波先生。ハジメくんも」
私の方を向き、
「たまに来て下さるんだよ」
と説明する。難波親子とは顔なじみのようだ。すかさずハジメは七珠の腰から離れ、店長の元へ向かった。
「こんにちは、蝶々のおじさん」
このカフェの看板には蝶を模した絵柄があり、店名〈ラドガ〉もアサマイチモンジという蝶の学名から取ったものだ。素敵な呼び方だな、と感じた。
「ハジメくん、リクエストがあるんだったよね」
グラスを片付けながら、彼は優しい声で問い掛ける。うん、と少年は頷いた。
「お子さまランチ!」
「そう、お子さまランチ。聞いているよ。すぐ出来上がるからね」
「助かります。久方ぶりに病院の外で食事できるのだから、家の料理よりもこういった物の方が良いと私も思いまして」
「お子さまランチをリクエストされたら、家で作るのも違う気がしますよね」
本来、カフェのメニューにお子さまランチなど無いことを私は知っている。病院、という単語を聞いて合点がいった。帽子で隠した丸刈りの頭も、つまりはそういうことなのだろう。ハジメの食べられるものを使いつつ、憧れであるお子さまランチを再現するためには店長の協力が必要だった。だから彼らはここで待ち合わせをしていたのだ。
カウンタ席は椅子が高すぎるため、親子は近くの円卓に着いた。二脚の椅子が向かい合っている。続けて七珠がボックス席へ座り、滑り込むように小龍が隣に腰掛けた。
「ちょっと」
彼女は肘で後輩をつつく。言わんとすることは私にも分かった。ボックス席には四人が座れるように一対のソファがあるが、片方だけをふたりで使っている。つまり小龍は、対面が空いているのにわざと隣に座ったのだ。
「すぐ隣に詰めて座る癖、やめなあかんよ」
「あ、すみません。先輩」
「ウチは慣れとるけど、他の女の子にやったら怖がらせるで」
おそらく、小龍のような風貌の青年ならば、怖がらせるというより誤解させることの方が多いだろう――と思ったが口にしない。おかしな癖もあるものだ。とはいえ、意図的にしたようにも思えないが。そういえば旧友である如月サツキと同席する際、このように隣に座っているのを見た記憶がある。
小龍が慌てて対面席へと移動する。私は客ではないので、適当な壁に背を預けて立っていた。厨房の奥から良い匂いが漂ってくる。懐かしいナポリタンの香り。そして、エビフライとハンバーグ。
「でも、良かったです」
ハジメの首にナプキンを掛ける難波の方を見ながら、私は言った。
「久しぶりの外でのご飯でしょう? 退院おめでとうございます」
お子さまランチを食べるのは初めてかもしれない。彼は明るく元気だが、その体躯はあまりに細かった。父親が馴染みの喫茶店に頼んででも叶えたかったリクエストは、病を克服した息子へのプレゼントだ。そう考えることの何が間違っていただろうか。
難波は顔を上げた。そして、口角を僅かに上げて目を細めた。ここに来てから最初に浮かべた笑顔かもしれない。
「そうだな、まあ、説明が必要ではあるな」
彼の語り口から、私はこの場で私だけが重大な事実を知り損ねていることを察した。
「今から話すことは、子供の前で大っぴらにするようなものではないと言われがちな内容だ。だが私はそう思わないし、最初から隠さないと決めてハジメにも伝えてある。何より私は嘘がつけない人間だ……彼女とは、違うようだがな」
「せやで。ウチは嘘がつける女や」
離れた席から七珠が軽く手を上げる。急に振られた話題を即座に返したということは、実際に幾度も嘘をついたことがあるのだろう。意外だった。しかし、難波の方は見目の通りだ。四角四面の堅苦しい男。嘘をつけないという嘘すらつけない。
「ひとつ目。前提として、これは退院ではない」
数を示しているのか、難波は指を一本立てた。だが人差し指ではなく親指だ。指を使って数えるときの仕草としては珍しい。
「簡潔に説明するならば猶予、か。いや、仮釈放? 何にせよ病気は一切快方に向かってはおらず、予断を辞さない状況である。正直、このように外食を楽しんでいる場合ではない。常に危険と隣り合わせだ」
そんな話をする彼の傍らに、まさに「危険」の種となり得る存在が運ばれてきた。店長がワゴンに乗せたプレートを移動させる。実のところ、この店ではワゴンなぞ滅多に使わない。これも演出というものだろう。
「それでも病院を出る許可を得たのには事情がある――というのが、ふたつ目」
また指を立てる。今度は親指を引っ込め、代わりに人差し指を。
「ハジメは一週間後に手術を控えている。成功すれば病気はうんと扱いやすくなるが、意識を失ったまま戻って来ない可能性もある。誰が失敗した、誰の努力が足りなかった、などという話ではなく。難病の治療とは、元よりそういうものだ」
テーブルにはお子さまランチがある。冷静に語る父親の言葉とは対照的に、温かな湯気が立っていた。予め伝えてあるという言葉に偽りは無く、ハジメは何も動じずハンバーグを食べている。これが最後になるかもしれないのか。これより先の一週間で経験すること全てが、彼にとっての最後の思い出になるかもしれないということなのか。
「分かってもらえただろうか。今日からずっと、食事は息子の希望に応えることにする。行きたい場所へも、可能な限り連れて行こう。まるで退院祝いのようなことをするだろうが、全てこういった事情なのだ。もちろん誤解は止むを得ん。行く先々で何度でも説明するし、隠さない。君もそのつもりでいて欲しい」
一週間後の手術で死ぬかもしれない。眠ったらもう目覚めないかもしれない。普通はそんな話を病気の子供にしないだろう。だが、何も話さず大丈夫だと嘘をつくのと、どちらが残酷なのかは分からない。きっと七珠は反対したはずだ。嘘がつける女だと嘯いたのも、軽い意趣返しのつもりだろう。けれども最終的には難波に従い、小龍も、店長も、その後に続いた。
難波は話を再開する。
「三つ目」
人差し指を立てたまま、親指も立てる。指の数は二本だが示しているのは三、だ。その独特な数え方に首を傾げつつも、次の言葉を待った。
「死んだら天国という場所に行って、いつかそこで集合するのだという説は採用していない。これは個人的な方針であり強要するつもりはないが、私が専門としているのは民俗学ではなく数学だからな。証明できないものは伝えられない。だがハジメが私の考えに全て倣うかどうかは別だ」
「オレ、天国は信じてるよ」
「――だ、そうだ。少なくとも、当たり前のようにその前提で話さないでくれ、というわけだな。信じる者の中には天国が存在することだろう。押し付けない。否定しない。それだけ守ってもらえれば十分だ」
不思議な関係だと思った。重大な手術を控えた息子に、何のことはないように接してくれと言われるのなら分かる。あるいは、どんな結末を迎えたとしても寂しくはないのだと励ますように頼まれるのなら。しかし難波はそのどちらでもなく、ただ真実の中にのみ生きている。それでいてハジメの方も流されず、自分は自分で天国を信じていると話す。
「初めて会った君に私から伝えておきたいことは以上だ」
お子さまランチを食べ進めるハジメの方に視線を遣り、それから私の方を向いて彼は言った。何度も繰り返しているかのような、自然に紡がれる言葉だ。否、実際に慣れたことなのだろう。父親であると同時に大学教員でもある彼にとって、自身の意見を滔々と語ることは日常の光景だ。
ならば、質疑応答があっても良い。
「難波先生。ひとつ尋ねたいことがあるのですが」
「良いだろう。ええと――君は」
「雨屋です。私の名前は、雨屋りりす」
応えながら微笑むと、私は彼の元へと歩み寄った。食事の介添えをする手元まではっきり見える位置に寄る。ふと目についたときから気になっていたのだ。彼の薬指には銀の無骨なリングが嵌められており、三桁の数字が彫られている。
「最初に理学部の助教授だと聞きましたが、専門は数学なんですね。もしかしてその指輪の数字も、何か特別な意味があるものですか?」
「ああ」
彼は自身の左手を見遣る。「615」という数字だ。日付という見方もできるし、単なる自然数という考え方もできる。装着者が眺めたときに真っ直ぐ読めるよう、手首側を下にして記されていた。
「君は、何だと考える?」
「日付ですかね? あ、結婚記念日とか」
その言葉に対しては、「いや違う」と即答された。
「これは結婚記念日ではない。何故なら私は未婚であり、ハジメは養子だからだ」
こういったことを子供の前で話すのも珍しい。だが、今となっては素直に納得できる方針であった。母親が話に出ないことは、少しばかり案じていたのだ。それも、元より存在しないのならば当然だ。
「数字として見たときに意味の生じるものでもない。完全数にもフィボナッチ数にも当てはまらず、もちろん素数でもないので〈割れないように〉という意味も無く。特に面白味のない三桁だ」
「じゃあ、それは一体?」
私がそう問い返したとき、ハジメが食事を終えてフォークを置いた。難波はそちらの方を向き直り、ごちそうさま、と手を合わせる口元を拭く。
「課題にしておこう。その時が来れば、きっと知れることだ」
はぐらかされた気がする。だが、満足そうなハジメの顔を見ていると、これ以上父親を横取るつもりにもなれなかった。
「美味しかった? ハジメくん」
「うん」
「次は何を食べたい?」
今日も明日も、彼は悔いを残さない食事を続けなければならない。多少の無茶でも父は叶えてくれるだろう。私の質問に、無邪気な声が返った。
「流しそうめんが食べてみたい!」
「へえ、流しそうめんかあ」
嗚呼それは良い。まだ夏も始まったばかりだというのに蒸し暑く、涼やかなのど越しのものを食べたくなるのだ。皆で集まって楽しくやるというのも大事だろう。彼の選択は最良で最適だと思えた。
ただし、その準備が整っていれば、であるが。
「流しそうめんやて、お父さん」
七珠が口を挟む。
「ええなあ。やるときはウチらも呼んでぇや」
「流しそうめん……竹と支柱……必要な広さは……」
さすがに予想外だったのか、難波は困惑の表情を浮かべている。家庭用の小さな装置で済ませる、などという算段は最初から捨てているだろう。これは単なる家族サービスではない。やるからには、ハジメの憧れる本当の流しそうめんをやらなければ。彼がこれからとるべき行動について、私は思いを馳せた。
「――ホームセンタ、近くにありますよ」
とりあえず私は、そう助言した。
*
難波ハジメは四月から小学生になった六歳の少年だ。
翌日、彼はランドセルを背負ってカフェに現れた。綺麗なぴかぴかのランドセルであり、事実それは新品であった。彼の初めての登校日だったのだ。担任の教師やクラスメイトは何度も見舞いに来ていたらしい。手紙のやり取りもあり、関係は良好だ。それでも実際に教室へ向かうのは、これが最初のことだった。
「かっこええやん、それ」
カフェに集合しているのは七珠と小龍、そして常連客のサツキだ。サツキは七珠や難波親子のことを旧友から聞いていたらしく、事情を説明する必要は特に無かった。助教授は店長を伴ってホームセンタへ向かっている。本日のカフェは、表向きはお休みだ。
「流しそうめん、いまお父さんたちが材料を集めているからね。ちょっと時間は掛かるかもしれないけれど、凄いのが出来上がるよ」
何せ数学の専門家が傾斜から水量まで計算して描いた設計図だ。少し見せてもらったが、私にはさっぱり理解できなかった。タイムリミットは一週間であり、それまでには必ず完成させるが、すぐにというわけにはいかない。父親が買い出しをする間、このカフェでハジメを預かることになったのだ。
「それにしても、やな」
ソファに並んで座る小龍とサツキを見ながら七珠が言った。
「サツキくんの話は二色くんから聞いとったけど、てっきり女の子や思てたわ。幼馴染の女の子と今も仲良うやっとるなんて、隅に置けんな、と」
「まさか」
小龍はサツキと顔を見合わせて笑う。
「俺は女性を部屋に上げたことすらありませんよ」
「まあ、こんな名前ですからね」
大学生たちが語らう隣で、ぱたん、とランドセルを閉じる音がする。振り向いた七珠が目ざとく何かに気付いた。
「お、それテストとちゃうん?」
学校に行くのが初めてであれば、試験を受け、その結果を受け取る経験も初めてだろう。そしてそれをすぐには見せず、ひっそりランドセルに仕舞うことも。ハジメは何も答えずはにかむ。
「なんやその反応。さてはあんまり結果に自信ない感じやな?」
七珠は追及するが、もちろん本気で責めているわけではない。重い病気と闘う彼にとって生き抜くことこそが満点であり、それ以外は些事なのだ。つまりこれは「テストの結果を隠す子供とそれを見付けた保護者」のロールプレイであり、どんなに願っても実現し得なかったことを、初めてやってみること自体を楽しんでいる。
「ちらっと見えたで。五十七、やったかな? 国語、あんま得意じゃないもんなあ」
「違うよぉ」
ハジメはランドセルから用紙を引っ張り出す。
「七十五点だよ」
「ええやんか! ごめんな、五十七点なんかゆうて。似てるから間違えてしもた」
「お姉ちゃんも国語はあまり得意じゃないよね」
ハジメが無邪気に話す。今度は七珠がはにかむ番だった。
「せやねん……ウチ、ほんまは国語あかんねん」
「教育学部を院まで進んだ人が何を言っているんですか」
小龍が会話に加わった。
「俺は得意ですよ、国語。教えるのも下手ではないつもりです」
その視線が揺れ、どこか遠くを一度だけ眺める。かつて愛した教え子のことを思い出しているのかもしれない。彼女は遠くへ行ってしまったし、母親と共に上京したものだから、ここに戻って来る理由を失ってしまった。二度と会えないかもしれない、という言葉は限りなく現実的だ。
七珠はその事情を知っているだろうか。
「それじゃあ、二色くんに教えてもらおか」
あの日、彼が吐露した感情は、彼の信頼する者だけが共有する秘密だ。
「家庭教師お願いしてもええ?」
「そうですね……」
軽く目を伏せる。
「ハジメくんの手術が無事に終わって、また学校に行けるようになったら」
「せやて、ハジメくん。今度お父さんに言うてみ」
「うん。お姉ちゃんのお友だちだったらパパも良いって言うと思う」
そのようなやり取りを耳にしながら、七珠と難波助教授の関係はどのようなものなのだろうかと考えた。信頼を置かれていることは確かである。だが、その信頼はどこから発生したのか。彼のゼミに高校生の頃の七珠が見学に来たのが出会いだと聞いているが、結局彼女は文系に進んだのだ。同じ大学にいても接点はまず無い。
しかし当人たちがそれ以降の接触について全く話そうとしないのだから、触れてはいけない話題のような気もする。私がぼんやり思案を巡らせている内に、話題はハジメの被る帽子へと移っていた。
昨日、初めて会った際には青色だった毛糸の帽子だが、今日は赤色である。どうやら赤・青・黄の三種類を持っており、日によって使い分けていることが会話から分かった。
