外骨格と踊る

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冬を越える形

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机に置かれたココアが湯気を立てている。

私は胡桃の家に連絡を入れ、追加の用事が発生したので帰りが遅くなりそうだ、と伝えた。それでも普段よりは早く帰すことを約束する。通話を切って顔を上げると、対面の少女に向かって小さく頷いた。

「お姉さん。あのね、私たちにとっては夜顔こそが窓だったの」

夢見るような口調で胡桃が話す。指を組んだ両手が机に置かれ、しかし力が入って少し浮いているものだから、願い事をするようなジェスチャにも見えた。

「幼稚園児の頃から女の子ばかりのところに閉じ込められて、男の人と接触していないかずっと監視されて、この箱庭の中で大学まで進むことが決まっていて。そんな私たちの前に、唐突に開かれた窓だったのよ」

夜顔の筆跡はとても丁寧だ。風に飛ばされた原稿を拾ったとき、胡桃は少女の姿を想像したらしい。自分たちと同じく、詩歌や文学に親しむ大人しい女の子を。しかしその幻影は三秒ともたなかった。差し出された手は、自分のものより明らかに大きい。声は低く、浪々としている。外の情報に飢えているのか、身を乗り出して話し掛けてくる少年がそこにいた。

本来なら、すぐに立ち去らなければならない状況だ。どんな症状なのか、どれほど他者と関わっていいのかも知らない病人を相手に、長々と立ち話することが許されるはずもない。窓の外側には、箱庭育ちの女子生徒。内側には、予断を辞さない入院患者。どちらにとっても、監視者に咎められる可能性の高い行為だった。

それでも胡桃は、関わることを選んだ。自分だけでなく百合や山茶花にも伝え、唐突に開かれた窓を共有した。面倒なことになると分かっていたはずだ。頻繁に寄っている民家の住人の、出身校すら顧問に把握されている。それほど強固な監視の目を掻い潜るには、全員で揃って会うことすら叶わない。人目を盗み、ひとりずつ関わり、彼の雅号すら自分たちのものだと偽り、この細い繋がりを絶やさないよう懸命に活動した。

「でも私たち、みーんな捨てられちゃった」

声は幼いながらも、淑女のような口調の染みついている胡桃が。まるでふてくされた子供のような口ぶりで話すのを初めて聞いた。

「三人まとめてポイ、ね。あちらは本名すら教えてくれなかったけど、こちらの素性は明かしているの。波久亜学園高等部、俳句部のたった三人しかいない部員たちです、って。こんなにさらけ出したのに、また連絡するよ、のひと言もなかったんだから」

唐突に開かれた窓は、また唐突に閉じられた――だけならまだいい。まだ納得できる。その窓は閉じたわけではなく、消えてしまったわけでもなく、別のところで別の誰かを迎え入れることになったのだ。名門学校の俳句部の少女たちのことなど、話のタネにでもされて。こちらはあんなに必死だったのに、ただの奇妙な思い出話にされて。

「地元の病院に移って、久しぶりに恋人と会うんですって。中学生の頃から付き合っている、クラスメイトの女の子。学校の中で知り合って、学校の中で愛を育んで、その関係が卒業してからも続いていく。なんて素敵なことなんでしょう。山茶花が知ったらどうなるかしらね」

断片的な情報を、胡桃が話す。私は余白を想像する。時間をかけて、何度かそれを繰り返した。夕暮れだった景色は既に夜へと移ろっている。彼女たちが夜顔と過ごした春から冬にかけて、その全容が次第に見えてきた。

起きた出来事としては、誰も悪くない。俳句部の活動に誘ったといっても、全国大会を目指すようなものではないのだ。気軽に楽しくやればいい、と胡桃からも伝えていたはずだ。だから夜顔は軽い気持ちで続けたし、軽い気持ちでやめた。もう自分の作品が部誌に載らないとしても、何も惜しくはなかった。

病気は快方へ向かい、彼には春が来ることになったのだから。

だが胡桃たちは――波久亜学園の生徒である彼女たちに来る春は、冬の延長のようなものだ。季節が巡っても何も変わらない。ずっと同じ場所で、同じ人と関わり続けるだけ。裏切られた、捨てられたと感じてしまうのも、当然の帰結なのか。

「百合も山茶花も、大事な友人であり、部員たちよ。私の誘いに乗ってここまでついてきてくれた。だから絶対に傷つけたくなかったの。もちろん、私も……私だって、こんなことは認めたくなかったけれど……」

山茶花は彼のことが好きだったのだと思う。惚れ込んでしまったのだと思う。もはや本人ですら言語化できないほど、馴染みのない感情であったが。私もよく分かっていなかった、と胡桃は話した。だが、中学生の後輩に「山茶花さんが好きなので進学したら入部させてほしい」と頼まれたとき、山茶花の方はこの感情を夜顔に向けているのだな、と気付いた。もちろん、その中学生の入部を拒む理由はないが、目当ての相手と接触する前から失恋していることは明らかだった。

「真相を知ったら、俳句部を辞めていたかもしれないわね。山茶花」
「そこまでか?」

胡桃の言葉に思わず反発してしまったが、部長がそう言うのだから可能性は十分にあったのだろう。思春期の頃の感情は、外野からは短い期間の取るに足らない物のように思えるが、当人にとっては何にも代えがたい輝きを放っている。そして間違っているのは我々の方なのだ。本当は大切なものであるはずなのに、歳をとるにつれてその価値を忘れてしまう。それはまさに呪いのようだった。

「そりゃあそうよ。山茶花は、俳句の好きな子でした」

俳句を愛することと、俳句仲間を大切にすることは同義ではない。少女は悟りきったような声色で、続きをぽつりと呟く。

「私のことが好きだったわけではありません」

そんな感情も、他人が叱責していいものではない。どんな動機で行動するのか、それは当人だけが決めることだ。俳句を詠む活動は、どこでもひとりでもできる。記念館で季寄せと句帳を買った私に対して職員が告げた言葉だ。よほど私が仲間のいない人間に見えたのか、と自嘲気味に思い出し笑いをした。

「お姉さん、波久亜学園を衛星写真で見たことはあるかしら」

唐突にそんな質問をされた。私は面食らいながらも、あったはずだ、と返す。夜顔の病室の目星をつけたときだけではなく。その前に、近所にあるという巨大学園の全貌を知りたくて興味本位に覗いてみた。インターネットで簡単に調べられるのだ。

「高浜先生がおっしゃっていたの。学園付近の衛星写真のアクセス数は、他の土地と比べて明らかに突出している、って。皆さん興味がおありなのね。女の子だけが暮らす、一度入るとそう簡単には抜け出せない箱庭に。だからいつでも見られていると思って、行動には責任を持ちなさい……というお話だったのだけど」

あの学園ではありそうな説教だ。そんなことで行動を制限されるなど、生徒たちにとってはたまったものではないだろうが。たとえそう感じていても、声をあげる手段はない。一度あの中に入った時点で、彼女らは観察される側になったのだから。

伝統を守ること。変化を望まないこと。かつて誰かが「美しい」と定めた形に、添うような成長を遂げること。

「私たち、まるで瓶詰めの標本みたい」

そう言って、胡桃はココアを口元に運んだ。
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