外骨格と踊る

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外骨格と踊る

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夕食と入浴を済ませた頃にはすっかり夜が更けていた。濡れた髪を拭きながら縁側に立ち、風に当たる。ふと隣室が気になった。当然ながら縁側は和室に備えられており、和室の隣といえば舞台の半分として使い続けたサンルームだ。私はひとりになったのだから、ここを仕切っていた襖を戻してもいいのだな、と気付いた。もう広い空間は必要ない。サンルームにチェアセットを置いてもいいし、本来の用途らしく洗濯物を干すのに使ってもいいだろう。

あるいは――何か、展示する?

写真家だという男の顔が過った。結局、名前すら聞きそびれたが。日光や室温、湿度の管理を考えると、絵画や造形を預かるのは難しい。やはり写真展から始めるのが妥当か。人入りの望めない立地であるが、雰囲気は良い。都心の味気ないビルの一室より、田園風景の中の一軒家。最近は昭和レトロだとか、リバイバルだとか流行っていることだし、古びて傾いていることすら魅力になったりして。

考えながら笑ってしまう。私もとんだお気楽だ。協力してくれる者などいないくせに、何が始められるものか。酒も呑んでいないのに酔っている気がした。濡れ縁を離れ、和室を突っ切り、サンルームへ足を踏み入れる。タイルの冷たい気配がした。稽古場だった頃は木板を敷いていたが、今は取り払って元の磁器タイルの床だ。晩夏とはいえ、風呂上りの裸足には辛かった。しかし履物を探してくるほどでもなく、そのまま対角線上を歩く。写真を並べるならどの壁だろうか、なんて。まだ空想に浸っていて。

ふと、途中で立ち止まった。どの壁からも最も遠い、サンルームの中央。大道具係の私には縁のない場所。セットの搬入以外で立ったことは――いや、一度だけあるか。ジャックにダンスを教えたときだ。あの夜ばかりは縦横無尽に踊りまわっていた。役者たちよりも広々と舞台を使い、月が傾くまで占有していた。

ふわりと腕を上げてみる。社交ダンスにおいて、ひとりで練習する際のポーズ。腕の中にパートナーがいると想定し、空気を抱きながらステップを踏む。これでも真面目な生徒だった。自主練もしていた。だからこの動きには慣れているし、虚しい気持ちにもならない。こうしていれば、いつかあの人が踊ってくれると信じていた。

馬鹿らしい。私を受け持った社交ダンスの講師は、私の体格を見てもなお、女の踊り方しか教えなかった。自分の方が引きずられそうになりながら、不自然にちょこまか歩き、それでも「女の子として踊れなきゃ駄目よ」と。おかげさまで半分は独学だ。ようやく両方のポジションで踊れるようになった頃、彼女は結婚を機にあっけなく教室を後にしたわけだが。

それでも、私の愛した人だった。

馬鹿らしい。本当に、くだらない。私とあの人は何度だって踊ったし、その過程で手も繋いだ。息が掛かるほどに顔も寄せたし、心臓の音が激しいと笑われたこともあった。しかし全部練習のためで、私が男役として踊らせてもらったことは一度もない。いつか、あなたと踊る殿方が見つかったときのために。彼女は何度もそう繰り返した。

三歩のステップで壁際までぐんと近付く。腕の中の存在を庇うようにターンし、壁のない方へと進む。ジャックと踊ったとき、とても懐かしい心地がした。いや、あいつはハルカの立場で踊っていたのだから、私の相手は彼女だったのかもしれない。まあ、どちらでもいいか。どちらでも同じ話か。じっくりと思い返してみれば、顔立ちそのものは近しいふたりだった。化粧でそばかすを隠し、重い目蓋を持ち上げ、クマを解消して髪を綺麗に整えたなら、ジャックもそれなりの容姿になるのでは。とはいえ、世間ではそれを「全く似ていない」と表現するのだろう。実際に似ているか否かよりも、似せる気があるかどうかを人は重視する。

立ち止まり、上体を傾ける。私が前へ動いたということは、相手は後ろへ倒れ込んでいる。背を反らし、ゆったりと身を預けるように。目に映らない存在を抱き起こし、再び方向を変えてステップを踏んだ。そうやって何度も、何度も回っているうちに、脚がもつれる。たったひとり分、二本の脚でも絡まることはある。私は膝から崩れ落ちた。咄嗟に両手をタイルについたが、勢いのまま叩きつけられるように横たわる。腕の中のパートナーは砕けて消えた。下手な転び方をしてしまったせいで全身が痛い。骨まで響いている。ああ、やっぱり。私には中身があるのだ。

天窓に月が架かっている。伏した身体を反転させ、そちらの方を向いた。手を伸ばして掴むそぶりをしてから、私は全てを忘れるために目を閉じた。

〈外骨格と踊る 終〉
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