「そのバッジは?」
目に留まったので尋ねてみる。帽子の縁に沿っていくつかの缶バッジが留められていたのだ。最初はアニメのキャラクタグッズかと思ったが、抽象的な絵柄の、大人びたデザインだった。正直、ハジメが自分で選んだようには考えにくい。
「これね、ピエロさんに貰ったの」
ハジメの返答は妙なものだった。何でも、病棟には時にピエロが現れ、手品や芸を見せてくれたり話し相手になったりするらしい。もじゃもじゃの頭にカラフルな衣装、のっぺりとしたメイクと赤い唇。白く閉ざされた空間におけるその姿は、むしろ恐怖を与えるほど場違いではないだろうか。入院している子供たちへの慰問というのならば、もっと適した存在があるはずだ。
「クリニクラウンという職業がある」
小龍たちが落ち着いた声で解説を挟んだ。
「日本では臨床道化師という呼ばれ方もしているかな。入院中の小児の元を訪れて、一緒に遊んだり交流したりするピエロだ。ハジメくんのいた病院にも、定期的にやって来るクリニクラウンがひとりいるみたいだな」
「ほんまは、コミュニケーションを見せるという観点で、複数で派遣される方がええんやけどな。まだ数も少ないしなかなか、な」
教育学部生の話を聞きながら私は納得する。そのピエロが何かの記念やご褒美として、彼にバッジを渡したということか。
「ピエロさんの帽子当てゲームだよ」
自身の頭部を指さしながら、ハジメは言った。
「ピエロさんも三つの色の帽子を持ってるんだ。どの色を被って来るのかはお楽しみ。だからオレは想像して、今日はこの色かなって思う色の帽子を被っておくんだよ。それが正解していたら、バッジをひとつくれるの」
つまり三択の運試しに成功すれば、ピエロからささやかなプレゼントを貰えるということだ。帽子に着けられているバッジの数は五つ。いつからそのゲームを始めたのか知らないので何とも言えないが、まずまずの勝率ではないだろうか。
「お姉ちゃん、このゲーム下手くそなんだよね」
ハジメは笑う。
「お姉ちゃんに『次はどの色だと思う?』って訊いたらほとんど外しちゃうんだ。七回連続でハズレだったこともある。だからオレ、お姉ちゃんの言った色は選ばないようにしているよ」
「イヤやわ、バラさんといてゆうたやん」
小突かれたハジメがころりと倒れる。そのままふたりでじゃれ合っていた。こうして見ると本当の姉弟のようであり、家族でないことが不思議なほどだ。歳は離れているが、小龍とその妹たちも同じくらいだったはず。父親である難波は嘘を吐かないが、彼女はきっと嘘でも良いので彼を安心させたいと思っているだろう。そのことに関して衝突があったかもしれない。七珠はハジメに対しては甘くとも、難波にはどこか突っかかるようなきらいがあった。
「ほらお父さんら帰って来たわ」
彼女の声に従って窓の外を見ると、黒塗りの車が滑り込んでくるところだった。運転席から助教授が、後部座席から店長が降りてくる。材料の買い出しが終わり、これから流しそうめんの装置を組み立てるのだろう。場所はこの建物のピロティを貸すことにした。屋根の確保された十分な空間を使わない手はない。
今日はよく晴れている。風も爽やかだ。装置が完成し、流しそうめんに興じる日もこのような天気だと良いのだが。ハジメは父親たちの方へ向かい、そのまま作業の見学を始めたようだ。大人だけの空間になった店内で、ふと、サツキがラジオを点ける。
ニュース番組。特に大きな事件もなく。長かった梅雨が明け、遠き都心でのイベントの報せだとか、有名な文学賞の受賞者が決まったとか。しばらくダイヤルを回した後、穏やかな音楽の流れる周波数に落ち着いた。
息遣いが聞こえる。サツキが珍しく溜め息を吐いた。否、深呼吸かもしれない。天使が通り過ぎたのか、黙りこくってしまった学生たちの前に、静かな問い掛けが転がる。
「望野さんたちの奇術サークルは、どのくらいの規模ですか」
世間話にしては沈んだ声だった。だが、内容は他愛もないそれだ。
「それほど大きくなかったりしますか」
「俺らの所属するサークルか?」
七珠を見下ろすように視線を遣りながら小龍が言った。彼は少し背の高い椅子に座っており、それは彼女の腰掛けるソファの傍らにあるのだ。テーブルを挟んで七珠と向かい合う位置にサツキがいる。そして、私は相も変わらず壁際だ。
「いや、けっこう大きいぞ。どうしてそんなことを訊くんだ」
「君は望野さんの紹介をするとき、サークルの先輩だと最初に言ってから、学部の先輩でもあると言った」
私は昨日のことを思い返してみる。サツキの言う通り、彼は彼女をサークルの先輩として紹介していた。学部も同じだと言ったのは後付けだ。その後、七珠が自身は院生であることをアピールし、あまり接点の無さそうな文脈でもあった。
「つまりゼミの先輩ではない。同じゼミならそう話すだろうし、学部の先輩という紹介が二番目にはならないはずだ。サークルという場での繋がりが最も強いからこそ、まずその説明をしたんだろう?」
「まあそりゃあ、そうなるだろうな。見ての通り親しくしていただいている。サークルの仲間として、な」
「だから規模が小さいのかなと思った。人数の多いところだと、縦の繋がりって薄くなったりしないかい? しかも二色はジャグリング部門で、望野さんはマジックの方がメインだろう」
「それは……」
応えようとした小龍の口が止まる。譲るように視線が七珠に向けられた。そもそもサツキは七珠に問いかけたのであり、彼は横入りしたような形だ。多人数が所属するサークルにおいて、彼らが特に親しいのは何故か――質問の内容をまとめれば、そういうことになるのだが。
「特別なんよ」
正面からはっきりと、彼女の声が聞こえた。
「ウチと二色くんは特別。他の人らとは違うんや。あんだけの人数のおるサークルでも、ウチらと同じような人間にはなかなか出会えへん」
瞬きひとつしない絵画のような静けさで、彼女は滔と語っていた。ここにいる皆、まだ学問の途にいる若輩たちだ。それぞれ何処へ進むのかも分からない。今まではハジメという少年を囲んで繋がっていただけであり、彼が立ち去れば崩れ落ちてしまう関係だ――そう考えてしまうほどに、どこか突き放した口調だった。
意外だ。
彼女はこんなにも、選民意識のある人物だったろうか?
「ウチは難波先生とちゃうからな。特別な存在として生まれたら、神様から贔屓されたんやと思うし、そんなウチが祈れば神様も聞いてくれるんちゃうかとも考える。ウチは祈っとるんや。前からずっとずっと、もう何年も」
ソファには髪の長い女性が座っている。細い指を絡めて両手を膝に置く。今日の彼女は黒だけの服装だった。暑苦しさは感じない、少し肌の透ける煙のようなワンピース。
「祈りが成就するまでは、ウチは特別でありたいんや」
その薬指に嵌められた三つの宝石の指輪が、ふと意識に留まった。
*
ハジメの外出が許された一週間のうち、最終日は遊園地に行くことが決まっていた。
もちろん私たちはついて行かない。家族水入らずの時間を奪うのは野暮だ。その予定と天気予報を照らし合わせた結果、流しそうめんの実行日は六日目となった。遊園地で思い切り遊ぶ前日。つまり、私たちがハジメと過ごせる最後の時間。
どんなに濃くしようと願っていても、時は同じ速度で過ぎてゆく。カフェ・ラドガに五度現れた七珠は、その二回が白い服、三回が黒い服を着ていた。黒い方が似合うのだと当人は言う。こちらからすれば、彼女ほど美しい女性に似合わないものなど無いのだが。難波親子の方も変わりなく、喜ばしいことに小康状態を保っている。
「ハジメくん、こっちおいで」
私たちは友人になれた、と思う。大きなテーブルを囲む席に手招きすれば、跳ねるように駆け寄ってくれた。難波助教授は少し離れた窓辺の椅子にいる。店長がカウンタの中で冷たい飲み物を用意している。グラスの氷が少しずつ溶けて傾いてゆくような、穏やかな時間が流れていた。
「いよいよ明日やなあ、流しそうめん」
独り言のように、七珠が語り掛ける。今日も学校へ行くことができたハジメは、算数の宿題を持ち帰っていた。小龍が隣に座って教えている。提出日は来週だそうだが、たとえ術後の経過が順調でも退院していない頃だろう。教師もそれは把握しているはずなので、提出する必要のない宿題だ。それでも解く。明るく努める友人たちと語らいながら、白い空欄を埋めてゆく。
「望野さん、ハーブは大丈夫な方ですか?」
カウンタから店長の声が聞こえた。呼ばれた七珠は立ち上がり、彼の元へ向かう。
「どうしはりましたん、店長さん」
「カモミールのアイスハーブティーです。新しくメニューに入れようかと考えているのですが、女性の方に試して頂きたく」
「あらあ、嬉しいやん」
彼の差し出したグラスには薄いイエローのハーブティーが注がれている。確かに今までメニューに無かったものだが、きっと試飲と称した差し入れだろう。カモミールには気分を落ち着かせる効果がある。先日、急に刺々しい空気をまとった七珠の姿を彼は知らないはずだが、それでも感じ取るものがあったのか。
今の彼女は、無理して気丈に振る舞っているように見える。
(あ、指輪……)
グラスを受け取る彼女の指がきらめいた。会う度に同じ指輪を嵌めているので、どうしても気になってしまう。小さな石が三つ並んだ指輪。左から順に、薄ピンク、オレンジ、焦茶色。若い女性が着けるものとして自然なデザインであるし、お気に入りの指輪のひとつふたつはあるだろう、とは思うものの。
「それにしてもハジメくん、勉強頑張るね」
持ち込んだノートパソコンを操作しつつ、サツキが言った。確かに彼の言う通り、ハジメは宿題も試験勉強もしっかりこなしている。学校に通い始めたのはごく最近のことであるが、病室にプリントを届けてもらって授業に追いつこうとしていたらしい。もちろん、学びたくとも学べない環境にいる子供と自分を比べるのはおこがましい。彼の苦悩は私なんぞには想像もつかないことだ。それでもただただ、感心してしまう。
「ええことや。勉強はいくらやっても無駄にはならん」
七珠はハジメの頭を撫でた。グラスの中身は半分ほどに減っている。
「せや。みんな将来の夢ゆうてみ。まだ若いんやから『こうなれたらええな』みたいなことあるやろ。あ、あんま若ぅないけどそこのセンセも参加してええで」
「ひと言多いな君は」
助教授が振り返って苦笑する。しかし冗談は通じたようだ。常に皺が寄っている険しい眉間が、少し緩んだ気がした。
「はいっ、じゃあ俺から!」
小龍はこのような時に先陣を切る男だ。そうすれば会話がスムーズに進むことを知っている。見目だけなら軽率そうにも思えるが、二月からの付き合いの中で真逆の印象を抱くようになった。
彼は非常に、聡明な男だ。
「俺は……塾の先生になってみようかと、考えている」
「学校の先生にはならんのん?」
「実習も行ったし、資格はあるんですけどね。俺には塾の方が向いているのかな、と。塾に来る子には様々な事情があって――自分の意思の場合もあれば、そうでないことも。でも、通っているからには目的があるはずなんですよ。できれば個人同士で教えるところがいいな。学校の先生とはまた違う形で、力になれたらと思うから」
「そっかあ。同じ学部でも目指すところは一緒にならんなあ。君が一回生の頃、もしかしたらウチのゼミに来るんちゃうかと思ったこともあったんやけど」
「研究室、たくさんありますからね」
そういう先輩はどうなのですか、と振られた七珠は短く答える。
「まっ、ウチはここまで来たらこのまま研究者コースや。博士とって、助手になって、助教授になって」
「難波先生みたいな助教授に?」
私の口出しに彼女は噴き出す。
「なんでそこで難波先生が出てくるのん。ウチはなあ、先生のことは嫌いやないけど、つくづく性格は合わんなと思うとる」
「それは同意だな」
離れた位置から当人も会話に入る。証明できることしか伝えないと言った男と、嘘を吐けると宣言した女のやり取りだ。
「だが同じ共同体で生きるにあたり、性格を合わせることばかりが得策ではないだろう。多様性は人類の築いた戎具のひとつだ。君が何を悲観しているのか分からない」
「そういうとこやなあ、もう……で、先生は?」
「委員会から予算をぶん取れるだけの地位に就く。以上」
彼は両手を軽く広げた。本当にそれ以上を語るつもりは無いらしく、視線をサツキに向ける。そして、まるで自分の講義を聞く学生であるかのように指名した。
「さて、次は君だ」
「俺も話すのですか?」
サツキは控えめに顔を上げる。躊躇っている様子だ。だが、無理にとは言わない、という難波の言葉には首を振った。
「俺は……小説家になりたかった、です」
彼の手元はノートパソコンのタッチパッドを弄っている。眺めもせずにくるくると回し、特に意味のある動きにはなっていないだろう。何か調べ物をしているように見えたが、今はマウスカーソルだけが踊り狂っていた。
「小説家かあ」
話し手がゆるりと七珠へと移る。おそらく、サツキが続きを口にしないこと、将来の夢が過去形で表現されていたことの真意を汲み取ったのだろう。誰も、これから目指せば良いじゃないか、などとは言わなかった。
「ウチ、探偵小説はけっこう読むで」
「サークルルームでもよく読んでますよね、先輩」
じゃあ謎解きは得意ですか、と小龍は問い掛ける。
「推理しながら読むタイプやないなあ。最初から最後まで、一気読み」
「探偵の活躍に身を委ねながら読む感じですか」
「いや、どっちもや」
「――どっちも?」
七珠は首を傾げて微笑む。緩く編まれた髪が肩のあたりで揺れていた。
「探偵と犯人、どっちもや。どっちの祈りも成就するよう、願いながら読んどる」
祈り。また祈りという言葉が出た。どうやら彼女は神を信じているようだ。自分が祈れば神も聞くだろう、とも言っていた。その意識がどこから来たのかは知らないが、他人の祈りに対しても成就を願っているようで。
しかし、探偵と犯人の祈りとは、何だ。
「犯人は、祈っとるわけや。思い切ったことをするんやから、最後まで達成できるように祈りながらやっとる。探偵はそれを阻止する。犯人を見付けて、真相を伝えて、この世界があるべき姿に戻るよう祈るんや」
「なるほど」
つられたように、サツキも笑った。
「そう考えると確かにそう――祈り、ですね」
彼女の言っていることは、殺人事件の起きるようなよくあるミステリで、常識的な犯人と探偵が登場する場合にしか当てはまらない。達成を祈るほどでもない小さな事件や、そもそも犯人のいないもの、世界の平和なぞこれぽちも願っていない探偵だっているだろう。だが、そういった例外を抜きにすれば、確かに探偵小説は祈りと祈りの応酬だ。
「望野さんは、どちらの祈りも大切にする人なんですね」
この言葉でサツキの手番は締め括られた。ほぼ七珠が語っていたが、その方が本人も気が楽だったろう。私は話し手が自分に回ってきたことを感じ取った。
「私はね、司書になりたいんだ」
