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嘉辰に生まれて
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部屋に入ってきた私を見て、ハルカは目を丸くする。
「あら。お葬式にでも行くみたい」
黒いシャツに黒いスラックス。前も後ろも伸びきった髪は、ゴム紐でひとつにまとめていた。必然、オールバックのような状態になる。着替えた結果がTシャツにジーンズというのも癪な気がして、何かのためにと買い揃えていたスーツを引っ張り出したのだ。去年の冬、波久亜学園の生徒たちの喪服姿を見て影響されたのもある。だからハルカの言葉もあながち間違いではなかった。
「葬式だよ、実際に」
正面の位置に腰を下ろす。
「あんたの顔を見て、気分は最悪だ。まるで葬式気分だよ」
「そんなことを言ってはいけないわ」
母親のような口ぶりで叱責される。うるさい、という感想しか湧かないのだが。そういえば子供は――と思って辺りを見渡すと、彼女のすぐ隣で寝かされていた。このスリングは紐を解くと一枚の蒲団のようになる仕立てらしい。
「あの頃はあんなに良くしてくれたのにね」
否定しきれないのがもどかしい。確かに、劇団に所属していた頃の私は、自由奔放な彼女をさほど疎ましく思っていなかった。周りに流されて、取り巻きの報復を恐れて、などといった理由でもなく。本心から「宇佐美ハルカはこういうもの」だと思っていた。例えるならば、蜂のコロニーだ。働き蜂たちが女王蜂を疑うことなどない。なぜ自分は彼女の言いなりになっているのだろう、と我に返ることはあり得ない。田舎の一軒家という隔離された空間で、そういった社会が疑似的に発生していたのではなかろうか。
私が答えないので、彼女は退屈そうに手元のコップへ口をつけた。そのときになって初めて、出した覚えもない飲み物がそこにあることに気付く。勝手に台所へ入ったのか。そういえばあそこには置き去りにした牛乳があったはずだが、さすがにそれには手を出さずに水を汲んできたようだ。
まあ、水くらいなら許そう。春とはいえ、汗ばむ陽気であることだし。
「今はどのように生活をしているの?」
どこか高い位置からの視線を感じる口ぶりで、彼女は尋ねた。劇団員という職を手放したのは互いに同じだが、あちらは子育てが役目であるし、伴侶がいるので高みの見物なのだろう。幼い子供がいると話せばそれ以上の詮索は無い。一方の私は、いったい何をして生計を立てているのだろう、という好奇の目を感じることが度々あった。散歩中の近隣住民。個展を訪れた客。関わりを持った人々の、更に一段階向こうの知人たち。
「家具屋で働いている。劇団が解散してから専念できているし、腕も上がったよ。いずれは店長だ」
半分は本当で、半分は見栄張りの嘘を答えた。劇団員時代からアルバイトをしていた家具屋とは、今も縁は切れていない。人手が足りない際に呼び出されて働いている。劇団が解散して専念できている、というのも本当。というより他にやることがない。いずれは店長だ、というのは大嘘。そんな予定はないし、店が潰れる方が早いと思う。
「そうね。あなたは家具屋だったわね」
意外なことに、彼女はそれを覚えていた。稽古場に現れない日にどこで何をしているのかなど、気にも留められていないと思っていたのに。
「私、椅子にはこだわりがあるの。今度お願いしようかしら」
「やめておけ。そこまで凝ったオーダーは受けていない」
椅子といえば、彼女の座り方には特徴があった。背中を背もたれに預けることなく、常に隙間を空けてスッと伸ばすのだ。女優なのだから美しい姿勢を保つのは当然――といえば殊勝だが、彼女にそこまでの向上心があるとは思えない。おそらく癖のようなものだろう。今は座布団に座っているのでその特徴は見られないが。
「私の話はいい。問題はお前だ。お前の方は、その……」
何と問うたものか迷う。私たちを捨ててまで選んだ相手とは今も続いているのか。素直に考えるならそれ以外になかったが、傍らで眠る赤ん坊の顔が目に入った。私の言葉が通じるはずもないが、この子の前で明確な糾弾はしたくない。とはいえ、ハルカ相手に何を言おうとも、風のように全て受け流されることは分かりきっていた。
「その……ええと、子供は女の子か?」
質問してから自分でも疑問に思った。どうして最初から女の子だと決めつけたのか。スリングは端から端まで真っ白な布でこしらえられており、おくるみも含めて性別を示す部分は無かった。抱いている様子を思い返すに、首は座ったばかりのようだ。生後三ヶ月といったところか。駆け落ちの時点で既に腹の中にいたならば計算が合う。
「ええ。女の子よ。可愛いでしょう」
そう話しながら頬をつつく。そんなことをすれば起きてしまうのではと恐れたが、不思議なことによく眠り続けていた。時間の問題だとは思うが。用があるのならば早く話してほしい。そのうち赤ん坊が泣き始めたら、積もる話どころではなくなる。
彼女の方もそう思ったのか、こちらへ向き直って口を開いた。
「ここへ探し物をするために戻ってきたのよ」
「探し物?」
そんなものは残っていない、と言い切りたかった。劇団が解散したとき、この家にある全てのものを検分したはずだ。何に使っていたのか、誰のものなのか、これから誰が必要とするのか。それこそペンの一本に至るまで確かめた。後で揉めたくなかったからだ。
「断言しよう。ここにあんたの物なんて何ひとつない。自分用のマグカップだとかを置いていたことは覚えているが、片付けの際に捨ててしまったよ。他人が引き取って使うわけにもいかないし、仕方ないだろう」
「他には? 私のものはそれだけじゃないわ」
そう言われてもすぐには思い浮かばない。彼女は気軽に他人のものを借りる癖があったし、個人の所有物といえば食器くらいではなかろうか。たまに吹いて遊んでいたシャボン液のボトルは、さすがにゴミとして扱っていいはずだ。妙なクイズに私が首を捻っていると、ふわりと微笑みながらヒントを告げる。
「例えば、衣装とか」
それはお前というよりジャックのものだろう、という言葉を飲み込んだ。劇団の衣装係であったジャックが採寸し、布を切り出し、全て手作業で作り上げたものだ。ハルカはただ着用しただけである。美術館にでも置かれていそうなドレスを身に着け、舞台の上でくるくる回っていただけだ。
「確か、基本的には欲しがる団員に譲って、残りはジャックのものになったかな」
それは事実だが、どこか曖昧な言い方になってしまった。というのも、ジャックもまた失踪したからだ。稽古場の撤収作業に紛れ、何も告げずに姿を消した。その際にいくつかの衣装も消えていたため、奴が持ち去ったと認識しているのだが。
「まあ、そうだったの」
興味のなさそうな相槌が返ってくる。お前が衣装だと言ったんだろうに――と憤りかけたが、思い返せば衣装を探しているとは断言していない。彼女は「衣装とか」と言ったのだ。衣装だけではなく、そこに付随するものも含まれる。肉体があるならば骨がつきまとうように、彼女の着たドレスにも中身があったではないか。
「それじゃあ、トルソーは?」
ついにハルカは結論を述べた。
駆け落ちしてから一年近く、彼女の元を離れていたもうひとりの自分。確かにこれは宇佐美ハルカのものだと言っていい。たとえ組み立てたのがジャックであろうと、ラベルに名を書いて標本にしてもいいくらい、そっくり同じ形をしているのだから。ただし、あくまでそれは〝あの頃〟の話であって――
子を孕み、そして産み、二度も身体を作り変えられた女が正面で囁く。
「私ね、自分の身体を取り返すために戻ってきたの」
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