外骨格と踊る

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石に映る林

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最終日。いつにも増して穏やかな日だった。

縁側の日当たりは抜群で、秋の終わりだということを忘れてしまうほどに暖かい。今日も林堂は在廊しており、一日も欠かさず通い詰めてくれたことに感謝した。他にスタッフもいないので、私ひとりに任される日があれば困っていただろう。カメラにも石にも明るくない。この事業を続けるとしたら、少しは勉強しなければならないな、と考えた。

ずっと横這いだった来客数は、最終日にしてがくんと減った。午前中は全くのゼロで、私たちは暇を持て余した。しかし今さら焦りはしない。興味のある人たちは既に訪れてくれたのだろう。こうやってのんびりできる日もありがたい、とすら考えていた。

事件が起きたのは、昼下がりだ。

腹ごなしに近くを散歩していた林堂が、大慌てで庭に駆け込んでくるのが見えた。バイク乗りのような恰好をしているものの、性格は存外に穏やかな彼にしては珍しい。両手に薄汚れた箱を抱えており、ゴミでも拾って来たのかと最初は思った。当然、ただのゴミならばこれほど慌てる必要もないのだが。呼ばれるままに歩み寄って覗いてみれば、灰色の塊がもぞもぞと動いている。

「子犬を拾ってしまった……」

息をのんだ。自分は特に愛護精神の強い方ではないと思っていたが、実際に目にするとどうしようもなくショックだった。目も開いていない、生まれたばかりの子犬だ。箱の中にいるのは一匹だけ。動いているので体力は残っているのだろうが、素人が簡単に保護できるものではない。

「病院に連れていくから留守番をしていてくれ」

彼の言葉に、動物病院までの最短距離を思い浮かべる。普段意識しない施設のため曖昧だが、少なくともこの近所には一軒もない。診察と往復に必要な時間を足し合わせれば、戻りは夜になるのではなかろうか。困る。それは困る。

「行くなら私が。君が在廊してくれないと……」
「じゃ! 通りがかったトラックの運ちゃん待たせてるから!」

引き留める間もなく林堂は飛び出していった。しっかりと移動手段も確保している。こうなっては仕方がない、と縁側に引き返して腰を下ろした。勝手な想像でしかないが、子犬はきっと大丈夫だろう。手に汗を握って案ずるほど逼迫した状態ではなさそうだ。屋外で夜を越したわけではなく、おそらく今日の午前中に置き去られたか。彼がすぐに発見してくれて良かった。しかし、これほど近くにいながら現場を押さえられなかったことが悔しい。

林堂はいなくなってしまったが、午前中と同じように来客が少なければ大丈夫だろう。私だって案内くらいはできる。またぼんやりと田園風景を眺めていると、畦道を歩いてくる人影が見えた。遮るものが何もない、田圃を交差する道。姿が見え始めた時点ではあまりに遠く、年恰好すら分からない。

男か女か――女性だ。若者か大人か――若作りだがおそらく中年。そんな答え合わせを少しずつ積み重ねながら、相手の全体像が掴めるまで待った。そして最後の推測、通り過ぎるかここに用があるか――の答えは。

「ごきげんよう。こちら、見ていってもよろしいかしら?」

藤色のワンピースを着た婦人が、私の顔を見上げて言った。歳は四十代くらい。上品な言葉遣いの綺麗な人だ。こんな田舎には似つかわしくないが、まっすぐここへ向かったということは、何らかの興味があるのだろう。ダイレクトメールやポスターには、鉱石写真の展示であるという記載はない。嘘をつかない程度に「風景写真の展示」であると見せかけている。だから、宝石を目当てに来たわけでもないはずだ。純粋に美しい写真を楽しみに来たのか、それとも林堂の関係者か。

「どうぞ。入場は無料です」

婦人をサンルームへ案内する。エナメルを塗った靴がタイルの上で楽器のような音を鳴らした。そのまま演奏するかのごとく、順路の通りに写真を眺めていく。春から夏へ。夏から秋へ。ひとつずつじっくり見てくれているが、引き返すことはなかった。全ての額縁はちょうど彼女の視線の高さにあった。真正面から向き合って対話しているみたいだ、などと考える。

彼女の美しい靴音の後に、私のスニーカーがみっともなく続く。何も後を追う必要はないのだと、この時は気付かなかった。片隅に立って待っていれば良かったものを。なぜか従者のようについて回った私は、彼女と同じように全ての展示を見ることになった。

 春。桜並木のガーデンクォーツ。
 夏。競い合って潜った海のアパタイト。
 秋。私の記憶に刻まれた星空、サンストーン。
 そして冬。白い空に枝を伸ばす樹木――

「テンドリティッククォーツ……」

婦人がこちらを振り返る。その姿を見て初めて、自分がうっかり声を出していたことを認識した。

「そうなの? これって、そういう宝石なのかしら?」

しまった。これは完全なネタバラシだ。とはいえ私たちが見ているのは順路最後に置かれた写真で、すぐ隣には解説のためのパネルがある。ギリギリセーフといったところか。私はごまかすように苦笑しながら、そちらを指し示した。

「実は、今までの写真は全て、鉱石をアップで撮ったものでして……」
「あらまあ」

口では驚いている様子だが、本当は知っていたのだろうな、とその瞬間に感じ取った。呪文のような私の独り言を理解したのだから、それなりに詳しいのだろう。宣材写真を見た時点でトリックを把握し、最初から鉱石を目当てにここへ来たのかもしれない。彼女はしばらく写真と私の顔を見比べていた。