今度は過去形ではない。これは確かな私の夢である。
「それもただの図書館の司書じゃなくてね。ええと……そう、アレみたいな」
店内を見渡したところ、丁度良いものが目に留まった。店長の立っているカウンタの奥、私物の並べられた棚に車の写真が飾られている。
フォルクスワーゲン。緑のマイクロバス。きっと誰かの愛車というわけではなく、調度に合う洒落た写真を選んだのだろう。
「ああいう大きな車に本をたくさん積んでね、全国を走り回って色んな人に本を貸すの。図書館の本はそこに来た人しか読めないでしょ。だから移動図書館を作ってこちらから行くんだよ」
「素敵な話だね」
真っ先に言葉を返してくれたのは、静かにグラスを磨いている店長だった。
「僕の娘もそのようなことを言っていたよ。ひとりでも多くの人に本を読む機会を作りたい、と……。それも教育のひとつの形だと思う」
「そうでしょう。だから今は貯金中。宝くじでも当たったら、すぐに車を買って旅に出られるんだけどなあ」
「雨屋くんが旅に出るとなると――」
店長の視線が僅かに上向く。白い天井。螺旋階段と吹き抜け。この真上にある園芸店こそが、私の居場所だ。
少なくとも、まだ今は。
「寂しくなるだろうね」
「寂しくなるでしょ?」
いつか来るかもしれないその時まで、そう思っていてくれたら良いな、と考えた。
「じゃあ私の話は終わり! 次、ハジメくん行ってみよう!」
急に照れくさくなってきたので流すことにする。次に話すべき人物はハジメだ。元より七珠は、彼に夢を語らせるためにこの会話を始めたのだろうから。難しい手術に挑む彼が未来に希望を抱けるように、たとえ何があっても最後の気力を振り絞れるように。
彼の方も話したくなってきたのか、明るい返事が聞こえた。
「良いよ。でも、からかわないでね」
その言葉に頬が緩む。子供らしく正義のヒーローだとか、漫画のキャラクタだとか言うかもしれない、と考えた。それでも決してからかう気はない。微笑ましいと思いこそすれ、あり得ないと切り捨てられることではないのだ。
「オレは、ピエロになりたい」
そう、ハジメは明瞭に告げた。
七珠が息を呑む。彼の言葉をどう解釈するべきかと考えているのか。ピエロという単語には何通りも意味がある。サーカス団に所属して全国を巡る職業。パフォーマとして余興やイベントに呼ばれ芸を見せる者。そして、彼が病院で出会ったクリニクラウンのように、関わる人を元気にする不思議な魔法使い。
だが、その思案は助教授の言葉によって遮られた。
「それは、マジックやジャグリングを習得して披露する芸人という意味だろう?」
咎めるような口調ではない。ただの確認行為だ。そういえば彼の息子だったな、と思い至る。証明できないものは伝えられない。そんな方針の元で育ったのだから、現実的な職業としての道化師を指していると見て間違いない。
「そうだよ。病院のピエロさんにマジックとか教えてもらったんだ。もっと練習して上手くなって、オレも病院の子供たちに面白いものを見せたい」
「ええ話やんか。受け継がれる夢、やな」
七珠の言葉に、重ねるように難波が続けた。
「分かっているとは思うが、芸人は手先さえ器用であれば良いというものではないぞ。人とコミュニケーションをとる以上、ある程度の教養は必要になってくる。病院の子供たちと接するのなら尚更、その分野における知識も、だ」
息子の話となればさすがに口数も増えた。内容だけ拾えば、無謀な夢を持つ我が子を諌めているようにも見える。だが、語気はどこまでも穏やかだった。あえて否定しないようにしている様子でもない。そんな嘘すら彼は吐けない。
「とはいえ、固く考えることではない。生きる上で最優先すべきは我が身、だ。前提としての心構えだけ持って、後は自由にやれば良い」
きっと彼なら、息子が目指した夢を諦めたところで、とかく言いはしないだろう。このままでは突き進めないと察知した危機回避能力を讃えることはあれど、咎めることこそ妙だとでも言い出しそうだ。
「そういや、ハジメくんの憧れるピエロさんってどんな人なん?」
少なくなったグラスの中身を掻き混ぜながら、七珠が言った。サツキが驚いた顔をする。
「お会いしたことないのですか、望野さん」
ハジメの憧れるピエロというのは、彼の入院先に現れるクリニクラウンのことだろう。頻繁に見舞いに行き「帽子の色当てゲーム」にも助言していた彼女であれば、面識があると考えるのも当然だ。それが、どんな人かすら知らないとは。
「会うたことないんよ、ウチ」
残念そうな顔をして彼女は言った。
「どうにもタイミング合わんでなあ」
「面白い恰好をした人だよ」
ピエロの姿を知らない彼女のために、ハジメが身振りを交えて説明してくれる。
「頭はオレンジ色のもじゃもじゃカツラ。顔は真っ白に塗ってて唇が赤いよ。最初は少し怖かったけど、今は面白い顔だなって思う。背はあんまり大きくないかも。でも厚底の靴だからよく分かんないや。帽子の色が日によって違うのは話したよね? 服の色もちぐはぐで決まっていないんだけど、いつも派手だからすぐ分かるよ」
立ち上がって身体を動かすハジメを、七珠は目を細めながら見ている。実に幸せそうだった。きっと彼女は、ただピエロの容姿を知りたかっただけではない。憧れの相手について語るハジメの姿が、何よりも輝くことを知っているから話題を振ったのだ。
「ああ、そうだ!」
ハジメの動きがぴたりと止まる。その後、人差し指が自身の鼻へ向けられた。
「服は派手だけど、お鼻は真っ黒。それだけいつも変わんない」
「鼻が黒色?」
サツキの言葉に彼は頷く。
「そう、真ん丸でツヤツヤの黒いお鼻」
「珍しいね。道化師の鼻は赤色が定番かと」
「うん。絵本でもみんな赤色だよね。でもピエロさんは、これが名札みたいなものだって言ってたよ」
「トレードマークって意味かなあ」
「黒いお鼻が見えたら、あのピエロさんだってすぐ分かるもんね!」
無邪気に話すハジメを中心に、和やかな空気が流れた。だが彼は、ほんの二日後には人生の岐路に立たされるのだ。彼自身にはどうしようもない理由で、生きるかどうかの選択を迫られる。今の彼が幸せそうであればあるほど、それが悲しい。
だから傍らで七珠が下を向いていようとも、誰も責めることができなかった。
下を向き、肩を震わせて、今にも泣き出しそうにしていても。
「ハジメくんは……そのピエロさんがほんまに好きなんやなあ」
絞り出される声。立ち上がっていたハジメは席に着き、同じトーンの声で返す。
「うん。大好き」
「ハジメくんは、そのピエロさんみたいになるんが夢なんや」
「そうだよ。ずっと先の、大人になってからのことだけど」
「せやな。大人にならんと、その夢は叶えられへん。ちゃんと大人になって、生きて、元気に生きて――」
うわ言のように繰り返されていた言葉が詰まる。彼女は顔を上げた。崩れ落ちそうになったところを、強引に吊り上げたかのような動きだった。その目は普段の彼女のものではない。ああまずいな、ということを、素人の私でも感じ取れた。
「ハジメくん、死んだらあかん」
七珠は正気を失っている。ハジメにはどうにもならない、最も困ることを言ってしまうほどに。それを言ってはいけないと、彼女自身がよく知っているはずなのに。
「生きてや、皆のこと思い出して、きっと生きて戻ってきてや。死んだらあかん。大切なハジメくんが死んでしもたら、もうどうないなってまうか分からへん」
「望野くん」
鋭い声が飛び込んだ。どんなに盛り上がっていても寄り付きもしなかった難波が、立ち上がって近くまで来ている。
「言っただろう。ハジメにそのような方針では教育していない。手術の間は眠っているんだ。彼に何ができるわけでもない。いたずらに不安がらせるのはやめたまえ」
生死の縁をさまよう折に、生者のことを思い出し気を取り戻す。そんな話は聞くものの、最初からそれを期待して縋るものではない。難波の言うことはもっともだった。だが、今の彼女は正論で諭せる状態でもなかった。
「せやかて、難波先生かて、なんでそない冷静でおれるん。好きなんやろ。ハジメくんのこと大事なんやろ。せやのに」
「望野くん。いてもたってもいられないと言うのなら、ひとつ仕事を頼む」
言いながら彼は彼女を引き寄せている。ハジメの方に視線を遣り、気にするな、と口の形で告げた。立ち上がった七珠はふらりと輪から離れ、荒れた空気が切り分けられた。
「これから私は病院へ打ち合わせに行く。君も来なさい。私の助手として」
そう言って、切り分けた空気の片方を彼は持ち去った。
やがてふたりを乗せた車が走り出してゆく。車の内で対話する内に、彼女も調子を取り戻すことだろう。ここで湿った空気を引き摺っていては、彼の機転を無駄にする。小龍が唖然とするハジメの頭を撫でながら、明るい口調で言った。
「先輩も言い方が不器用なんだよなあ。ハジメくんを励ましたいって気持ちは間違っていないのに」
「じゃあ小龍さんは上手に言えるの?」
私が尋ねてみると、彼は人差し指を振った。動きが少し古いな、と感じる。
「そりゃあもう、単純なことだよ。難しく考えちゃいけない。ねえハジメくん」
「なあに?」
「元気になったら、欲しいものを何でも用意するよ。だから何が欲しいか教えて」
思わず噴き出した。単純も何も、ただ物で釣っただけである。しかしこれが最適解なのかもしれないな、と思った。小龍は何も要求していない。頑張れだとか、生きて欲しいだとか、ハジメの負担になることは何ひとつ。欲しいものを用意する、それだけだ。
小龍の思い切りの良さが滑稽だったのか、ハジメも楽しそうに笑った。
「教えても良いけど、ほんとに用意できるの?」
「うーん、まあ、多少はね? 善処はするけれど。とにかく知らないと判断もできないから教えてよ。耳打ちでいいからさ」
身体を傾けて耳を差し出した彼に、ハジメは何か囁いた。それを聞いた小龍の表情が、一瞬だけ息を呑むような形になったのを私は見逃さなかった。
到底かなえられないようなことを言われたりだとか、意味が理解できなかったりだとか、そういったことではあのような表情にはならないだろう。彼の言うことはしかと理解できて、それでいて絶対に叶えられないものではなく、とはいえ驚かざるを得なかった、というような表情だ。小龍の表情はすぐに戻った。
「分かった。うん……分かったよ」
用意できるとも、できないとも言わない。ふたりだけの秘密にするようだ。
顔を見合わせて満足げに笑うと、彼らは宿題の続きに取り掛かった。
*
勉強を終えたハジメが小龍の手元を覗き込んでいる。
サツキはノートパソコンで調べ物を続けていた。ホームページを眺めながら、時折首を傾げる。小龍はスマホを触っていた。その様子をハジメが興味深そうに眺める。何かを描くような指の動きなので、写真の加工でもしているのかもしれない。そういえば彼のSNSアカウントをひとつも知らないな、と思った。写真を見せられたこともない。
誰も帰ろうとはしなかった。ハジメを店長に任せてここを去ることも可能だが、そうするつもりは無いだろう。時刻は昼下がりを過ぎた頃であり、難波と七珠も近く戻ってくるはずだ――などと考えている内に、本当に車が店の前に停まった。
だが、降りてきたのは七珠だけだ。難波が運転していると思われる車は、再びどこかへ走り去っていった。
「ただいま」
ドアベルの音を響かせて入ってくる。ハジメが顔を上げた。
「先生はちょっと用事です。まあ、ゆうてる間に帰ってきはるわ」
先ほど取り乱したことを彼女は詫びたが、誰が責めると言うのだろう。当のハジメすら、少し驚いた程度だ。最も追い詰められているのは彼女であり、その彼女の気が収まったのならそれで良い。
「みんなと何のハナシしてたん?」
「二色くんがね、何でも欲しいものくれるって」
彼は素直に答えたが、欲しいものの内容についてはやはり話さなかった。七珠の方も追及しない。しばらく和やかに語らった後、話題は明日の流しそうめんへと移った。装置は既に完成しており、ピロティのほとんどを占めて鎮座している。道行く人が何かイベントかと誤解するほどの完成度だった。
「明日、遅刻しないでくださいよ」
冗談交じりに小龍が言う。心当たりがあるのか、七珠は小さく舌を出した。
「二色くん。ウチな、あんま朝早いのは……あかんねん」
「知ってますよ。サークルに取材が来たときも見事に遅れましたよね」
そう言いながら彼はスマホをテーブルに置く。対面する七珠に見せるような向きだったので何かあるのかと思ったが、何の特徴もないホーム画面だった。いや、特徴がないということ自体が特徴か。アプリのアイコンがひとつも並んでおらず、白地に水玉模様が散らばる壁紙が全て見えていた。もしかするとSNSも何もやっていないのかもしれない。あるいは、あえてアイコンを格納しているのか。
「まあ明日は、そんなに早起きしなくても良いですから」
無意識の仕草なのか、置いたスマホを数秒後には手に取る。特に操作するでもなく、手のひらでくるくると弄んでいた。そういえば以前は手帳型だったケースが、アクリル製の嵌め込み式に替えられている。ケースで隠されない形になったので、ホーム画面を整理したのかもしれない。
「いや、ウチかて準備手伝うし、なるだけはよ来るようにするわ」
「それは良い心がけですね。あの取材のときも――」
「ねえ二色」
七珠と小龍の会話に、割って入る声があった。離れた席にいるサツキがこちらを向いている。それまで全く加わる気配が無かったので、随分と違和感のある口の挟み方だった。それでも彼には話したいことがあるのだろう。半ば強引に視線を集め、言葉を続けた。
「その取材っていうのは、これのことかい?」
ノートパソコンを持ち上げ、こちらに見せる。小龍はスマホを胸ポケットに仕舞い、立ち上がってそちらに近付いていった。私も画面を覗き込むことにする。
「ああ、それのことだ」
ネットニュースサイトの記事。地元の大学サークルを取材する、珍しくもない内容だ。しかしインタビューの対象が望野七珠ひとりであり、そして彼女はサークルの会長でも広報でもない一般のメンバであることが引っ掛かった。つまり取材の目的は奇術サークルの活動内容ではなく、美人な上にマジックもできる七珠自身なのだ。記事の文面からもその意図が滲み出ており、彼女にとって好ましくない取材だったろう。
「あんまりええ感じの記者やなかったんよ」
私が顔をしかめたことに気付いたのか、七珠は言った。
「ウチやのうてサークルを取材してくれへんか、ってゆうたのにな。会長さんも近くにおるのに立場あらへんで。そういうの困るんやわ」
「それは……災難でしたね」
だが、そんな記事をサツキが見せてきた意味が分からない。ひと通り確認を終えた小龍は元の席へと戻った。胸ポケットから再びスマホを取り出し、ぽん、とテーブルに置く。そのテーブル越しに七珠が微笑んでいた。
「もう一年も前のことや。ウチが修士一年で二色くんが学部三回やった頃。なんか気になることでもあったん?」
