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外骨格と踊る
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ジャックはなかなか具体的な指示を出さなかった。抜けた穴を埋めるためには工夫が必要なはずだが、団員たちに対して何も要求しない。ただ、それぞれの役目を今まで通りに稽古していればいい、と話していた。四人の役者は自分の動きを練習するのみだったし、音響も照明も予定通りのプログラムを反芻した。ジャックの行動だけは誰も知らなかったが、何もしていないわけではなさそうだ。民家の鍵を預かり、夜間に稽古場を使っている気配があった。
ある日、稽古場の休憩室(ということにしている六畳の洋間)で横になっていると、そのまま寝こけて陽が沈んでしまった。時計の針は一時を指している。真っ暗なので深夜二十五時ということだ。今さら帰る気にもなれず、このまま泊っていこうと考えた。元は誰かが暮らしていた一軒の民家なのだから、何の問題もないだろう。
誰もいないと思っていたので、足音を忍ばせることもなかった。むしろ独り言すらこぼしながら階下へ向かい、洗面所で顔を洗う。キッチンに即席麺のストックでもあっただろうかと廊下を進めば、ひとつの扉から光が漏れていることに気付いた。
ジャックがいる、と反射的に思った。
そこは作業場だった。半分以上が物置になっていて、実際に使える空間はほとんどないのだが。大きな作品を扱う私は主に庭で作業していたし、ジャックはおそらく自宅で全て済ませていた。だから名ばかりの作業場でも不便は無かったが、そんな部屋に今、ジャックがいると思われる。素通りするのも冷たい気がして、扉の前に立ち止まっていた。そのまま数分経った。その間、誰もそこから出てこなかったのだから、一時的に何かを取りに入ったわけではないのだろう。
ノックをする。うん、ともはあ、とも聞き取れない声が返ってくる。やはりジャックの声だ。私は扉を開けて、中へ身体を滑り込ませた。机に向かって背中を丸める人影がひとつ。近寄ろうとした矢先、待て、と止められる。
「来るな。作業中だ」
そういえばこいつは作業の様子を人に見せないのだったな、と思い出す。だが、とすれば私はどうすればいいのだろう。これではまともに話もできない。
「そこに椅子がある。座れ。こちらを向くな。窓の方でも見ていろ」
振り返りもしないまま、肩を回して背後の一点を指さす。椅子というより古い木箱のようなものが置かれていた。私はそこへ腰を下ろす。指示通り窓の方を向いた。鏡のようなガラス越しにこっそり窺えないかと思ったが、ジャックもそこまで馬鹿ではない。机は全く映り込まない位置にあった。
「居るのはいいのか?」
紙を切る音が背中越しに聞こえる。細いナイフで直線や曲線を描いている。確かに見てはいないが、作業の内容を推測できてしまう気がした。
「居たいなら居てもいい。どうせ解らんだろ、音だけでは」
不思議な話だ。ジャックにとって、作業の内容は「理解されては困る」ものなのだ。完成すれば団員の目に触れるというのに。奇特な前衛芸術に手を出しているわけではなく、芝居で実際に使うものばかりだというのに。奴のポリシーを詮索するつもりはないが、ふと疑問に思ったことがあった。
「そういえば、ハルカのときはどうしたんだ」
あのトルソーを作った夜。ハルカの身体を型にして和紙を貼り重ねていったのだから、彼女自身に見られることは避けられないのだ。まさか薬を盛って一晩眠らせたわけでもあるまい。ジャックの返事はしばらくなかった。ナイフの滑る音が息遣いのように繰り返された後、ようやく口を開く。見えはしないが、辺りがあまりに静かなので、唇の剥がれる音すらこちらまで届いた。
「目隠しをさせた」
してもらった、ではなく「させた」と。おそらくそれは、ジャックがハルカを使役できる立場であることの示唆――ではないだろう。この劇団において、彼女の上に立てる者などいない。本人たちも理解しているはずだ。ただ、あの状況においてのみ、白く美しく忠実な外骨格を作るという共同作業の間のみ、ハルカは単なる型でしかなかった。もしハルカをハルカと認識していたなら、ジャックも妥協せざるを得なかっただろう。日頃から付き従っている相手を、一晩拘束して好きに扱うことなぞできない。簡単に採寸をして終わり。そうならなかったことの理由が、先ほどのひと言に凝縮されていた。
「そうか、トルソーに頭は無いからな」
ずれた返答であると知りつつも、私の口はそのようなことを告げていた。
「目隠しをしても、形には響かないってわけか」
型となったハルカが下着すら身に着けていなかったのは明らかだ。たとえ布の一枚であっても、あの薄い殻の表面には影響が出る。目隠しに使用したのはハチマキ状の細い布であると想像できるが、目元の段差、後頭部の結び目を無かったことにはできない。それを解決する方法は簡単で、頭ごと無くしてしまえばいいのだ。
もっとも、それは因果の逆転に過ぎないのだが。目隠しのせいで頭部を上手く作れないから無くしたのではなく。そもそも頭部を作るつもりが無かったので、心置きなく彼女の目を塞ぐことができたのだ。だから私の言葉は本当に見当違いで、ジャックが鼻で笑って返すのも無理はなかった。
「まあ、そういうことにしておこうか」
そう呟いて作業に戻る。ナイフを滑らせる音がスーッと繰り返され、こんな状況でなければ寝息にしか聞こえないだろう。しかし当然ジャックは眠っているわけではなく、ひたすら紙片を切り刻む作業を続けているのだ。何を作っているのだろう? 気になったが、教えてくれるはずもなく。
することもないので、私は目を閉じた。窓に映った自分の顔を見ていても意味がない。もちろん立ち去ってもいいのだが、この場所が存外に居心地良かった。深夜。月が高い位置にある。彼女らが共にした夜もこんな空気だったのだろうか。田圃の真ん中にあるので近隣の物音も光も届かず。ただふたりきり、帳の中で溶け合って何かを生み出そうとしている。ハルカはなぜ協力したのだろう。こんな面倒で苦痛なことに。ジャックの目的は理解できたが、彼女の方にメリットはない。彼女はいつだって彼女自身の肉体と共にあり、鏡を見る度にそれを確かめられるのだから。
ナイフの音はいつしか止んだが、作業は終わらないようだった。今度は紙を折り曲げるような音が聞こえる。それも済んだら、次は糊を塗って貼り付けるような音。このまま夜が明けてしまったらどうしよう、と考えた。別に拘束されているわけではない。いつでも立ち去ればいい。だが、時間が経つにつれ、私も〝そのような〟気分になってきてしまったのだ。つまりジャックの作業に協力しているかのような。実際はただの部外者であり何も知らないというのに、まるで私の周りに薄紙が敷き詰められていくような。ここで私が身じろぎすれば、作品が台無しになってしまうような――
「もういいぞ。全て終わった」
弾かれたように振り返り、時計を見る。腰を下ろしてから一時間も過ぎていなかった。机の上はすっかり片付けられ、道具箱を提げたジャックが立っている。茫としている私を怪訝な目で見遣り、脇を通り過ぎて部屋から出ていった。慌てて私も立つ。完成したものを見せてくれないのか、と柄にもなく寂しくなった。その時が来れば嫌でも目にするわけだし、今までは浮かんだこともない考えだ。
床に白いものが落ちている。ちょうどジャックが歩いた辺りに。拾い上げて確かめてみれば、それは紙で作られた小さな花だった。見慣れない形の五弁の花。もしかすると架空の造形なのかもしれない。そういえばこの民家には立派な庭があるが、誰も園芸や家庭菜園には手を出さなかったな、と思い返した。
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