外骨格と踊る

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冬を越える形

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畦道を一匹の猫が走る。子猫であれば春の季語だが、猫単体では季語にならない。こたつに入るなり、竈に入って灰をかぶるなりすれば、冬を表す言葉になるのだが。散歩中の老人の羽織るジャケットが目に留まる。春でも秋でも使うものだが、これは冬の季語。反対側からは親子が三人連れで歩いて来た。両親に挟まれた幼い子供が、繋いだ手を支えにして地面から足を離す。そういえばブランコは春の季語だと胡桃が話していた。いったいどういった理由なのか聞きそびれたが。

そんなつもりはなかったのだが、あれから少しだけ俳句の勉強をしている。息抜きに遠出をした際、道すがら見かけた建物が俳人の記念館だった。ふらりと入って鑑賞した後、こじんまりしたミュージアムショップで季寄せと句帳を買った。若い人が俳句を始めてくれて嬉しい、と職員に喜ばれたが、あいにく句帳はまっさらなままだ。しかし季寄せの方は割と面白く、手が空いた際にぱらぱらと眺めている。

綺麗な所だったな、と思い返した。住宅街の中にあり、見かけは富裕層の住居のように思えた。地域の文化芸術週間だったらしく、入館無料を報せる看板がなければ通り過ぎていただろう。扉を開ければ立派なガラスケースが並んでおり、掛け軸や短冊、原稿の数々が出迎えてくれた。丁寧に管理されているはずだ。やはりああいう場所にこそ、貴重な資料は集まる。私なぞが真似しようにも、足りないものが多すぎた。

それなのに、和室の壁に書が並んでいる様子を、何度も想像してしまった。

自分でもどうして執着してしまったのか分からない。きっかけは林堂の何気ない言葉だった。私に俳句を勧めた彼が、俳句じゃ食えないと返されて告げた提案。おそらく本人はもう忘れていることだろう。かつてここで開いた個展が、彼の写真を展示した経験が、私にとって存外に楽しかったのかもしれない。あのときは、四季に分類した写真を春から冬へと並べたが、俳句でも似たようなことができるのではないだろうか。順路を進むごとに季節が移り変わる、そんな展示ができるのでは。

今日は塾帰りの胡桃と会った。彼女は塾のついでにここへ寄れるが、他のふたりはあえて遠回りをする必要があるのだ。だから彼女しか見ない日も多かった。最後の講義が終わる頃にはすっかり日が暮れており、せめて田圃を抜けるまでは送ろう、という名目で私は隣を歩いた。普段はそんなことをしないので、何か話があるのだと彼女も感づいていただろう。

「俳句を展示する気はないか」

そう切り出した。我ながらずるい言い方だと思う。素直に頼み事の形式で話せばいいものを。

「君たち俳句部の部員から数句ずつ集めて、うちの和室で展示する。そういった企画を考えている。四人いるのだろう? 季節ごとに分担するのもいいな」

足音だけがしばらく続いた。私は手ぶらだが、胡桃は大きな鞄を肩に掛けている。こういうシチュエーションでは大人が持ってやるべきなのか、と今さらながらに思い至った。和室に置かれているのを一度だけ運んだことがあるが、本が詰まっているだけあってかなりの重さだった。ずっと提げていると身長が縮みそうだ。

しかしもう、機を逃している。歩みに合わせて揺れる鞄が、生き物のような影を畦道に落としていた。

「展示なら、公民館で一度だけさせていただいたことがあります」

胡桃の返答に、林堂の話を思い出す。彼が公民館で見たという学生の俳句は、やはり彼女らのものだったのだ。

「私がみんなの句を短冊に書いて、それを展示していただきました。他の部活動と合同でしたし、それほど数は多くないですが……」
「書いた? 君が?」
「ええ。父が書家なもので、私も心得はあります」

公民館で催された高校生の展示と聞き、もっと素朴なものを想像していた。まさか書家の娘が短冊を書いていたとは。芸事で食べていくことは難しいが、お父上はさぞ高名なのだろう。何しろ天下の波久亜学園に娘を通わせているのだから。とはいえ私は無教養なので、雅号を聞いても記憶と一致させられる自信がなかった。

「私も、もう一度そんな機会があれば嬉しいと考えていました」

胡桃は微笑む。建前だと分かっていたが、ほっとした。彼女たちが展示の機会を探しているところにちょうど私が声を掛けた――そんな収まりの良い形に整えようとしてくれている。実際は、ただの私の我儘なのに。

とはいえ、これで話はひとつ進んだ。

「明日、他の部員と顧問の先生に話してみます。もし企画が通れば、先生がこちらへ訪ねてくるかもしれません。そのときはよろしくお願いしますね」

畦道の終わり、車道へ続くガードレールの手前で立ち止まる。胡桃は振り返り、小さく手を振った。彼女の話を聞いて初めて、私は顧問の存在に思い至った。どうして今まで忘れていたのだろう。この話は、私と少女たちだけで完結するものではない。

「どんな人なんだ……」

上流家庭のお嬢様たちが集う学園。その俳句部の顧問。少し年嵩のいった、折り目正しい女性を想像した。いずれ、その人と話をしなければならないことは確定しているのだ。思わず己の身体を見下ろした。毛玉だらけのセーターに、それを隠すためのコート。古いジーンズの膝から下と、汚れたスニーカーが視界に入る。

明日にでも新しい服を買いに行こう、と溜め息をついた。
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