「いえ、俺が気になるのはあなたというよりも――」
視線をずらす。ハジメの隣に座る、小龍へと。
「二色。君もこの記事に載っているよね」
「あ?」
グラスに残ったアイスコーヒーを飲み干そうとしていた彼は、ストローから口を離した状態で返事をした。まさか自分に話を振られるとは思っていなかった様子だ。
「あ、ああー……よく気付いたな。名前出てなかったろ」
サツキの示す部分を読めば、確かにひとりの男子学生が登場している。いや、登場というよりも単なる通りすがりだ。七珠のインタビュー中にふらりと現れ、ふと彼女に声を掛けられただけの。
しかし、その何気ない声掛けこそが、彼女のマジックだった。
「先輩が俺の鞄の中にある本のタイトル、当てたんだよな」
たまたま通りがかったサークルメンバの持ち物を当てる。それだけなら事前に打ち合わせたと疑えば終わることだ。だが小龍の持っていた本は大学図書館で借りたばかりのものであり、おすすめを陳列した棚から司書に選んでもらっていた。図書館を出てから部屋に入るまで、七珠と口裏を合わせるタイミングはない。その司書が仲間でもない限り、彼女の透視マジックは成立するのだ。
「まったくあの記者、先輩のことしか興味ないのアリアリでさ。俺のことなんかモブみたいに書いてあるだろ。まあ背格好や口調から何となく俺って分かるか」
「うん。そこは勘みたいなものだったから気にしないで」
「ほんで? まさかタネが分かってしもたとか?」
「いいえ。むしろその逆です」
逆。逆とはどのような意味だろう。マジックの種が分からないので教えてくれ――なんてことはご法度だ。そのくらいサツキも知っているはず。
「――本当にマジックだったのですか?」
冗談には思えない。非常に真剣な声で彼は告げた。
「特別、なんですよね。望野さんと二色は」
再びパソコンの画面を示す。とん、と指先が突いた場所には取材に対する七珠の言葉が綴られていた。自分は特別だという傲慢にもとれる一文がある。彼女の美しさに惚れこんでいた記者は馬鹿正直にそれを載せているものの、通常ならばカットされていてもおかしくないほど場にそぐわない発言だ。
そういえば先日も言っていたのだ。多人数が属するサークルにおいて、特にふたりが親しくしているのは何故か。その質問の返答は。
「せやで。ウチと二色くんは特別や」
ためらう素振りも見せず彼女は返した。その言葉を耳にするのは二度目――インタビューの文面も合わせれば三度目だというのに、誰も訊き返そうとしない。つまり「何が特別なのか」という単純な疑問だ。戯れに言い出したことではなく一年前から同じ主張を続けているのであれば、よほど根拠ある理由が存在するはずなのだ。必ず答えは用意されているはずで、誰も訊かないのなら私が訊こうと考えた。
「一体、何が特別――」
「望野さんと小龍にはテレパシィの能力がある、ということだと思うんです」
私の問い掛けは、サツキの信じがたい言葉で掻き消された。
「サツキ、何を言っているの?」
「俺は真面目だよ」
にこりともしない。小龍の隣に座るハジメが、驚いた顔でふたりを見比べていた。そりゃあそうだろう。兄や姉のように接していた相手が、実はテレパシィ能力で繋がっているなどと言い出されては、咄嗟に飲み込むことができない。
「示し合わせてもいないのに鞄の中の本を知った。望野さんは取材を受けていたのだからアリバイがある。二色が情報を伝えようとしても、目の前では何もできないだろう。では取材の前から知らせていたのかと言えば、それは司書を買収しない限り無理だ」
「だからってそんな、テレパシィだなんて」
「荒唐無稽だと思うかい?」
そこでようやく、彼はふわりと微笑んだ。先ほどからひとりで調べものをし、パソコンの画面を眺め首を傾げていたのはこのせいだったのか。取材の最中に披露されたマジックと友人の存在に気づき、どのような真相であれば筋が通るかを考えていた。
「ウチらがテレパシィ使ったやて?」
七珠の声は静かだった。冗談めかして笑うでもなく、言いがかりだと憤るでもなく、ただ中立を保っていた。実際、この声を聞いたとき、私は信じそうになってしまった。何も言えずにいる私をよそに、彼女はハジメに話を振る。
「ハジメくんはどない思う? 超能力とか魔法とか、信じる?」
「オレは、少しだけ、あると思うよ」
そうだ。天国を信じる者と信じない者がいるように、こういったことを当たり前のように受け入れたところで、間違いではないのかもしれない。難波助教授は天国を無いものとして扱っている。ハジメは天国を信じている。それらは同時に成立し得るのだ。
「お姉ちゃんのマジックも、ピエロさんの見せてくれる凄いことだって、きっといっぱい練習して出来るようになったんだろうけれど、その中でひとつだけ……ひとつくらいは本当のホントに、魔法だったんじゃないかって思うことがあるんだ」
「なるほど。そう考えとるんやな」
とても素敵な夢のある考え方だな、と思った。マジシャンは演出として自身を超能力者のように紹介することがあるが、当然それは方便である。だがその中にひとつだけ、本当の魔法があったと思うのも悪くない。全てのトリックを見破らない限り、マジシャンは魔法使いの可能性を孕み続けるのだ。
七珠は軽く手を叩いた。
「ようし。じゃあそんなハジメくんのために、ほんまもんの超能力見せたる。そう簡単にはできひんから一回だけやで。ハジメくん、ウチがおらん間に二色くんだけに言うたことあらへんか?」
「欲しいものの話はしたよ。元気になったら用意してくれるって」
「そのこと、前に話したことあるん?」
「ううん。二色くんに訊かれて、考えて思いついたことだから。あれが最初」
「そうかそうか。……うん」
彼女はこめかみに指を置く。目を伏せて、考え込むような仕草をした。その間、おかしな動きをした者はいない。誰も彼女に触れず、位置も変えず、次の言葉を待っていた。
「ああ……分かったわ」
ぱん、と指を鳴らして。彼女はハジメの耳元に唇を寄せて囁く。突然のことに呆気にとられた表情をしていたハジメだが、その顔がみるみる笑顔へと変わった。
「当たり! オレの言ったのと同じだ!」
慌てて小龍の方を見た。彼は変わらずハジメの隣に座っているが、七珠に耳打ちできるような距離ではない。連れ立って席を外したり、何か紙片を渡したりする様子も無かった。彼女が戻る前にメールでも送ったのかと考えたが、その間はずっとハジメがスマホを覗き込んでいたのだ。イカサマだとしたらさすがに気付かれる。私は思わず叫んだ。
「どうして? どうやったの?」
強いて言うならばスマホの画面だろうか。あの画面は二度ほど七珠から見えやすい場所に置かれていた。しかし周囲からも丸見えであり、答えを書き込むといった大胆なことはできない。白地に水色の丸が散らばるシンプルな壁紙だけがあり、アイコンが暗号になっている、などという手も使えないはずだ。
「だからテレパシィなんだって」
小龍が両手をひらりと振りながら笑った。
「超能力に答えなんてない。そうだろう?」
「どや、分かったやろ。ウチらの凄さ!」
超能力の披露に成功した高揚からか、七珠はハジメを抱きしめている。愛おしげに、深く溶け込むように抱いていた。死んではいけない、などとは言わない。もう取り乱しはしない。その代わりに、自身がただの人間ではない可能性をちらりと示した。
「根拠のないことを言うな、って先生に叱られるかもしれへんけど」
身を起こしてハジメと離れた彼女は、呟くように言った。
「ウチは魔法使いや。不思議な力を持っとる。ここにいる二色くんもそうや。ハジメくんの傍にはそういう人間がおって、ハジメくんが元気になれるよう心から願っとる。そう考えたらちょっと楽しくなるやろ?」
誰だって生きたいのだ。誰だって死んでほしくない。だから、死なないでという言葉も頑張れという強要も無意味だ。ただ、様々なトリックの元で生まれた手品のうち、ひとつくらいは本当の魔法があるかもしれない――そんな他愛もない祈りのようなものを、持ち続けて歩んでくれたなら。
「みんな、ハジメくんのことが好きなんや……」
彼女の言葉に、少年は何度も頷いていた。
*
やがて戻ってきた難波助教授と共にハジメは帰っていった。
また明日ね、という声がする。明日。そう明日は、待ちに待った流しそうめんの日だ。そして、家族ではない私たちが彼と過ごす最後になるかもしれない日。
(手術が成功すればまた会える。でも、もしかしたら……)
自分の心に対しては、綺麗事が言えない。最悪の想定なんて誰も口にはしないが、覚悟はしておくべきだと思った。勝手に信じて勝手に裏切られたと喚くのはあまりに醜い。そしてこういった状況になったとき、家族とそうでない者との差が大きいことを知った。あれほどハジメのことを大切に想っている七珠でさえ、手術の間際まで付き添うことはできないらしい。
「ほな、ウチも帰ろかな」
七珠が荷物をまとめ始める。小龍もそれに倣っていた。といっても、彼は隣のアパートに移動するだけなのだが。
「じゃあな、如月。寝坊するなよ」
彼は先輩に言ったのと同じ内容をサツキに告げた。軽い挨拶としての言葉だろう。言われなくとも彼はいつも、朝の時間をカフェで過ごしている。そのことを小龍も知っているはずだ。サツキの返事は何もなかった。どこか遠くを見ている気もする。
「如月?」
帰ろうとした小龍が振り返る。まさにドアに手を掛けようとしていた七珠も、立ち止まった。テレパシィを使う者同士とそれを信じている者。まだどこか疑っている私と違い、彼らは仲間とも言える存在のはずだった。
それなのに。
「ねえ二色。君は――」
呟く。視線の先には、見目の良い女と青年が並んで立っている。
「君は……いや、君たちは、犯人だろう?」
かつて彼女は言った。探偵の推理も、犯人の行為も祈りであると。彼もそれに納得していた。ならばこの唐突な告発も、そうだと解釈して良いだろうか?
「君たち、共犯なんだろう?」
「急にどうしたんだよ、如月」
半笑いの小龍にサツキは微笑み返す。
「急じゃないさ。ハジメくんはもういない。だから俺は堂々と言うよ。あれがマジックとして披露されたものなら何も言わずに隠していた。でも、今回はそういうわけじゃないからね。君たちは、本物の超能力としてあれを披露した。目の前で不思議なことが起きたなら、合理的な理由を考えたくもなる」
「キミ、難波先生と同じ考えなんやね」
「近いところには居ると思います」
七珠の方へ向き直り、サツキは言う。
「超能力とか魔法だとか、本当は信じていない」
「でも嘘は吐けるんや」
「状況に応じてそれなりに」
これは祈りの応酬だ。犯人は自らの嘘が通用することを祈る。探偵は、それを突き崩すことを祈る。ここで起きたことは事件と呼べるほどのものではないが、隠す者と暴く者がいるという点において、彼女の好む小説に似ていた。
「共犯、か……そうか、ウチ、犯人やねんな。今まで生きてきて、そんなこと言われる日が来るとは思わんかったわ。ええで。おもろいやん。探偵小説は好きや」
「ええ。そして今の俺は、探偵です」
扉の前の彼女は歩みを進めた。店の中へと、奥にいるサツキの方へと。それに従うように小龍もこちらへ戻ってくる。斜陽の差し込む景色の中、手を伸ばせば触れてしまいそうな距離に、若者たちは集まっていた。
サツキの息を吸う音が聞こえる。
「これから、祈りを始めます」
炎が揺れるかのようなささやかな声で、彼は告げた。
厨房から絶え間ない水音が聞こえる。店長が溜まった洗い物を片付けているようだ。彼はこちらの出来事に関わろうとはしなかった。若者だけで解決すべき話だと考えているのかもしれない。実はサツキよりずっと早く真相に気づいていて、ただ夢を見させてくれているだけなのかも。
「最初に違和感を覚えたのは、望野さんが急に自分は特別だと言い出したときでした」
ソファ。カウンタ席。丸いテーブルの席に、何気なく置かれた壁際の脚立。雑多な店内で座る場所は様々だったが、線で繋げば同一円上にありそうな位置に私たちは散らばっていた。探偵は中央ではなくその円の弧にいる。背の高いカウンタ席に腰を掛け、半分立つような姿勢で語り始めた。
「自分と二色は特別だという話……ただ親しい理由を訊かれた際に返す答えとしては、ちぐはぐなものです。会ったばかりではありますが、望野さんはそのような性格の方ではないと感じていた。特別というのがネガティブな方向性だという線もありますが、その後に続く言葉で否定できます」
そう、神が祈りを聞いてくれるだろう、という話をしていた。自分は特別だから、そんな自分が祈ったことなら叶えてくれるだろう、と。これは相当自信にあふれた言葉だ。少し人より才能があるくらいでは口に出せない。
サツキが真っ先に抱いた疑問は、私のものと同じだった。
「ところで。特別という言葉からひとつ連想したことがあるのだけど」
視線が揺れる。小さな円卓の前に座る、小龍の方へ向けられた。
「特別だということ――つまり人とは違う能力がある者、と定義した場合、君には心当たりがあるはずだよね。二色」
「ああ」
指名された男は思い出したかのように呟く。
「そうだな。俺には絶対音感がある」
彼と出会った二月、既にそのことは聞いている。音楽家を目指すわけではないが音楽の才能はある、と自ら言っていた。彼はその能力を使い、ひとつの小さな事件を起こしたりもした。あまりに印象的な出来事だったので、つい先日のように思い出せる。
「それが俺と先輩の共通点だと言うのか?」
小龍の返答にサツキは首を傾げた。
「いや……それだと、まだ少し足りない」
「足りない?」
「絶対音感は、後天的に習得する人もいるからね。結構な人数のいる大きなサークルで、音感持ちがふたりだけというのも考えにくい。いや、実際にそうだったとしても、それを根拠に自分たちだけが特別だなんて言うだろうか?」
「ウチは音感なんてあらへんよ」
両手を上げながら七珠は言った。さっぱり、というジェスチャだろうか。
「むしろ音痴な方やしな」
「絶対音感の有無と歌の上手さは連動しませんよ」
音を聞く能力と声を発する能力は別ですからね、と小龍は説明する。本当の音感持ちであればこんな勘違いはしないはずだし、彼女自身の示すとおり、その方面の才能はさっぱりなのだろう。
「というわけで、おふたりの共通点が絶対音感だという推測は除外します。でも道筋は間違っていないと思う。望野さんは、自分が特別な存在として生まれた、とも言っていましたよね。つまり何かしら生まれつきの能力があるというわけです」
ああ、確かに言っていた。自分が特別な存在として生まれたら、神様から贔屓されのだと思う――そのような意味のことを口にしていた。私が訝しんだのは、特にその言葉に対してだったと思う。難波助教授とは対照的な神に対する信心。神に選ばれているのだという唐突な選民意識。彼女の発言を否定するわけではないが、自らひけらかす姿には違和感しかなかった。