「これを撮影した方は、いらっしゃらないのかしら」

突然、痛いところを突いてくる。私はまごつきながらも正直に答えた。

「会期中は在廊する予定だったのですが、つい先ほど急用でここを離れてしまって」
「それは残念ね。あなたは助手さんなの?」
「そんな大層なものではなく……まあ、単なるスタッフです」

厳密には会場のオーナーなのだが。彼女は私を目の前にして、ここにはいない写真家のことを探した。なので私のことを林堂だと勘違いしているわけではない。しかし彼の名前をあげることなく「これを撮影した方」と言ったのだから、縁者やファンというわけでもなさそうだ。だとすればひとつ疑問がある。彼女は写真家・林堂を以前から知っていたのではないだろうに、初見で私のことを候補から外した。その根拠は何だろう。彼の名前は中性的なので、私が女であることは理由にならない。

「……助手さん?」

つらつらと考えを巡らせているうちに、また上品な声で呼びかけられる。だから助手ではないのだが、と思いつつ顔を見ると、即座に彼女と目が合った。まるで転がったビー玉がカツンとぶつかり合うように。相手の目を見て話すというマナーを踏まえても、ここまで真正面から見据えることは滅多にない。偶然、視線の軌道が一致してしまっただけなのか、あるいは。

「助手さん。私、この写真が気に入ったわ」

たとえ、きっかけは偶然だったとしても。そのまま視線を外せずにいるのには明確な理由がある。雪のように美しい銀の瞳。中央の真っ黒な瞳孔から繊細な光彩が伸びる。彼女は私に向かって話し続けているが、どこか遠くから声が聞こえる気がした。瞳の色が日本人離れしている、ただそれだけならばここまで凝視はしない。確かに美しいと感じるが、他人の生まれ持ったものを執拗に観察する趣味はない。

しかし、この色は。この色には覚えがある。

「この写真を買い取らせてくださいな」
「は、はいっ」

思わず声が裏返った。返事をしてから、改めて彼女の言葉を反芻する。これを買い取りたい。順路の最後にある、テンドリティッククォーツの写真を。この鉱石は特に擬態能力が高い。部屋に飾っていても、張りつめた冬の空気を感じる風景写真にしか思えないだろう。良いセンスだ。しかし――

「いやっ、現在は写真家が在廊していなくて……」

まさか最終日、このタイミングでこうなるとは。しどもど答える私を前に、婦人は穏やかな表情を浮かべていた。私ばかり焦っているという事実が余計に私を慌てさせる。

「一旦連絡先を控えさせていただきまして、後ほどご連絡するという形で……」
「そうじゃないと駄目なのかしら? あなたはこの作品のお値段をご存じない?」
「値段は……」

知っている。個展を手伝う者として、会期前に全て伝えられていた。昨日は高校生相手だったので林堂の判断で値引きをしたが、本来ならばこの価格のまま買い取ってもらうことになる。オークションではないのだから、交渉の必要もない。実在の景色ではないという説明もした。だから、私が売っても構わない。そのはずなのだが。

本当に大丈夫なのか? という警鐘が鳴り響いている。だってこの人は、ただの客ではない。写真を売り、配送の手続きをして、林堂が戻ってくるまでに全て終わらせてしまってもいいのか? このまま帰してもいいのか? だって彼は。彼がこんな田舎で儲けも出ない個展を開いた理由は、もしかして――

「ねえ、本当に駄目?」

問い詰められる。こうなってしまってはもう、蛇と蛙だ。私は頷いた。彼女の方も、私が懸念していることに気付いているのだろう。だからこそ、私が困るようなことを要求してくる。写真家・林堂と彼女の間にはある事実が横たわっているが、そこから目指す結末は全く逆方向だ。だから噛み合わない。

「分かりました。お買い上げありがとうございます」

私は写真の価格を伝え、婦人はそれを現金で支払った。次に配送の手続きをしようとすると、大丈夫だと告げて大判の風呂敷を取り出す。ワンピースと同じ藤色の、しっかりとした質感の布だった。

「自分で持ち帰れますわよ、このくらい。お手を煩わせるわけにはいきません」

確かに現在の彼女はほとんど手ぶらで、荷物がひとつ増えたところで問題なさそうだ。額縁の方もさほど大きいわけではなく、林堂は四、五枚ほどまとめて運んでいた。つまり名も所在も聞き出せないまま、彼女は写真を持ってここから去ることになる。複製不可能な絵画などなら、買い手の素性を控えることもあるだろうが、あくまでこれは高画質の印刷物だ。書店で画集を買うのと変わりはない。自分で持ち帰るとなれば、私たちと彼女の縁もこれまでだった。

徹底しているな、と胸の内で笑う。梱包作業を手伝いながらその姿を目に焼き付けた。髪は黒く艶やかで、後頭部できちんと結い上げている。手足はほっそりとしているが背は高い。ワンピースが皺ひとつなく身体に添い、誂えたかのように見える。本当にオーダーメイドというわけではなく、ただただ彼女の体型が理想的なのだろう。トルソーのように均整のとれた身体つきだ。あの人に似ている、と思い浮かべる相手がいるものの、それを林堂に伝えても意味はない。私は、私の言葉で彼女を説明できなければ。

十四日間、ひたすら彼女の来訪を待ち続けていた彼のために。

「あの……また来てください」

彼女が風呂敷包みに綺麗な結び目を作るのを見守りながら、呟くように言った。この言葉に効力などないと分かっていたので、本当にただの呟きだった。

「今回の展示は今日で最後ですが、またここで何かやるかもしれません」
「それは楽しみね。でもごめんなさい、お約束はできないわ」

 雪色の眼を持つ女性は、そう言って微笑んだ。

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