Arachne 2 ~激闘! 敵はタレイアにあり~

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第二章・公差×交錯=神頼み

名付け

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 深夜のオフィスにて。コモンスペースにぼんやりと座っていると、スピーカーからチャイムの音が聞こえた。日中はスイッチを切ってあるのだが、深夜帯はこうやって来訪者を報せてくれる。一階エントランスの人感センサーが情報源だ。相手がここへ到着するまで三十秒ほどの猶予がある。

 身内であることは分かっているので、何をするでもないのだが。俺はカウンタの先を見据えたまま、来訪者が現れるのを待った。ヒールの靴音が聞こえるので女性だ。歩き方は規律正しく凛としており、培ってきた気品を感じる。こんな時間に誰が来たのかなど、想像を巡らせるまでもない。

 やがて、視認できる位置まで到着した彼女は、前置きもなくこう言った。

「……間に合っていないじゃないの」
「すみません」

 本気で責めていないことくらい分かる。彼女――出張帰りのマリアは苦笑しつつ、俺の正面の席に座った。数時間前は茜がいた場所だ。

「こちらこそ、ごめんなさいね。無茶なお願いをしちゃって」
「俺自身が手伝いたいと思ったんですから、お気になさらないでください。企画会社のスタッフさんも、すごく真摯に対応してくださったんですけど……」
「まさか、あんなことになるとはねぇ」
「ええ。まさか、坂道で妊婦さんがオレンジの入った買い物袋を破いてしまう場面に遭遇するなんて」

 我ながらとんだ「遅刻の言い訳フルコース」だ。しかし実際に起きたことなのだから仕方がない。これは間に合わないと確信したとき、俺は蜂須賀神社とマリアの両方に連絡を入れた。

 前者には「もう諦めるので待たなくてもいい」との旨を。
 後者には「トラブルが起きて間に合わなくなったので、諦めてください」と。

 事情を聞いたマリアはさすがに呆気にとられた様子だったが、この状況で俺が嘘をつくはずもないと分かってくれた。一周まわって愉快になってしまったのか、少女のようにくすくすと笑ったあと、

「ありがとう。あなたは何も悪くないわ」

と言った。引き下がろうとした当人を制してまで挑んだくせに、こんな結果になってしまって口惜しい。しかも、答えは出ていたというのに、だ。

「身分証の提出が間に合わなかったんですって?」
「ええ。最近、他人の絵馬を回収しようとする悪戯が多いらしく、そこだけは妥協してもらえませんでした。変な遊びでも流行っているんですかね」
「恋愛成就のご利益のある神社だものね。たとえば、クラスメイトの書いたお願いごとを読むことができたら、弱みをひとつ握れる――なんてね」

 くだらない話だ。そんなことで優位に立とうとするくらいなら、勉強でも頑張ればいいのに。もっとも、全ては想像に過ぎないが。

「好意を寄せる相手を特定して、弱みを握る……」

 鸚鵡返しのように呟くと、マリアはにやりと笑った。俺と同じく「くだらない」と感じている様子だが、彼女の場合は深さが違う。何しろ、実際に恋愛ゴシップを狙われ続けてきた人なのだから。

「私、賭けようかしら」

 俺の顔から視線を逸らし、ホワイトボードを眺める。もはや本人が目にすることはないであろう、明日早朝の蜂須の予定が書き込まれたままだった。

「ロケ中、きっと蜂須さんはこんなインタビューをされるわね。あなたには、恋愛成就をお願いしたいと思うような相手はいますか――って」
「あー、ありそう」

 番組の進行を思い出しつつ同調する。毎回観ているわけではないが、スタジオのレギュラー陣に歯に衣着せぬタイプのタレントがいることは知っていた。ロケ地が蜂須賀神社となれば、おそらくそんな質問が飛ぶだろう。蜂須は今年で二十九か三十。結婚の話題を避けづらくなる年頃だ。