「生まれつきのものだから、学歴や創作活動に関わるものではない。小龍と同じく絶対音感を持っているのでもないと考えたとき。ふと、引っ掛かることがありました」
つい、と視線を斜め上へ。数日前を思い出す仕草だ。
「ハジメくんがテストを持ち帰ってきた日のことです。ランドセルからちらりと覗いた答案用紙を見て、望野さんが点数を言いましたが、十の位と一の位を取り違えて読んでしまいましたよね」
そんなこともあった。五十七点だと七珠は言ったが、実際の点数は七十五点だったのだ。正しい点数を知った彼女はすぐに謝り、良い成績だと褒めていた。それがどうしたと言うのだろう。幼い少年と彼が姉のように慕う相手との、他愛もない会話だ。
「その際、弁解として少し妙なことを言っていました。七十五点と五十七点を間違えただけなら分かります。単純なる見間違いだと。でもあなたは、似ているから間違えてしまったそうですね」
あ、と息を漏らす音がした。七珠が左手を口元に当てている。窓に差し込む陽によって照らされ、薬指の指輪が輝いていた。いつもと同じ指輪だ。薄ピンク、オレンジ、焦茶色。何度も目にしているので配置と色を覚えてしまった。
サツキは畳みかけるように話を続ける。
「当然ですが、アラビア数字の7と5は似ていません。教師がよほど悪筆でもなければ、形の上では完全に見分けがつきます。ではどこが似ていたのか? ただの赤ペンで書かれたふたつの数字のどこが」
そう話しながらサツキは立ち上がる。カウンタ脇の黒板の前に向かった。そこはカフェの日替わりメニューなどを記している場所だが、今は全て消されている。
彼は白いチョークを手に取り、「5」と「7」を書き込んだ。
「望野さん」
黒板の前に立ち、誰かを指す。まるで先生のような振る舞いだった。
「何色に見えますか」
「え?」
声を発したのは私だった。何か言わずにいられなかったのだ。サツキの問い掛けは彼女を馬鹿にしているとも受け取れるものだった。彼は今、目の前で白いチョークを取った。それで書かれた何の変哲もない白い数字だ。
「白いチョークで書いたのだから白でしょう?」
「ええんや、りりすちゃん」
くつくつという笑い声に振り返ると、七珠が片手で顔を覆って肩を震わせている。
「敵わん。そこまで言われたら敵わんわ。降参や、如月くん」
「それは光栄です」
「全部バレとるやないの。隠してたウチがアホみたいや。上手いことやっとったつもりやねんけどなあ」
こんな返答をするということは、きっと白には見えていないのだ。だが結局何色に見えるかは聞き出せず、しばらく彼女が笑う様を眺めていた。感嘆と悔しさの入り混じる笑いを続けた後、彼女は一枚のハンカチを取り出す。
「これはウチが友達に頼んで作ってもろた、オリジナルのハンカチやねんけどな」
ぱさ、とテーブルの上に広げる。状況の読めない私は、それを視界に取り入れることしかできなかった。割れたガラスのようなデザインで、直線が規則性なく真四角を切り分けていた。線で囲まれた図形の部分は九つ。それぞれ異なる色で埋められている。
赤、黄、オレンジ、紫、青、緑、薄桃色、焦げ茶、黒。
黄色と薄桃色は控えめな色味であり、白に近い。オレンジはそれらよりはっきりとしているが、血のような赤よりは黄色に似た印象があった。焦げ茶と黒も近しい色だ。それでも同じものはひとつとなく、縁のレースを除けば九種類の色がある。
「ウチは数字に色がついて見えるんや。共感覚、ってゆうんやけど」
聞いたことはある。どこかで情報は得ていたものの、咄嗟に引き出しを開けられなかったのだ。受けた感覚に連動し、別の部分の認知が働く能力。文字に色がついて見えるケースが有名だが、彼女の場合は数字だったのか。1から9までの数字を視認したとき、同時にこのような色も浮かんでいる、と彼女は説明した。これは自分だけやろうけど、と前置いてから、活字よりも手書きの方がはっきりと色が見える、とも話す。ハンカチにデザインされた色は整列しておらず、どれがどの数字に対応しているのかは分からなかった。
「ということは小龍さんも……」
私の呟きに対し、彼は片手をゆるりと振った。
「俺は数字じゃないよ。共感覚ではあるけれど」
「音、だろう?」
心を読んだかのようにサツキは言った。
「人と会話する前提で席に着くとき、君は対面ではなく隣に座ろうとする癖がある。望野さんにも忠告されていたが、君にはその方がどうしても楽だった。違うかい?」
四人掛けのテーブルで、小龍は七珠と同じソファに座ろうとしていた。あれは相手と向き合いたくなかったからなのだ。七珠は事情を知っているが、会う人すべてに説明をすることはできない。だから多少の不都合があっても、対面で座るように心掛けよという意味の忠告だった。
「そうだな。正面で喋られると視界が賑やかで仕方がない。でもまあ、慣れてきたし今はほとんど平気だよ。ただ癖がついちまったってだけの話」
二色小龍には絶対音感があり、そして聴覚に関わる共感覚も持っている。そんな彼には世界がどのように映っているのだろう。音の発生源が目の前にあるときだけ色が見える、と彼は補足した。だからいざとなれば瞼を閉じて、静かな世界を取り戻すらしい。
「さすがにこんな感覚を持っとったら、ふたりだけ特別や思てもええやろ」
もちろん共感覚を持つ者は彼らだけではない。サークルの中にも他にいるかもしれない。だが試験の点数を見間違うほどに強い主張で、あるいは会話に支障が出るほどの強烈さで現れる「色」を、皆と同じだろうと思い込むには歳をとり過ぎていた。
「子供の頃はこれが普通だと思ってたんだけどな」
小龍の話に、七珠は苦笑しながら応じる。
「普通やと思ってたけど何か違う気がする、それを何べんも繰り返してウチらは〈特別〉になったんや」
なるほど、彼女らは確かに特別だった。それは紛れもないことだ。生まれつきの能力を神に選ばれた証拠と捉え、ならば神に祈ろうとする考えも分かる。しかし私にはまだ納得のいかないことがあった。七珠も小龍も、問い詰められるまで自らの能力を隠していた。探偵となってそれを暴いたサツキに「降参」するほど、本当は明らかにしたくなかったことのはずなのだ。
ならば何故、「特別」などと言ったのか。
しかもインタビュー記事の内容を鑑みるに、少なくとも一年で二度は口にしている。
「合図だったんだと思う」
再び、サツキの手元でノートパソコンが記事を表示した。
「取材中、唐突に望野さんが〈特別〉という言葉を使った。その後に透視マジックを披露している。打ち合わせの出来ない状況で鞄の中身を当てるためには、いかに常人には分からない方法で情報交換をするかが重要になってくる」
つまり共感覚をトリックに使ったのだ、と。
「この場合に利用したのがどちらの共感覚だったのかは分からない。音か、それとも数字か。目の前にいる記者にすら知覚できないものが見えるのだから、どうとでも使い道はあるはずだ。だが、どのタイミングで情報を交わすのか。あからさまにやり取りができない以上、せめて暗号めいた合図の準備は必要だ」
小龍の借りる本を選んだのは司書だが、それはおすすめの棚から選択したものだった。つまりタイトルの全てを伝えなくとも、あらかじめ番号でも振っておけば、その数字を見せるだけで言い当てることができる。どんな方法で「見せる」のか、それは能力の使いどころであるが、「今から見せる」という合図が無ければ見逃してしまうかもしれない。
「おそらく君たちは、何度もこのようなマジックを繰り返してきた」
マジックを披露すれば、皆が喜ぶ。他の者にはない能力を使っているのだから、そう簡単に解けるタネではない。いや、本物の超能力だというのもあながち嘘ではないのか。テレパシィと呼ぶには強引かもしれないが、ほぼそれに近いものであった。
「特別、という言葉を発したらその後に情報をやり取りする。それを元にあたかもテレパシィがあるかのような演出で披露する。そういったことを重ねていく内に、合図としての言葉は広い意味を持つようになった。情報を渡す直前だけではない。近い内にマジックをやりたいのでよろしく――そういった合言葉としての意味も持っていたんだよ」
きっとそれは、私たちの目の前で起きたことを指しているのだ。このカフェで語らいながら七珠が「特別」と言った日の、三日後に彼らは超能力を発揮した。もちろん合言葉など使わなくとも、メールや電話でいくらでも打ち合わせはできる。だがこれは儀式のようなものだったのだろう。マジックを披露したい相手を見つけたとき、まずはこの合言葉で提案をする。それから準備を進めるという流れがふたりの間に出来上がっていた。
つまりあの時から、ハジメに不思議な力を見せようという計画はあったのだ。
「……というのが俺の考えですが。あくまで推測です。先ほど探偵を名乗りましたが、推理と呼べるほどのものではない。もし無礼があれば、お詫びします」
そう告げて頭を下げるサツキに対し、七珠が何か声を掛けようとしていた。表情からしてネガティブな内容ではない。気にしないで、程度のことを言おうとしたものと思われる。その言葉を確認できなかったのは、ひと息先に小龍が発言したからであった。
「まだ、だな」
いつの間にか彼は立ち上がっている。テーブルに手を突き、不敵な目を友人の方へと向けていた。
「まだ〈事件〉は解決していないだろう? 目の前で起きた、最もリアルな出来事を無視している。俺はどうやってハジメくんの欲しいものを先輩に伝えた? 先輩はどうやって俺の心を読み取った?」
あらかじめ本に割り振った番号を当てるのとはわけが違う。彼らがやり取りしなければならない情報は、字数も分からない具体的な単語だ。しかも、ほんの隣に、絶対に細工を悟られてはならない相手がいる。
「お前も見ていただろ? 俺は不審な動きをしていたか?」
小龍がハジメから欲しいものを聞き出す。その行為はふたりで打ち合わせた結果のものだろう。自分が何を言い当てれば良いのかを、七珠は不在ながらに把握していた。だがハジメの返答は彼女の退席中に聞いたものだ。それ以降、小龍にメールを打つような仕草は無かったし、マジックを台無しにするようなズルをするはずもない。
「スマホの画面は?」
私は言った。あの時も最初に思いついた可能性だった。二度、七珠から見えるように置かれていたスマホの画面。私には水玉模様の壁紙としか思えなかったが、サツキなら何か気付いているのかもしれない。
「例えばそう――望野さんはものすごく視力が良くて、壁紙に書かれている小さな文字を読めたとか」
「どうなんですか、望野さん」
「ウチに訊いてええのん? 犯人やで」
そう言って共犯者のひとりは笑った。確かに、探偵が犯人に真相を尋ねるのはセオリィから外れる。トリックまで完全に暴いてこそ謎解きだ。
「何なら見てみるか? 俺のスマホ」
小龍は鞄からそれを取り出し、サツキへと渡した。私も隣に駆け寄って覗き込んでみる。記憶にあるものと変わりない、白抜きの水玉模様の壁紙だ。細かい丸が散らばって、サイダーの泡に似ていた。
「帰りの身支度をする間に、壁紙を変えることくらいは可能だよね。トリックに使った画像は削除して。ゴミ箱も空にできるタイプの機種のようだし」
呟きながらスマホを返す。どうやら証拠が残っていたわけではなさそうだ。しかし、何らかの画像を使ったことは確信しているようだった。
「何も変わっていないように見えるけれど」
画面に対する余白の比率も、模様の色も濃淡も、変化があるようには思えない。彼は本当に壁紙を変えたのだろうか。望野の視力がずば抜けて良いという推理も、さすがに無理があるように感じた。何せすぐ隣には、視力に難があるでもない六歳の少年がいたのだ。ハジメに見えず七珠にだけ見えていたとすれば、かなり特殊なケースだ。
「こんな普通の水玉模様で……」
全く答えが分からないものだから、つい語気がふてくされてしまう。そんな私にサツキは笑い掛けた。
「りりすちゃん、これは水玉模様ではないよ」
「え? だってどこからどう見ても――」
「これは、数字のゼロだけで構成された模様だよ」
人差し指で空に弧を描く。大半の人間は、円を記すときには下から上へ、数字のゼロであるときは上から下へ線を回すのだ。サツキの動きは後者のそれであった。
「よく見るとごく僅かに縦長の形になっている。といっても望野さんだけに伝われば良いのだから、真円でも構わないのだけれど」
「これが……数字のゼロ?」
じっと眺める。どうやっても丸にしか見えないが、そもそもゼロだって形としては丸だ。数字だと言われればそう受け取れるし、否定する理由もない。
「望野さん、ゼロは何色に見えるんですか?」
というサツキの質問には
「無色や。ウチの共感覚が適用されるのは1から9までで、ゼロは何もなし。元の字の色が見えるだけや」
という答えが返った。
「ということは白地に水色のゼロを散らした模様に見えているんですよね」
「せや。……あっ、ちゃうわ、水玉は水玉や。普通ゼロには思わんやろ」
「今ちょっと引っ掛かりましたね」
背後で緊張感のない会話が繰り広げられる中、私は画像の観察を続ける。これは丸ではなく数字のゼロ。そう知った上で見れば確かに水玉模様ではない。だがそれがどうしたというのだ、と考えたとき。
「あ」
ついに私も気付いた。
「0の中に6があったんだ」
まるで子供向けの間違い探しだ。大量に散らばる0の中のいくつかが、よく似せて書かれた別の数字だとしたら。そしてその数字が、繋いでいくと文字が浮かび上がるような形に配置されていたとしたら。
「そう」
サツキは――探偵は、頷いた。
「それが俺の出した結論。実際に6だったのかは分からないけれど、とにかく0と区別のつきにくい数字で文字を書いていた。模様の大きさからして一字が限界かな? それなら字数分の回数、壁紙を切り替えて見せればいい」
ゼロは無色だが、それ以外の数字には特定の色が浮かんで見える。ならば目の前に差し出されたスマホには、数字の配置で表された文字が貼りついていたはずだ。あのとき、小龍はスマホをやたら出し入れしていた。それが字数を表していたのだろう。一度に表示できるのはひと文字だけ。だから単語を伝えるためには、何度も見せる必要がある。それを七珠が読み取り、頭の中で繋げて言葉を受け取った。
もちろん、現在は全てをゼロに戻したダミーの壁紙だ。どんなに目を凝らしても文字を見つけ出すことはできない、が。
「ハジメくんの話を聞いてから望野さんが戻って来るまでの間、君はスマホを操作していた。写真の加工でもしているように見えたけれど、あれは壁紙の加工で――全てゼロだった元の画像を、文字が浮かび上がる形へと編集していたんだろう?」
たとえ七珠が外出中でも、現代において情報を伝える方法はいくらでもある。だがあの時の小龍はそれを使えなかった。スマホの操作をハジメが覗き込んでいたからだ。思えばそれもアリバイのため、彼自身が仕向けたことかもしれない。とにかくメールやSNSは使えない。それでも、細かい模様の画像を編集する作業なら別だ。
