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石に映る林
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予想通り、彼が戻ってきたのはとっぷりと日が暮れてからのことだった。腕の中に子犬の姿はない。動物病院に預けてきたらしい。
「念のため入院させてきたが、すこぶる元気らしい。明日引き取りに行くよ。その前に必要なものを揃えないと」
「ちゃんと自分で飼うんだろうな? 私をあてにするなよ」
「せっかく庭付きの一軒家に住んでいるのに。いや、冗談だ。そんな無責任なことはしない。俺のところも一軒家だしな」
それは意外だった。長屋かアパートの一室に住んでいそうなイメージだったのに。しかし自宅にスタジオを持っているというし、写真家であれば家財も多いだろう。確かに一軒家の方が便利だろうな、と思い直した。
「獣医に聞いたところ、大型犬のミックスらしい。ゴールデンが入っているだとか。これから大きくなるぞ」
「雑種の大型犬、か……」
奇しくもムクと同じだ。あちらは黄土色の毛並みで、子犬はグレーだったので血筋は異なるだろうが。あんな話を聞いた翌日に起きたことなので、何だか運命じみたものを感じてしまう。彼女に話せば興味を持つだろうか。
「まあ、気が向いたら私にも会わせてくれ。その時は庭を貸してもいい」
そう言って締めくくった。私の軽口に林堂は表情で返事をしたように思えたが、夜の繊細な光の元ではサングラスの向こう側を読み取れなかった。私たちはサンルームで立ち話をしている。ここは陽光を浴びることを前提とした設計なので、天井には小さな裸電球しかぶら下がっていなかった。今の私たちが頼りにできるのは、ほとんどが月明りだ。
「さて。次は君の報告を聞こう」
彼は広げた片手を差し出し、話を促す。役者のような仕草をする男だな、と感じた。観劇が趣味であるとは聞いたが、自身が舞台に立つ側だったことはないはずだ。やはり伝染するものなのだろうか――いや、今はそんなことを考えている場合ではない。私は彼に、重大な報告をしなければならないのだから。
「売れてしまったよ、あの写真」
伝え方や語気を吟味するほどに言い出せなくなる気がして。あえて気軽に、早口に事実を述べた。とはいえ彼は知っているはずだ。サンルームに入った瞬間、額縁がひとつ足りないことに気付くだろうし、不在の間の売り上げも手渡してある。
「ああ」
彼は額縁の持ち去られた空間へ顔を向けた。順路の最後、種明かし用のパネルのひとつ前。白い壁に彼自身の影が投影されている。
「余裕があったなら、あれだけは勝手に売らないでほしいと伝えられたんだが」
「すまない」
「いや、いいんだ」
相手の謝罪に対して「いいんだ」と返すとき。口では「いい」と告げていても完全には許せていないことが多い。しかし今の彼は、実に落ち着いた空気をまとっていた。人間の言葉と心がこれほど一致している様を、私は初めて見た。自分のいない間に売って欲しくなかった、それは事実。しかしここへ戻ってきて事態を把握したとき、全てを受け入れることができた。それも彼にとっては本当のこと。
「子犬を連れて動物病院に向かっている間、ふとあの写真のことを思い出した。自分のいない間に売れてしまったらどうしよう。それも考えた。電話で伝えることもできたのに、そうしなかったのだから俺の責任だ。君に落ち度はない」
ありがたい言葉だが、あの状況で私に落ち度がないというのは無理がある。どう埋め合わせしようかと思案しているうちに、彼は次の言葉を紡いでいた。
「まさかこのタイミングで売れるはずがない、という考えも確かにあった。午前中は誰も来なかったのだから、午後からもそのような感じだろう、と。それもよりも子犬のことが心配だったし、診察を受けて結果を知るまでは落ち着かなかった。それで、ひとまず問題はないということを知ったとき――」
何もない空間を見ていた林堂がようやく振り返る。相変わらず視線はサングラスに隠れているが、まっすぐ見据えられていると感じた。
「あ、たったいま売れたな、と思ったんだ。不思議だろ。何も見ていないのに」
身体ごとこちらへ向き直る。もう壁の方を気にする様子はなく、私と立ち話をする体勢に戻った。どんなに眺めていても壁は壁だ。写真のデータは彼の元にあり、印刷物のひとつは婦人に持ち帰られ、ここには何もない。ただの白い壁からあの人を推測することはできない。
「どんな人だった?」
ついに彼は、私に尋ねた。私は母に問われた子供のように全てを話す。年恰好。服装。上品な言葉遣い。声。後頭部できちんと結われた黒髪。すらりとした体躯。並べられた写真が、ちょうど視線の高さにあったこと。そのひとつひとつと対話するかのように、ゆっくりとサンルームを巡った靴音のこと。彼女がここにいた間に知り得た全てを、焼き増すつもりで彼に伝えた。
――ただひとつ、最も目立つ特徴を除いて。
「君の血縁者だろう」
知る限りのことを伝え終えた後、直接そう切り込んだ。何も根拠を述べることなく。しかし「述べない」という行為は、時に言葉以上の意味を有する。私は彼女についてあらゆることを話したが、そのどれもが林堂との血縁を示す根拠にはなり得ない。ならば話していない要素こそが根拠だ。光を遮る部分が、影となって存在を示すように。