「どうします? もし『います』なんて蜂須さんが言ったら」

 冗談めかして尋ねると、マリアも愉快そうに笑った。

「言うわけないでしょ。そんな、いかにも荒れそうなこと。実際にお相手がいたとしても、ね」

 実際に相手がいるかもしれない――そのこと自体は、彼女も覚悟しているようだ。マリアは蜂須のことになると周りが見えなくなるタイプだが、現実まで見失っているわけではない。蜂須もひとりの女性であり、立派な大人なのだから、自分の知らないところで想い人を作っている可能性は十分にある。

 何しろ、俺たちは「蜂須瑠璃子」という名前の由来すら知らないのだ。

「蜂須さん、どうしてこの名前を名乗るようになったんでしょうね」

 今日の出来事を振り返りながら、ぽつりと口にした。

 絵馬に書いた「蜂須賀さま」という文字。もし彼女のビジネスネームと被っていなければ、今回のような騒動は起きなかった。偽名にしては複雑な文字なのが気にかかる。特に「瑠璃」なんて、画数が多くて書くのが大変そうだ。

 マリアは何かを思い出すように視線を揺らしたあと、こう言った。

「由来は知らないけれど、理由は知っているのよ。私」
「えっ、そうなんですか」

 俺は驚いた。たしか、マリアが出会ったときには既に「蜂須瑠璃子」を名乗っていたらしいが。あの蜂須が過去を明かすなんて珍しい。

「名付けてくれた人がいるんですって」
「蜂須瑠璃子、という名前を?」
「ええ。漢字表記ごとフルネームで贈られたものだから、勝手に簡略化するわけにもいかない、って。記名の練習をしている際に教えてくださったわ」

 だとすれば、その人は蜂須のことを表面しか見ていない。深く関わっていれば、彼女が筆記を苦手としていることくらい分かるだろう。事実、これのせいで蜂須は「自分の名前を書く練習」なるものに部下を付き合わせる羽目になった。

 いったい、どのような関係の相手なのだろう。気軽にリテイクを出せない間柄ということは、友人というわけでもなさそうだ。恩人気取りの目上の存在に名づけられたのだとしたら、表記すら変えられないという制約も納得できる。だが、あまり考えたくはない可能性だ。

 複雑な思いが胸の中を過り、苦い表情になってしまう。
 マリアの方へ目を向けると、それに何重も輪をかけたような顔をしていた。

「私と出会う前の蜂須さんのことを、知る方法があればいいのに」

 好きな人のことをもっと知りたい。要約すれば単純な話であるが、マリアにとっては切実な問題だ。歳の差はふたつ。出会ったのは五年前。友人でもなければ師弟でもなく、アラクネという組織を通じてしか、関わったことがない。

「あの顧問弁護士の方に訊いてみれば、何か分かるかも……?」

 ほとんど無意識にそう話していた。マリアの怪訝な視線がこちらに刺さる。

「顧問弁護士?」
「あ、やべっ。違った。鳴神さんのことです」
「あなた、鳴神さんのことを顧問弁護士と呼んでいるの?」
「いや、これは」

 茜の発言につられたのだ。素性はちゃんと説明したのに、何度も「顧問弁護士」と呼ぶものだから。俺は両手と首を振って否定した。

「気にしないでください。彼はアラクネの立ち上げに協力してくださった方で、現在は翠嶺高校の物理の先生。それは知っていますから」
「ならいいけど……」

 逸れかけた話題を戻すため、俺は改めて言い直した。

「鳴神さんに訊いてみれば、何か分かるかもしれませんね。マリアさんと出会う前の蜂須さんのこと」

 共に過ごした時間の長さだけで考えるなら、花房や、波久亜学園の旧友などに頼るのが正しいと思うのだが。きっとそれでは、マリアの欲する情報は得られない。本名を使っていた頃ではなく、今の蜂須のルーツを知りたいならば、やはり鳴神に確認するべきだ。