「答えは目の前にあったんだよ。ハジメくんはずっと見ていた。数字のゼロが別の数字に書き換えられる様を根気強く眺めていたはずなんだ。でも気付かなかった。これは心理的トリックだ。まさか壁紙の模様がゼロだとは思わない。その丸を少し書き直して6だか9だかに変える作業なんて、真相を知らなければ何のことだかさっぱりだ」
「――9、や」
恐ろしく澄んだ声が降る。望野七珠がすくと立ち上がり、長い髪が腰まで落ちた。
「0に紛れ込ませてたんは、9や」
それは即ち、犯人の自白であった。
「当たっとる。それがウチらのとった方法や。共感覚生かして色んなトリック考えてきたけど、こんなこともできるんやないかと思ってなぁ。そこそこ練習はしたんやで。あんまり凝視せんと数字だけ見分けられるようにやとか」
「俺も手早く画像加工できるように練習とか。ハジメくんの言ったのが長い単語じゃなくて助かったよ」
こぼれ話と共に「共犯者」ふたりが投了する。終わった、と思った。もう秘匿も反論もしない。訊けば全ての真相を話してくれるだろう。斜陽の中にいる「共犯者」たちは、本当に美しく力強い姿に見えた。
「どうして」
私の口から言葉が漏れる。そんなこと尋ねなくとも分かっているのに。
「どうして、ここまでのことを……」
ハジメが七珠にも答えを話していたら。周囲の誰もが目を離し、アリバイが成立しなかったら。彼女が上手く文字を読み取ることが出来なかったら。努力が無に帰す可能性は十分にあった。むしろその方があり得たかもしれない。それでも彼らは挑戦したのだ。たった一度、手術に挑む少年へ奇跡を贈るために。
「りりすちゃん。人生は短いで」
綺麗な声が聞こえる。まるで音楽のように、泳ぐ魚のように。
「病気で死ぬ。事故で死ぬ。明日生きとるとも限らへん。ハジメくんだけの話やない。親より先に死んでまう子供なんて、なんぼでもおるんや。もし何事もなくおじいちゃんおばあちゃんになったとしても、たかが数十年、さして長いわけもなし」
先に死ぬかもしれない者を憐れんでいる場合ではない。励ますというのも筋が違う。ただ生きているだけなのだ。いつ終わるともしれない命の中で、それぞれのできることをやっていく。共感覚があったので使った。マジックができるので披露した。大切な人と過ごす日々の中で、一瞬も無駄にできる時間はない。
「命短し恋せよ乙女、やで。恋に限った話やないけれど」
薄く紅をひいた唇を開き、微かな鼻唄を紡ぐ。音痴だと言っていたがそうでもない。とても穏やかで綺麗な旋律だった。彼女は鞄を肩に掛ける。小龍の方をちらりと見た。サツキが呼び止めなければ店を出ていたはずなのだから、今度こそ帰るつもりなのだろう。
「また明日。楽しかったで、探偵さん」
「俺も先に部屋へ戻るぞ、如月」
ひらひらと手を振りながら彼らは去った。ドアベルの音が静まった頃、奥からそっと店長が顔を出す。
「お話は終わったかな」
「ああ、すみません」
黒板に書いた数字を消しつつ、サツキは振り返った。
「いつもなら閉店の時間ですよね。すっかり長引いてしまって」
いいんだよ、店長は微笑んだ。
「このお店を開いたとき、若い人たちが心置きなくお喋りしたり悩みを打ち明けたりできるような場にしたいって、そんな思いがあったはずなんだ。長く続けている内に見失っていたかもしれないなあ」
「それは、成功していますよ」
サツキの返答に、私も胸の内で同意した。ハジメがここに訪れ続けたことが何よりの証拠だ。自分の最後になるかもしれない大切な一週間を、居心地の悪い場所で過ごすはずがない。父親が無理に連れてきたわけでもないだろう。ここに集う若者たちが心からの笑顔であったからこそ、彼も羽を休めることができたのだ。
「――今日はふたたび来ぬものを、か」
姿もない彼女の続きをなぞるかのように、店長は古い歌を口ずさんだ。
*
これ以上ないほどの好天のもと、水しぶきが上がる。
竹樋は喫茶店の前に広がるピロティを、ぐるりと一周するように設置されていた。流しそうめんといえば真っ直ぐに流れるものを想像するが、こちらの方が視覚的にも楽しい。もちろん、曲がり角で脱線などしないよう計算されている。
「はい! どんどん食べてってや!」
エプロンを着けた七珠が叫ぶ。昨日見せられたオリジナルのハンカチと同じ色のものだった。もしかすると、このエプロンを作った余り布で拵えたのかもしれない。
「コップはそこの使い捨てのやつ使って。自分のがどれか分かるように名前や印を書いておいてね」
傍らのテーブルに置かれた紙コップを指してサツキが言った。店長は素麺の用意に掛かりきりであるので、ドリンクや軽食、使い捨ての食器は近くのスーパーで調達している。水色にピンク、黄色といったパステルカラーの紙コップが並んでいた。
「二色くんはこれにしとき」
手早く各人に配っていく。七珠が小龍に宛がった黄色のコップが、彼女からは遠い位置にあったことが気に掛かった。手を伸ばさなければ届かないものを選ぶ理由があるのだろうか。他の色ならすぐ近くにある。
しかし、竹樋のてっぺんから美味しそうな素麺が流れてくれば、些細なことはすぐ忘れてしまった。
「ハジメくんは何を飲む?」
ペットボトルの飲料を取って尋ねると、彼はオレンジジュースを選んだ。あらかじめ成分表示を確認し、病気を抱える彼が飲めるものしか置いていない。私は彼のコップにジュースを注いだ。名前や印を書いておいて、という指示を受けてか、コップには油性ペンで横一文字の線が引かれている。これがハジメを示すマークなのだろうか。
――なんて、察しの悪いことを考えていた。
「オレ、自分の名前、漢字で書けるよ」
当人にそう言われるまで気付かないとは、私もまだまだだ。漢数字の「一」でハジメと読む。どうやら彼の名前はそんな表記らしかった。
「偉いね、ハジメくん!」
一本の線でも漢字は漢字だ。小学一年生にして、自身の名前を正確に筆記できることに偽りはない。誇らしげに笑うハジメの元に、場を仕切りながらもしっかり食べている七珠がやって来た。
「ウチな、その名前好きやで」
細身ながらも健啖家なのかもしれない。きっとサツキと同じくらいのペースだ。彼の方は少し遠慮が必要な気もするけれど。
「ヒマワリみたいに明るくて、よう似合うてる名前や」
「ありがとう、お姉ちゃん」
どこまでも穏やかで、平和なやり取りだった。七珠はハジメを実の弟のように可愛がっているし、難波助教授とも付き合いが良い。反りが合わないように振る舞いながらも、本心では好ましく思っているはずだ。そうでなければ、ゼミの見学の際に出会ってそれきりで終わっている関係だった。
そういえば今日の彼女は黒い服を着ている。たしか自身でも黒が似合うと言っていた。ならば、何度か着ていた白いワンピースは、誰の趣味だろう。
(……あ、駄目だ)
自分でも下世話なことを考えていると気付く。そんなもの、勝手に想像することすらおこがましいというのに。彼女は私の考えなどよそに、ハジメを流しそうめんの特等席へ案内していた。
望野七珠は、難波親子の家族ではない。
だから手術にも立ち会えず、見舞いに行ける時間も限られている。彼らが明日向かう遊園地にだって、同行しないと言っていた。ついて行っても迷惑ではないだろう、という私の提案には
「あの人は大学のセンセやで。もし学生に見られたらどないすんの」
という内容のことを寂しげな顔で告げた。
私は――ほんの数ヶ月前、教師と教え子が特別な仲になることの禁忌性を目の当たりにしたばかりだ。どんなに想っていても、隠し通したまま別れを告げた若者がいる。彼女の場合は後ろ暗い部分があるわけでもないが、同じ大学の助教授と院生という関係に違いはない。昨日、解決した事件の共犯者たちは、とてもよく似た考えをしている。
このまま同じように進んでいくのかは、分からないけれど。
「退院したら、最初に何やりたいん?」
やがて皆の腹が膨れ始めた頃、流し続けていた素麺も小休止となった。表に出したベンチに七珠とハジメが腰掛けている。彼女がふと持ちかけた話題は彼の退院後のことだった。長らく自由を得られなかった少年は、それが叶ったとき何をするのか。
うーん、とハジメは首を捻る。
「よく分かんないや。病院の外に出られないのが普通だったから」
その返答に、七珠の顔が僅かに曇る。
「そっか。せやな……ずっとそうやったもんな」
「あ、でも」
空を仰ぐように視線を上へ向けると、ハジメは明るく続けた。
「予定通り行けばオレが退院してる頃、またテストやるって先生言ってた」
「なんやて。テストしてばっかやなハジメくんとこのクラス」
「テストもテスト勉強も嫌いじゃないよ。だってほとんどやってこれなかったもん」
無邪気な言葉に七珠の返答が詰まる。だが何とか乗り越え、それはええことや、と憐憫なしに返すことができていた。彼女は事実だけを見ているわけではない。少年の苦しみや置かれた状況について、自分のことのようにどこまでも想像する。ハジメの方とて、自分が話す度に切ない顔をする彼女など見たくないのだ。現実的で明瞭で、嘘の吐けない父親がいるからこそバランスが取れている。
「試験といえば、このような話がある」
そんな父親――難波助教授が、コップを煽りながら口を挟んだ。
「私の同僚が話していたことなんだがな。彼が受け持っている講義にて、次の一週間のうちいずれかの日に、抜き打ちテストをすると言ったんだ。少人数のクラスだったもので、学生はそりゃ好き勝手言ってくる。皆がハジメのように試験を楽しみにしているわけでもないからな」
まあ冗談交じりではあるが、と言葉を区切る。
「大多数は不満を漏らすだけの意味のない発言だ。だがひとり、先生が試験を行うことはできません、と言い出す者がいたのだ」
「試験ができない……?」
疑問を呟いたサツキに向き直り、難波は頷く。
「そうだ。今の宣言では試験を実施できる日がなくなる、と。これがどういう意味か分かるかね? つまりどの日に試験をしても〈抜き打ちではなくなる〉ということだ」
そこから先を、難波は指を折って曜日を数えながら説明した。以前にも見たが、随分と変わった数の数え方をする。一は親指を立て、二は人差し指だけを立て、三はその両方を同時に立てる。四を表すのは中指だ。
「例えば候補が月曜日から金曜日まであるとして、木曜日まで試験を実施しなければ次こそ試験日だと知られてしまう。よって抜き打ちにならない。ならば木曜日に試験を行えばどうか? これも駄目だ。前述の理由で金曜日は候補外なのだから、水曜日まで試験が無かった時点で木曜が試験日だと明らかになる」
彼の説明は分かりやすかった。このように順繰りに考えていくと、抜き打ちという宣言を守ったまま試験を行える日が存在しなくなる。これを考えついた学生は随分と捻くれていると思うが、筋は通っていた。
真剣に話を聞いていたサツキが、ぽんと手を打つ。
「なるほど。つまりその同僚さんは試験を実施できなかったのですね」
「何を言う。そんなわけがなかろう」
難波は愉快そうに笑った。気難しい彼の、素直に面白がるような笑顔を見たのは初めてかもしれない。
「顛末を教えよう。その同僚は水曜日に試験を行った、それだけだ。誰も試験の日を予測できなかったし、抜き打ちという言葉に嘘は無い」
「あれ? 本当ですね」
不思議そうにするサツキを微笑ましく見る。だが、私の方も頭の中には疑問符が浮かんでいた。抜き打ちテストというものは実在するのだから、それが不可能になることなどあり得ない。しかし学生の言い分も誤っていないのだ。具体的にどこに穴があるのかということを、突きとめられない。
「君たちは知っているようだな、この話のカラクリを」
難波は教育学部の学生たちの方を向いて言った。そうですね、と小龍が返す。
「昔から議論されてきた話題ではあります。抜き打ちテストのパラドックスは」
「こういうの、ウチもマジックするとき使うことあるで。矛盾が起きてる、騙されとるゆうことに案外と気付けへんのや」
などと言いつつも、ふたりとも種明かしをしようとしなかった。ふと気になったのは、話題のきっかけを作ったハジメ自身すら、さして不思議がっているように見えなかったことだ。先生と生徒、互いの主張が対立したまま、それでも抜き打ちテストができてしまったという奇妙さは理解しているはずなのに。
「オレのクラスの先生が、よく言う冗談があるんだけどね」
ハジメが語り始めたので皆の視線が向かう。よく、と言っているが彼が学校に行けたのはほんの数日だ。その数日の間でも頻繁に聞いた、という意味なのだろう。
「明日抜き打ちテストをするぞー、って。おかしいよね」
確かにおかしい。明日に試験をすると分かっているのなら、それは抜き打ちではない。短い言葉の中にパラドックスが存在している。だからこそ冗談なのだが。
「でもこれが明日じゃなくて一週間だとしても、同じことだと思うんだ。一日が五日に増えたところで、抜き打ちテストができないことには変わりないよ。だから先生は最初から不可能なことを言ってる。不可能なことを基準に色々考えても、そりゃあ何も予測できないはずだよ」
オレンジジュースの入ったコップを抱えながら、彼はすらすらと話した。あまりに論理的な思考だ。六歳の子供に思えない、などと言うのは傲慢だろうか。こういった論理的思考は数学の要素と近いものがあり、父親の影響も少なからずあると感じた。
「ハジメくん、数学のセンスがあるんだね」
驚いた顔でサツキが言う。ハジメは怪訝な顔をした。今のが数学的センスと呼ばれるものだということを、知らないのかもしれない。
「それだけの才能があるのなら、向いているんじゃないかな。お父さんと同じように、将来は数学の先生とかになって――」
「向いているかどうかに、才能は関係ない」
割り込んできたのは難波助教授の声であった。心なしか語気が鋭い。サツキの言葉を強く否定しているように思えた。
「才能なぞ、使いたいと思ったときに使えば良い。その機会がないのなら、一生おもてに出さなくとも何の問題もない。案外とそんなものだ。自分には才能があるはずなのにだとか、才能がないからだとか、過剰に気にしても何の足しにもならない」
視線が撫でるように横切っていく。最初はサツキに向けられていたそれが、やがて七珠と小龍の元で止まる。きっと彼らに対して言っているのだ。特別という言葉を合言葉に、奇跡を起こした若者たち。難波はどこまで知っているのだろう。
「ここにいる者たちはまだ学生だろう。何も考えず歩み続ける時期も必要だ。それでも自分が他者とは違っていて、その能力を生かすべきだと考えてしまうのなら――」
髪を掻き上げる。その指には、数字の刻まれた指輪が嵌められていた。
最初に見たときと同じ、「615」の数字が。
「すぐ傍の大切な相手に見せるくらいが、ちょうど良いんじゃないか?」