「俺を産んだ人だ。瞳の色は、彼女から遺伝したと聞いている」
動じることなく、彼はシンプルに答えた。瞳の話をしつつもサングラスは外さない。とはいえ、外したところでその色を確かめることはできないのだが。月明りが青白いフィルターを落としている。
私は、深刻に受け取られないような言葉を選んで問い掛けた。
「君も両親がいないクチか?」
「いや、違う。仲間になれず申し訳ないが。俺は二親揃った家庭で育てられたし、彼らは今も健在だ。ただ母親と血が繋がっていないだけで」
「物心つくまえに実の両親が離婚し、後妻を母として育ったというわけか」
「生まれてからひと月は、きちんと世話をしていたらしい。ひねもす抱いてあやし、乳を飲ませ、寝顔を見守って。しかしちょうど一ヶ月後の夜、彼女は正式な手続きを踏んで親としての立場を手放した」
そのひと月の間に何があったのだろう。私に知る由はないが、きっと第三者が想像するほど大それたことではない気がする。個展に現れた彼女は冷静だった。息子の成長に感極まる様子もなく、自らの過去を懺悔する様子もなく。段ボールに子犬を入れて捨てるのとはわけが違う。人が人を育てることを取りやめたいと考えたとき、不都合が起きないようにするための施策はいくつも用意されている。そのうちのひとつを選んだだけだ。
少なくとも、私が代わりに憤慨したり憐れんだりするようなことではない。
「……会いたかったのか?」
言葉足らずだと思いつつも、他の尋ね方が浮かばなかった。私は、この個展そのものが彼の撒いた餌だったと考えている。こんな田舎の一軒家まで、蜜の香りに誘われてあの婦人はやって来た。彼女が買い取ったテンドリティッククォーツの写真。あれこそがキーアイテムだったのだ。他の十九枚の写真は、木の葉を隠すための森でしかなかったのかもしれない。
「会いたい、というのは少し違うな」
私の言葉足らずな部分を、綺麗に埋めて均しながら彼は応える。
「ただ、今の姿を知っておきたいと思った。それだけだ。その点では、君からの説明を受けて目的は達成したとも言える」
「あんな言葉だけの説明では足りないだろう」
「自分で目にしていたとしても写真には残せない。仮に撮らせてもらえたとしても、声や空気までは写らない。何をやっても永遠に足りることはないさ」
私の勝手な行動を心から許してくれたのは、こういうわけだったのか。彼は写真家でありながら、写真が不完全なものだと知っている。それこそ、こうやって目の前で話していても、皮膚の一枚を挟んだ先までは写らないのだから。
「……まさか、これほど綺麗さっぱり見抜かれるとは思わなかった」
空気を変えようとするためか、彼は両手を軽く叩いた。乾いた音がサンルームに響く。壁の前から離れ、私に向かって歩み寄ってきた。
「気付いていたんだろう? あの写真が特別なものだってこと」
「特別どころか、あれは石ですらないじゃないか」
サンルームの中央。私の眼前で立ち止まった林堂へ、私の方からもまっすぐ視線を送りつける。グレーのレンズの向こう側、そこにあるものを想像した。見せろ、と念じる。今すぐサングラスを外してくれ。親しくなるにつれて素顔を晒さなくなった彼の、瞳の中にあるものをもう一度確かめたい。
「彼女は君の瞳の写真を買い取ったんだ。産んでからひと月の間は抱いてあやしていたんだろ? だったら何度も覗き込んでいるはずだ。鏡よりもずっと高い頻度で。すっかり記憶に染みついたそれを、ポスターかダイレクトメールで見かけたんだろうさ」
たとえ今は接触することが許されない関係であったとしても。間に何人かを挟めば、個展の報せを目に留まらせることくらいはできるのではないか。たとえば彼女の現在の家族だとか、そういった人物と林堂は繋がりを持っているのかもしれない。
「何がテンドリティッククォーツだ。石に映る林だ。嘘の解説をしてしまった。振り返ってみると恥ずかしいな」
「それは本当に申し訳ないと思っている」
彼の指が自らの顔へ伸びる。レンズの縁を摘まむ。彼が礼儀正しい人間であることを私は思い出した。親しくなるまでは、必ず素顔の状態で挨拶をしてくれた。ならば謝罪する際もサングラスを外すだろう。
目元から離れたそれは、ジャケットの胸ポケットに引っ掛けられた。彼が視線を戻した瞬間を見計らい、私は更に一歩を詰める。ほとんど変わらない身長を生かし、その瞳を正面から覗いた。たじろぐ気配を感じたが、後ずさって避けられることもなく。異性の間に許された距離感をわずかに飛び越え、そこにある景色を眺め、頭に叩き込んだ。
「……あと少しだけ、私にも見せてくれ」
厚い雲の垂れこめる、冬の白い空。僅かな光の元で枯木はシルエットとなり、血脈のごとく細い枝を伸ばす。騙し絵のようだ。ひとつの同じ景色を、両側から眺めているかのようだ。私や、今の家族の立場では簡単に見られないものを、あの婦人は記憶している。物心つく前、ほんの赤ん坊の頃に接していたからこそ。片時も目を離さないほど、愛していたからこそ。
ついに耐えきれなくなったのか、彼は顔を逸らす。目蓋を閉じる。そこにある静謐な林にも、しばしの夜が訪れた。
〈石に映る林・終〉
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