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嘉辰に生まれて
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板張りの廊下を喪服の大女が歩く。赤ん坊を抱いた美女が後ろについている。まるで趣味の悪い儀式のようだ。
可能性の薄いところから手早く潰していきたい、とのことでまずは台所から。人間サイズの物体があるはずもない空間を彼女が覗いている間、私はテーブルのコップを片付けておいた。人体を通り過ぎるはずであった牛乳が、そのままシンクへ流されていく。もったいないがこの気候であるし、今は飲む気がしない。
「さすがに見つからないわね」
私はあまり気にしていないが、居住者のいる空間でこの行動は相当に図々しい。全てひとり分しかない食器やカトラリィがどんどん暴かれていく。しかし、見目の良い女が自宅の台所で作業をしているという光景は、どこか愉快でもあった。まるで小間使いとして雇ったように見える。そういえば彼女は料理をするのだろうか、と考えた頃、すっくと立ち上がって「次に行きましょう」と言われた。
物置、水回り、リビング。最初にいた和室も忘れない。サンルームは一瞥しただけで全て見渡せたので、中へ入ってじっくりとは調べなかった。春の気持ちの良い日差しが降り注いでいる。用が無くても入ってみれば良いのにな、と思った。
次は二階だ。寝室として使っている洋間は念入りに調べられた。ここにはベッドとクロゼットがある。ハルカが屈みこんでベッドの下を覗いている間、赤ん坊はそのシーツの上に寝かされていた。一度くらいは抱かされるかと思ったが、いまだその指示はない。大人しい子だがさすがに目が覚めてぐずり始め、捜索は度々中断された。それでいい。子供の生理現象と突拍子もない女の執着を天秤にかけたなら、皿が下がるのはそちらの方なのだから。
野辺送りのように二階の廊下も進んだ後、最後の一室に足を踏み入れた。かつて衣装や小道具を収納していた、作業部屋という名の物置だ。片隅に机が置かれ、一応は作業できるようになっているものの、ジャックは滅多にここを利用しなかった。とはいえハルカの身体を借りたときは使ったはずだ。どちらかの自宅に入り浸るとは考えづらい。あの夜、ハルカとジャックはここにいた。
「何か思い出したか?」
そう尋ねてみた。何か見つかったか、ではないのかと自分でも思いつつ。彼女は机の上や棚の中まで丁寧に調べた後、首を振った。
「鉛筆の一本すら残っていないわ」
「それはきっと、本人が持ち去ったな」
律儀な奴だ。適当に残しておいて、処分は押し付けても良かったものを。劇団における彼女の貢献を踏まえれば、そのくらいのことは許されるはずだった。
「ねえ」
ハルカがある場所に視線を向け、私を呼びつけた。今は私の持ち物が雑然と並ぶ中、一脚の椅子を見つけたようだ。背もたれとひじ掛けのある、それなりに立派なものだった。全体が飴色の木材で構成されており、脚は緩い曲線を描いている。そんな椅子が机に向かうでもなく、何もない空間にぽつんと置かれていた。
「これ、劇団の備品じゃないの? あなたが引き取ったのね」
懐かしむように呟きながら近寄り、すとんと腰掛ける。私の記憶にある姿では、決して背もたれに身を預けることはなかった。しかし今は赤ん坊を連れている。まるで腹の中に宿していた頃のように、その位置に抱いて座っていた。必然的に、全身をゆったりと沈める形になる。
「この椅子、どこか変わった気がするわ」
「違いが分かるほど座ったことがあったか? 変わったのはお前の方だ」
そんなことを話しながら、私は窓に目を向けた。間口から差す陽光がぶつかり、鏡のように白く光っている。ガラスには部屋の内側ばかりが映っていた。前に立ってみると、ちょうどハルカの姿が窺えた。人形のように整った容姿の彼女は、鏡写しであっても印象が全く変わらない。
「もういいだろう。もたもたしていると昼を過ぎるぞ」
特に時間制限を設けたつもりはないが、事を進める口実としてそう言った。こんなつまらない作業に赤ん坊を付き合わせたくもない。子供の世話については門外漢だが、早く帰って昼寝でもしていた方がいいに決まっている。
「そうね。じゃあ最後に、庭を見せていただこうかしら」
私たちは階段を降り、玄関から外へ出る。この庭は、私にとって馴染みの深い空間だった。劇団の裏方係たちはよくここで駄弁っていたし、私の扱う大道具もここにしか置けなかった。庇が突き出ていて雨の凌げる場所があり、そこを倉庫のように使っていたのだ。今は天気が怪しい日の物干しに使うことがある。サンルームがあるとはいえ、あそこを生活臭のする場にしたくないと考えていた。
実際のところ、サンルームには風が吹き込まないのですっきりとは乾かないだろう。おそらく植物を置くことを想定した空間だ。しかし私にそのような趣味はないため、この家で世話しているものといえば庭の片隅にあるあれくらいだった。
「ダリアを育てているのね」
ハルカが立ち止まって言った。不思議なことに、ここを訪れた人物は皆、咲いていない状態であってもその正体を言い当てる。林堂が初めてここに来たときは蕾だった。真冬に出会った高浜ですら、掘り上げて保管してある球根を見て「ダリアですね」と呟いた。前者は写真家で、後者は俳句部の顧問だ。自然や植物に対して造詣の深い人間が集いがちなのだろうか、この家は。
しかし現在の状態は特に難しい。何しろ発芽したばかりである。ともすれば雑草に見えてしまうような茎と葉が、閑散とした花壇に生えていた。
「よく分かったな、この見た目で」
私は素直な感想を述べた。ハルカと共に花壇の前に立つ。
「ダリアだけは詳しいのよ」
「それはどうして?」
「好きだから、以外に理由が要るの?」
しかし「育てたことがある」とは話さない。ダリアに限らず、ハルカが何かを育てていると聞いたことがないな、と思い返した。そんなイメージも湧かない。植物だろうが動物だろうが、他の存在の世話をするとは思えないのだ。
そう考えてから、思わず笑った。今まさに腕の中にある存在を忘れているではないか。彼女が腹を膨らませてから産んだ、紛れもなく血の繋がった娘のことを。
「ねえ、あなた――」
ハルカが何かを言いかける。しかしその声は、赤ん坊の甲高い泣き声にかき消された。多少ぐずることはあれど、先ほどまで大人しかった子が別人のように泣いている。私の無礼な考えを察したのだろうか、などと暢気なことを考えながらその様子を見ていた。これが街中の出来事なら焦りも湧くのだが、四方に何もない田園風景の真ん中だ。私もハルカも、特に何をするでもなく佇んでいた。
赤ん坊が泣くような要因は、全て排除したばかりのはずだった。だからこれはどうしようもないことで、たとえば風が騒々しいだとか、そういった類の音と同じなのだ。そんな考えが頭に浮かんだ。冷静になってみれば脈絡のない思考だが、このときの私にとっては真実だったのだ。私はハルカの言葉の続きを聞こうとした。中断する必要はない、という意味の視線を彼女に向けて。
仮にも舞台女優だ。ごうごうと吹き荒れる風に囲まれるような状況であっても、その言葉は確かに届いた。
「あなた……私を埋めたわね?」
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