そう言って、難波零次は口角を上げた。
*
難波の設計した装置は後片付けも簡単で、夕刻にはピロティは元の姿を取り戻していた。ハジメは大はしゃぎするようなタイプではないが、始終笑顔で楽しんでくれていたことが伝わってくる。彼の希望の食事を提供するという約束は、間違いなく果たされたことだろう。よく食べた後はボードゲームに興じ、七珠のマジックショウが開催されるなどして、私にとっても充実した一日となった。さすがに遊び疲れたのか、うつらとしながら車に乗せられ帰っていく。
「さて、と」
店長は所用で外出していた。少し残るかと思っていたサツキと小龍も、二次会はアパートの方で行うようだ。ふたり連れ立って帰ってしまった。この一週間、別れ際には決まって「また明日」という言葉を交わしていたはずなのだ。だが今日はそれがない。だれもまた明日とは言わずに去っていく。
分かっている。ハジメは明日、ここには来ない。父親と遊園地に行くのだ。
その翌日は病院に戻り、手術を受ける。
更にその後は――
分からない。どうなるか分からないのだ。たった三日後、今までと同じように私たちが笑えるとは限らない。その不安定さを最も強く感じているのが、七珠だった。
「難波センセはまあ、あんな性格やから」
窓の外を見ながら彼女は呟く。それは呆れから来る言葉ではない。「あんな性格」である難波のことを、心から尊敬している。
「凄いことやと思うよ。ウチ、あの人が取り乱したとこいっぺんも見たことあらへん。かといって冷酷でもない。ちゃんと息子のことを愛しとる」
そういえばハジメは養子だったな、と思い返す。彼らがどのような経緯で親子になったのかは知らないが、未婚の男性が里子を迎えるには相当な覚悟が要ったはずだ。彼は取り乱さない。手術が上手くいかなければどうなるか、嘘偽りなく当人に伝えている。他ならぬハジメ自身の尊厳のために。残り時間を有意義に使う権利のために。
「ウチは……あの人のことが好きや。あ、いや」
慌てたように首を振った。そして、間髪入れずに補足を。
「人として尊敬してる、ゆう意味やで。それだけや」
口元に手を添える。そうすれば先ほどの言葉がなかったことになるかのように。そうすることによって、掻き消そうとしたものが余計に目立つというのに。
私は、もう気づいていた。
だから今の内に話しておくしかないと思った。
「七珠さん」
上手く呼び掛けられただろうか。他に誰もいない部屋で、自分に向けられた声だと気付いてもらえただろうか。
「口出しするのは良くないって分かっています。でもこれだけは言わせてください。七珠さん、明日、ハジメくんたちについて行った方が良いです」
彼女は振り返る。窓の外の景色から、ようやくこちらに視線が向いた。驚いた顔をしていた。手は口元にあるままだ。薬指には、ずっと変わらない色の指輪があった。
薄ピンク、オレンジ、焦げ茶。彼女自身から見て左からその並び。
「何ゆうてるん? ウチが行けへん理由は前ゆうて――」
「でも、行ってください。ふたりとも拒絶はしません。あなた次第なんです。行かないと絶対に後悔します。だって……最後なんですから」
望野七珠は難波親子の家族ではない。だから、もしハジメの身に何かあったとしても、家族としての扱いは受けられない。彼女自身が距離を置こうとしているのなら尚更、少し親しい他人のままで。
「七珠さん」
もう一度、呼び掛ける。これは切り札にしようと思っていたのだが。
「三つのうちひとつが当たりのクジを、七回連続で外す確率はいくらですか」
難しい問題ではない。教員資格を持っている七珠なら、きっとすぐに分かる。そして決定打になるような話でもなかった。だがこの質問によって、彼女は気付くはずなのだ。
「……六パーセントに行かんくらいやな」
三種類しかないピエロの帽子の色当てゲームを、七回連続で外すことが何を示すのか。
「なんや。あり得ん確率ではないやろ」
「あり得ない確率ではないですね。でも」
物事の不正を疑うとき、人は「当たる確率」を考える。不自然にくじ引きを当ててばかりの人間が疑われるのは当然だ。だが、外してばかりなら? どんなに挑戦しても全く当てられない者を見ても、「ゲームが下手だな」程度の感覚で流してしまう。
このゲームに七回連続で失敗する確率は、約六パーセント。
残りの九十四パーセントは、七珠がクリニクラウンと通じて答えを聞いている、あるいは七珠自身がピエロである可能性だ。
そして私は後者だと考えた。
「七珠さんの長い髪はとても目をひきます。逆に言えば、それを派手なオレンジのカツラに収めてしまえば、印象はかなり誤魔化せる。もちろん人相はメイクで不明瞭です。ピエロの身長はよく分からない、厚底の靴を履いているしそれほど大きくない、とハジメくんは言っていましたが――」
「せやからウチが、ピエロの正体やって?」
彼女がクリニクラウンだと考えると辻褄が合う。三分の一の確率を外し続けたことも、ピエロと会ったことがないことも。おそらく彼女は認めるだろう。ボランティアとして小児科の慰問に訪れることは、学生にとって妙なことではない。
「ええで。ハジメくんの前で言われたわけやあらへんし、正直に答えるわ。せや、ウチはクリニクラウンやっとる。ちょうどマジックもジャグリングもできることやしな。ハジメくんのこともあるけど、それはきっかけや。ウチは病院の子供みんなを元気にしたい思て活動しとるんや」
「いえ、それを疑うつもりではありません」
「でも嬉しい話やなあ。ハジメくんにあない喜ばれて、将来はピエロさんになりたいまで言われて。いつかバレるんかもしらんけど」
彼女があまりにも色当てを外すので、ハジメは助言に従わないようにしていた。それはすなわち、三択から二択になるということだ。あえて正解しないことでピエロとの関係を隠しつつ、バッジを多く貰えるようにサポートする。そのピエロは七珠自身なのだから、彼女からのプレゼントと言っても間違いではないだろう。
「学校で確率の計算を習うようになったら、気付くかもしれませんね」
「もしくはその頃にはもう忘れとるか、やな。その方がええわ」
「そうですか? 彼なら、良い思い出として覚えていてくれると思いますよ」
「ええんや。ウチのことなんか、お父さんに変な友達がおったな、くらいでかまへん。ハジメくんも大きくなったらいつまでも遊んでくれへんやろ。その時までの白昼夢みたいなもんや」
違う、と感じた。これは彼女の本心ではない。本気ではあるけれど。近い将来、そうなると思い込んでいて。その覚悟もできていて。けれども心の底では望んでいない。
だって、その証拠は彼女の指にある。
「夢なんかで終わるわけがないじゃないですか。これは七珠さんに対して、行動しろだとか諦めるなだとかいうお説教ではありません。あくまで現実的な話として、です。あなたがどんなに逃げ腰になっていても、あなたと難波先生はただの友人ではない」
窓辺に彼女は立っている。黒髪に、黒いワンピース。すらりとした身体が影絵のようで、どこか幻じみて見えた。あまりにも美しい。それでも彼女は人間だ。残された時間が無限にあるわけではない。命短し――進めよ、乙女。
「そんなペアリングを嵌めていて、時おり愛おしそうに眺めていて、すぐに切れるような友人関係だなんて誰が信じるんですか。お互いに指輪を外していないところを見るに、過去の話ではない。今もなんです。まさに今も、あなたたちは家族と同等の存在だ」
「何を……何を言うのや、いきなり」
彼女は左手を突き出す。その指輪が私にも見えるように。
「難波先生の指輪は数字の刻まれたシルバーのやつ。ウチのは、ほれ見てみ、宝石の並んだ可愛らしいやつや。どこがペアや? これがペアリングや言うんやったら、行きずりの人ともカップルになってまうわ」
「ペアである部分は、数字と色、ですかね」
自分は共感覚を持っているという話をした時。では何の数字にどの色が見えるのか、どう対応しているのか、聞いた者は気になるはずだ。しかし彼女は説明しなかった。ただハンカチを広げただけであり、これらの色が見えていると言うだけで、具体的な数字は述べなかったのだ。
「赤、黄、オレンジ、紫、青、緑、薄桃色、焦げ茶、黒。これらがハンカチにあった色です。エプロンも同じ柄だったのでよく覚えています。一方、難波先生の指輪に刻まれていた数字は6と1と5」
「言わへんで」
七珠はこちらを睨みつける仕草をした。
「宝石の色に対応する数字が難波先生のんと同じや言うんやろ。でもそれは推測や。三種類の色の宝石をつこた指輪なんかいくらでもある。どの色がどの数字にあたるんか、話さへん権利もウチにはあるはずや」
「もちろん、聞き出すつもりはありません。でも、分かってしまったんです」
彼女が色と数字の対応を隠していたのは、難波の指輪との繋がりを隠すためだ。しかし私は気付いてしまった。ここには私と七珠しかいない。だからもう、隠す必要も黙っている必要もないのだ。
私は、真っ直ぐ彼女を見据えた。
「指輪にある、薄ピンク、オレンジ、焦げ茶色。これらの色が何の数字を示すのか、私には分かってしまったんです。だからこれより謎解きをしようと思います」
昨日、探偵役をした友人は祈りと呼んでいた。これは祈りだ、と。
私も上手く祈れるだろうか。
「まず、七珠さんが共感覚を持っていると知るきっかけになった試験の点数についてですが。七十五点と五十七点を見間違えた、という出来事でしたね。色が似ていたのでは、というサツキの話も否定されなかった。つまり7と5に該当する色は黄色・オレンジの組み合わせ……または、焦げ茶と黒の組み合わせの二パターンになります」
ハンカチにあったオレンジは、赤よりも黄色に似た色味だった。そして、ちらりと見えた答案用紙にて、黒と焦げ茶を判別することは難しいだろう。どちらの可能性もあり得る。似ているから見間違えてしまった、と彼女は言ったのだ。
「そして次に考えるのは、つい先ほどのこと。流しそうめんを楽しんでいるとき、ハジメくんの名前について『ヒマワリみたい』だと言いましたよね。ヒマワリといえば黄色かオレンジです。1はこのどちらかの色でしょう」
ハジメの名前の正式な表記は、漢数字の一だ。前向きな良い名前だと思うが、さすがにこれだけでは「ヒマワリみたいに明るい」と感じることは難しい。数字に色が付いて見える彼女だからこそ、そしてハジメの名前はそのように書くのだと知っていたからこそ、ヒマワリに例える言葉がするりと出たのだ。
「さて、1が黄色かオレンジだとすると、7と5の組み合わせも分かってきますね。焦げ茶と黒です。どちらか片方でも確定すれば、消去法で両方分かるのですが――などと考えたとき、もうひとつヒントがあることに気付きました」
私は鼻を指す。ハジメがピエロの外見を説明するとき、そうしたように。
「病院を訪れるクリニクラウンの鼻は、黒かったそうですね。ピエロの鼻は赤色が定番だという話をしたと思います。でも黒だった。ずっとお決まりの真っ黒な丸い鼻で、それが名札みたいなものだと言っていたとか」
そのピエロの正体が七珠だということは、先ほど認めたばかりだ。彼女もまた、ハジメと同じように数字を名前に冠している。7だ。珠は真ん丸の球体という意味で。そして名札とは、自身の名前を示すもの。
「7は黒だという推理に異論はないはずです。七珠さん自身、黒が似合うと何度か言っていましたよね」
7が黒ならば5は焦げ茶だ。指輪にある色の、示す数字がひとつ明らかになった。オレンジは二分の一の確率で1だが、まだ黄色の可能性もある。私は話を続けた。
「これも流しそうめんの際の出来事なのですが――」
共感覚の存在を明かした後だったせいか、あの時の七珠は視覚に素直だったように思う。ハジメの名前を色の感想を交えながら褒め、二色には手を伸ばさなければ届かない位置にある黄色の紙コップを渡した。
そう、二色小龍の名前にも数字があるのだ。
「あの紙コップは明らかに遠い位置にありました。他の色ならすぐ傍だったのに。あなたはわざわざ『これにしとき』と言って渡したのです。おそらくその方が、あなたにとって視覚的に釣り合いが取れているから」
二の数字を持つ者には、黄色のものを。七珠と小龍は大学でも付き合いがある。当然、姓の漢字表記も知っているし、目にする機会も多いだろう。彼といえば黄色だという刷り込みがあったはずだ。
「これで2が黄色であることが分かりました。となるとオレンジは、1ですね」
残るは薄ピンクだ。舞い落ちる桜の花びらのような、白に近い控えめな色。これが表す数字を突きとめるのが最も難しかった。ともすれば今も確信が持てない。1と5が合っているのだから、薄ピンクは6であるべきなのだ。しかしそれでは推理にならない。謎を解く探偵の立場にいる以上、彼女が認めるような根拠が必要だ。
私はカウンタの方へ歩み寄った。そこには、昨日のサツキが使った黒板がある。ここに7と5を書いて、何色に見えるかと尋ねていた。ちなみに黒板そのものの色は濃い緑だ。黒と焦げ茶に該当する数字を書かれては、さぞ見え辛かっただろう。もっとも、チョークの白い色が見えなくなるわけではないのだが。
「七珠さん。ここに6と9を書いてくれませんか」
何も記されていない黒板を示し、私は言った。彼女は驚いた顔をする。これまではどれほど図星でも悟られないようにしようという意思のある表情だったが、今回は本当に虚を衝かれたようだった。それでも、こちらに近付いてチョークを取ってくれた。
「なんなん。さっきから細かいことばっか……」
まずは6。上の尻尾の部分から始まり、反時計回りにくるりと書いて円を閉じる。
「ほんで9も書いたらええんか?」
これも書き始めは上部だが、6とは逆の形をしているのだから円から始まる。反時計回りに円を書いた後、上に戻った線を再び下向きに引いた。活字によくある6をそっくり逆さまにしたものではなく、丸と尻尾の区切りがはっきりとした手書き文字の9だ。尻尾の部分が短い丸文字、というわけでもなかった。
つまり――あまり0には似ていない。
「ああ、やっぱりそう書きますよね」
私もその書き方をしている。活字と同じ形に書く人もいるにはいるが、きっと珍しい。しかも七珠は「活字より手書きの方がはっきりと色が見える」と話していた。瞬時に見分けなければならない状況において、活字寄りの9の形は採用したくないだろう。
「0に似ている数字といえば、6を先に思いつくのではないでしょうか」
ハジメの欲しいものを当てるというマジック。あれのトリックは、水玉模様のように散らばる0の中に別の数字を紛れ込ませ、それで文字を書くというものだった。0と異なる数字であり、なおかつ0に混ざっていても勘付かれない数字。真っ先に思いつくのは、やはり6だと考えた。
「でも実際には9が使われていた……」
あえて9を選ぶ理由は、ひとつしか浮かばない。
「6は、認識が難しい色だったのでは?」