 アラクネという組織のために集められたメンバーではなく、アラクネそのものを生み出すために協力した人。組織図に名を残すことは無かったが、きっと誰よりも深い場所にいる。

「逆に、鳴神さんがどんな人だったのか俺は知りたいです。アラクネの昔の写真を募集したとき、彼は全く写り込んでいませんでしたし……」

 デスクに肘をつき、軽く身を乗り出しながら尋ねた。何だか学生同士の恋バナみたいな空気になってきたな。オフィスには他に誰もおらず、深夜ということもあって、普段より踏み込んだ会話ができそうな気分だった。

 マリアは軽く首を傾げながら答えてくれた。

「写真の苦手な方だったのよ。もし写り込んでいたら意図的に抜き取ろうと思っていたのだけど、そうするまでもなかったわ」
「真面目な性格でした?」
「そりゃあ、もう。生真面目が服を着て歩いているような人だったわ。アラクネはまだ対外的なお仕事がほとんど無くて、自社のコンテンツを充実させていく最中だったのだけど、まるで毎日営業帰りのようなスーツ姿だったわね」

 ウェブメディア系の仕事なので、アラクネにはラフな服装のスタッフが多い。むしろ、その方が取引先のウケも良かったりする。鳴神のような社員が商談に現れたら、本当に顧問弁護士が来たと思って焦りそうだ。

「それじゃあ、今の仕事は天職かもしれませんね」

 俺は言った。鳴神はインターネットの荒波に揉まれるよりも、学校で先生として慕われている方が向いている気がする。

「アラクネの講師になった時点で、どうしてもただの先生としては認識してもらえませんから。半分芸能人みたいな感じ? どうしてこうなっちゃうんでしょうね。俺たちはただ、勉強を教えたいだけなのに」

 つい、知ったような口を利いてしまった。アラクネに所属する前は、俺自身もどちらかといえば野次馬側のメンタルだったのに。マリアに対しても、その美貌に興味を抱くことはあった。黒板に書かれた筆跡よりも、整った顔立ちの方が先に浮かんでしまう。

「仕方ないわよ」

 当のマリアは、こともなげに全てを受け入れた。

「私たちは、学校や学習塾に所属する代わりに、マスメディアのおかげで影響力を得ているもの。何かしらの対価は必要よ」
「そういうものですかねぇ」

 強い人だな、と考える。タレイアをはじめとするマスコミとの攻防に対しても、本気で参っている様子ではなかった。自分のできる範囲の対策を練り、それでも駄目なら既に次の手を考えている。いちいち恨んではいない。

 これらの苦労は、あくまで対価だと考えているのか。

(俺がその域に到達できるのは、いつになることだろう)

 今の俺は、けっこう本気でタレイアのことを憎んでいる。煩わしいと感じている。でも奴らには奴らなりの稼ぎ方があり、これが仕事の一部なのだ。そして俺たちだって、そういったメディアの後押しのおかげで食えている部分がある。

「明日の放送、ここで一緒に観ます?」

 ふと、思いついたことを提案した。マリアは驚いた顔でこちらを見ている。俺は軽く振り返り、自分の部屋の方を指し示す。

「撮影部屋にテレビがあるじゃないですか。あそこなら防音性も高いですし、あれこれ話しても漏れません。一緒に確認しましょうよ」

 蜂須が、例の絵馬を見てしまうのかどうか。ちゃんとカメラが切り抜いてくれる保証はないが、確かめる価値はある。マリアはしばらく眉根を寄せて悩んでいたが、やがて小さく頷いた。

「お願いしようかしら。ひとりでは不安だったし……」
「分かりました。じゃあ、明日の六時に集合ですね」

 かなり早いが、すぐに帰宅して就寝すれば大丈夫だろう。小さな約束を取りつけた俺たちは、間もなくオフィスを後にした。
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