小龍のスマホの壁紙は、白地に水玉――もとい、水色の0が散らばる模様。その中に薄いピンクがあったとして、即座に読み取れるだろうか? 共感覚によって数字に浮かぶ九種の色のうち、白寄りなのは黄色と薄桃色だ。黄色は2なので除外するとして、もし6が薄桃色ならば視認性が非常に低い。もちろん地の色を変えることも試しただろう。だが実践では白地が採用されたのだから、それは諸々の理由から「白地が最も適していた」という結果を示している。たとえば隣でハジメが眺め続けても目が疲れないように、だとか。
ならば数字の方で工夫するしかない。
「他の色は十分に濃いですから使えるでしょう。既に埋まっている色を除けば、視認性の低い6にあたるのはピンク。私はそう考えます」
七珠の返事はない。ただチョークを摘まんだまま、自分の書いた字を眺めていた。彼女の目にはそれぞれの色が見えているだろう。緑の黒板に白い字、という事実は変わらない。それが見えていないわけではない。だがその上に重なって見える色が違うのだ。
9は何色か分からないが、6は薄ピンク。
0に似ていると分かっていても、避けなければならなかった数字だ。
「ああ……」
ようやく彼女は、溜め息を吐いた。
「せやなあ。ああ、そうや。その通りや。よう気付いたでほんま……」
チョークを置く。こちらに目を向けた彼女は、とても綺麗に微笑んでいた。
「薄ピンク、オレンジ、焦げ茶色。6と1と5。先生の指輪と同じや。さすがにここまで当てられて言い訳はせえへん。三桁の数字が偶然に一致することもあらへんやろ」
その確率は、ピエロの帽子の色を外し続けるよりずっと低い。指輪に刻む数字として、自然に考えられるものは日付だ。六月十五日。それが彼女らにとって、記録に値する記念すべき日付。
「結婚記念日ではない、と難波先生は言っていましたけれど……」
あの時の質疑応答は課題にされたままだ。
「何の記念日でもない、とは言っていませんでしたね。そういえば」
自分は嘘を吐ける人間か、という話をしていたはずだ。さすがにそのタイミングで真実を偽ることはしないだろう。だが、本当のことを何もかも述べるとは限らない。
難波は嘘を吐かない。七珠は場合に応じて嘘を吐く。
だからずっと、祈りに抵抗し続けた。
「難波先生は未婚です。それも嘘ではないでしょう。だから結婚記念日というものは本当に存在しないし、あなたとの間にも、これといって特別な日というものは無い。あるとすればそう――初めて出会った日、くらいでしょうか」
「そうや。ウチが難波先生のゼミに見学に行った日。ちょうど今日みたいな、天気のええ六月のことやった。顔合わせてたんなんか、ほんの一時間くらいや。それだけのことで、ほんま、人生変わってまうもんなんやなあ……」
七珠は話し始めた。自分のひと目惚れに近い状態だった、と。難波の方は当然、見学に来ただけの高校生に対し、特別な感情を抱くこともなかった。それから彼女は、興味があって訪れたはずの学部に進学することをやめた。
彼の教え子になりたくなかったからだ。
「やましいわけやあらへんで。なんも悪いことはしてへん。同じ学部にもおらんのやったら、難波先生とはもう他人や。大人の他人同士が付き合うてあかんことはない。せやからそれとこれとは別なんや。それとは別に、ウチは……」
彼女らの身にも様々なことが起きた。出会ったばかりの頃は、ハジメの存在すらなかったのだ。七珠は大学院に進み、まだ学生という立場である。そして今の難波には病気の息子がいる。手術は明後日。これからどうなるかも分からない。
何より――七珠はまだ、家族になれていない。
「このままでええんやろか、とは思とる」
彼女がハジメを見捨てることはない。何か良からぬことが起き、今より大変な状況になったとしても。ただ関係を変えることはできるのだ。実の姉のように――いや、母親のように慈しみを持って接してくれた相手から、単なる父の知人へと。やけに世話を焼く妙な知り合いという存在へ、今なら身を退くことができる。
「せやから明日の遊園地について行けゆうのもな、軽々しくゆうてくれたらあかん。ウチは家族やないんや。ほんでもって、これ以上ずぶずぶせんようにできる最後のチャンスかもしれへんのや。ハジメくんにも先生にも、重たい女や思われたら敵わんからなあ」
力なく笑う。あまりに自虐的だった。だが難波助教授の性格ならば、受け入れられてしまう物言いだ。この関係をやめようと彼女が言えば、無闇に引きとめたりはしないだろう。彼は嘘を吐かない。だから他人の嘘にも気づけない。これが彼女の本心であると信じ込んでしまう。
だが私には、どうして彼女が自棄になっているのか、分かる。
「ハジメくんが欲しいと言ったもの、知っていますよね」
私は言った。それがマジックの要だったのだから、知らないはずがない。小龍が耳打ちで教えてもらい、それをトリックで七珠に伝え、最後にハジメへ耳打ちで返した。そこで正解だと言われたのだから、七珠はハジメの欲しいものを知っている。
「そりゃあ、ウチは知っとるで」
続く言葉は無かったが、何となく分かる。ではそちらは知っているのか、という当然の疑問だ。だから私は応えた。
「私も知っています」
「なんでや! ハジメくんが教えるわけ……」
「軽々しく人に話すようなものではなかったと、そういうわけですよね」
知っている、というのは多少の語弊がある言葉かもしれない。私は推測した。彼女の指輪にある日付を言い当てたように、今までの出来事から可能性を絞っていったのだ。とはいえ今回は、マジックが行われたときのことだけ思い返せば良い。ハジメの欲しいものを聞いた小龍は、スマホの壁紙を加工してその文字を表した。数字の0の中に紛れ込ませる9の配置で文字を書く。一度に収まるのは一文字だけなので、字数の分だけ画像を用意する必要がある――といった内容のことを、七珠と確認しながら振り返った。
「でも、小龍さんは一枚しか画像を使っていませんでした」
「だからどうしてそれが――」
「よく見ていましたから、としか言えませんけれど。小龍さんは二度、七珠さんから見える位置にスマホを置きました。でも壁紙を変える仕草は無かったんです」
一度目、テーブルにスマホを置いた後。小龍はサツキに声を掛けられた。そしてパソコンの画面を覗きに行くため立ち上がったが、その際スマホは胸ポケットにあったのだ。次に出した時にも操作をする素振りは無かった。つまり用意された画像は一枚しかない。たとえ見せたのが二回だったとしても。
「同じ文字が続く、二文字の単語」
それと小龍が耳打ちされたときの表情を合わせれば、想像がつく。
気付けば私と七珠の声が重なっていた。
「――ママ」
その通りだ。そうだったのだ。重大な手術を控える少年が、退院したら何が欲しいという質問に返した答えがそれだった。七珠は難波のことを「お父さん」と表現していたが、ハジメ自身は「パパ」と呼んでいる。ならば母親のことは「ママ」と呼ぶだろう。ハジメは母親が欲しかった。父の愛は確かであったが、不満は無かっただろうが、それでも新しい家族を欲していたのだ。
私は息を吸った。次の言葉を告げようとした。
「お分かりでしょう? だからあなたが身を退くことなんて」
「分かるやろ? ウチがおったって邪魔なだけなんや!」
重なる声。涙目になった七珠が叫んでいる。きっと私の言葉は耳に入らなかったろう。
「母親が欲しかったんや! 新しい母親が欲しかった。そらそうや、まだ六歳の男の子やもんな。こんなわけわからん姉ちゃんなんかより、本当にあの子に必要やったんは難波先生の奥さんなんや。ハジメくんは指輪の意味なんか知らん。そんな子にママが欲しい言われたら、もっと大人のちゃんとした人と結婚してもらうしかあらへんやろ!」
これまで何度ものしかかってきた、望野七珠は家族ではないという事実。難波は三十代の男だが、彼女は二十四の学生だ。教え子になることを避け、対等な関係であれるよう努めてきたはずだった。それでもまだ、助教授と学生という立場から逃れられない。
ただ、このまま終わってなるものか。
「七珠さん」
呼び掛ける。黒い服をまとった華奢な体躯が、夕陽の中に立っていた。
「私と出会ったばかりのこと、覚えていますか」
二階の温室から下りてきたとき、彼女と小龍が人を待っていた。その待ち人が難波助教授であり、すぐに馴れ初めの話になったのだ。もっともその頃は、ふたりが恋仲であるとは知らなかったのだが。
「ゼミに見学に来た日が最初に会ったときだという話をして。いつだったかな、という難波先生の言葉に、あなたは覚えているわけがないと返して。でもすぐにハジメくんが言いましたよね。あまりにも即座で、にわかに信じることができなくて、笑いながら流してしまいましたけど」
私はスマホを取り出す。そこには日付計算のできるアプリが表示されていた。何年前のことであっても、タップひとつで今から何日前であるか分かる。
「私は覚えています。ちょっと気になって、メモしていたので」
私たちがカフェで出会ったのは、六月二十日のことだった。夏が始まったばかりだというのに蒸し暑い日で。そんな日にハジメは、とても重要なことを口にしていた。
「二千五百六十二日前だよ、って」
手を突き出して画面の計算結果を見せた。
今年の六月二十日からその分だけ遡れば、七年前の六月十五日に辿り着く。
「あなたと父親の出会った日を……自分がまだ生まれてすらいない日を、何の理由もなく把握しているはずがないでしょう?」
私は微笑む。七珠の両手は口元に添えられていた。彼女は予想外のことが起きたとき、決まってそうすることが私にも読めてきた。きっと難波も、そんな仕草ひとつひとつを愛おしく思っているはずだ。だから指輪を外していない。彼の指にも彼女の指にも、同じ日を刻んだ指輪が共にある。
特別な指輪を嵌めている限り、彼らは大丈夫だ。
「だから明日は遊園地に行ってください。たとえこれから何が起きても、そうすることで大切なものを得られるはずなんです。私たちなんかと同じように、ただの友達として離れた場所にいる必要はない」
「ええの? ほんまにウチが……」
「教えてくれたのはハジメくんですよ? これを信じずに何を信じると言うんですか」
そういえば、ふたりが外出して七珠だけが先に戻った日の、難波の用事とはなんだったのだろうか――と考えたとき。
黄昏のピロティへと、黒い車が滑り込んできた。
*
厨房のカレンダが六月のままになっている。
カウンタ席からわずかに窺えるが、人目につかない場所なので破り忘れているのだろう。あれから半月ほどの時が過ぎ、暦はとっくに七月へ入っていた。
「あっつーい……」
目の前にはクリームソーダ。クリームの部分は溶ける前に食べ終えて、ビールの泡のような残滓だけが浮いている。私はサクランボの軸を摘まんで口に運んだ。なんてことはないカフェの昼下がりだ。サツキや小龍も来ている。店長は一度並べ終えたカップを、再び磨き始めそうになって首を傾げていた。
「動揺してる」
私の指摘に、彼は苦笑する。
「そりゃあこうもなるだろう。だって今日は、難波さんたちが来る日だ」
あれから二週間が経った。二週間しか経っていない、とも思える。私が会った望野七珠という人物は、単なる友人の枠に収まらない存在として刻み込まれた。何しろ祈りを交わした相手なのだ。彼女たちの仕掛けたトリックを、彼女の隠し事を、サツキや私が暴く形になった。
七珠は小龍のことが好きだったのだと思う。とても深い関係の友人として。だから共感覚のことも隠さなかったし、手を取り合ってマジックを繰り返した。小龍はハンカチの色がどの数字に対応しているのか、詳しく聞かされていたはずだ。ならば彼女の指輪の意味も解読できる。ハジメから母親を求める言葉を聞いたときも、素知らぬ顔でやり過ごした七珠以上に動揺が顔に出ていた。そういった意味でも彼女らは確かに共犯者だった。
七珠は小龍のことが好きだった。
それと同時に、ああはなりたくないと思っていた。
小龍は教え子のことを愛した。そして相手にとって何の存在にもなれずに別れを告げた。たかが家庭教師の青年だ。聞けば他にも塾へ通っていたそうであるし、志望校へ進ませてくれた恩人というほどでもない。彼のことだからふたりで撮った写真もないだろう。それだけのことだ。それで終わった。けれども、始終を打ち明けられた年上の友人は、我が身のことのように受け止めることしかできなかった。
そんな本音のやり取りができたのも、全て過ぎたことだからだ。改めてサツキも交えて話したとき、小龍は恋愛相談を彼女にしていたことを明かした。七珠の方もその際の心情を吐露した。全てさらけ出して泣いて笑って、手を振り合ってお開きとなった。誰もまた明日とは言わなかった。これで良かったのだと思う。流水に晒された素麺のように後戻りはできず、ただ一切は過ぎてゆく。
「あっ」
小龍が立ち上がった。入口の方を見ている。透き通った開放的なガラス扉の向こう、見慣れた黒い車が停まるところであった。運転席から男が降りる。大柄な、険しい顔をした気難しそうな男。そして彼が後部座席のドアを開けると、そこから二本の脚が覗いた。
「難波先生! ハジメくん!」
叫ぶ。駆け寄るより先に、彼らはガラス扉を押し開けた。以前に会ったときと全く印象の変わらない難波と、幾分か血色良く感じるハジメ少年。それから。
――親子の後ろには、髪の短いボーイッシュな女性が立っていた。
「あの、それは……一体……」
サツキが絶句するのも無理はない。うなじが露わになるほど短い髪に、よく目立つ大ぶりのピアス。オーバーサイズの黒いTシャツにスキニーパンツを合わせている。モデルのようにすっきりとした立ち姿だ。
あの一週間を共に過ごした七珠の姿は、どこにもない。
ただ初めて会うような違和感をまとう女性が難波の腕を取り、その手首を持ち上げる。自身の左手と添わせるように。
「ねえ、見て」
ふたりの指には揃いの指輪が輝いていた。ただシンプルな銀の環が一周するだけの、いかにも結婚指輪といったデザインで。厨房の奥から出てきた店長が目を見開く。すぐにこちらへやって来た。
「お待ちしておりました、難波先生。ハジメくん。それと……」
言葉に詰まる。何かを思い出そうとする素振り。
「望野さん、ではないですね。難波七珠さん」
そう言って店長が微笑むと、女性も花のような笑顔を見せた。すっかり短くなった髪を掻き上げて、自身が似合うと言っていた黒色のシャツを見下ろして。
「どうや? いつかこんな恰好したろって思ててん。髪長いと似合わんやろ」
とても長かった黒髪は存在しない。祈りを終えた彼女の代わりに、必要とする者のところへ託されたのだ。ハジメは大丈夫だから。彼にはもう、必要ないから。
「ああ! さいっこうの六月やったなあ!」
何よりも嬉しいその声と共に、ソーダ水の弾ける音へと耳を傾けた。
〈六月・命短し流せよ素麺 終〉
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