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外骨格と踊る
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まるで絵に描いたような駆け落ちだった。
王子は生まれ故郷に許嫁がおり、それは親が決めた相手だった。勉学のために上京している間はある程度自由にできたものの、いずれ戻って身を固めなければならないことに変わりはない。劇団員というのは嘘ではないが、それを生業としているわけではなく、単なる学生サークルの一員だ。クレセント劇団の中に散らばった情報を集めると、このような内容になる。ハルカは全部知っていただろう。だが彼の親御さんの方は、半分も知らされていなかったのではなかろうか。大学で演劇サークルに所属していること。後輩の学友の姉などという得体のしれない女に呼ばれ、他の劇団と関係を持っていること。その公演が差し迫っていること。何も知らされていないからこそ、公演当日を迎えることなくタイムリミットが来てしまったのだ。
要するに、いよいよ縁談の話が進もうとしたから。
駆け落ちの理由としては至極真っ当で、文句を言う者もいなかった。当然、主演ふたりの失踪には蒼然となったが、嘆き悲しんだり悩んだりすることと「文句」は別だ。誰もハルカに対して怒らなかった。懸命に稽古を積んできた役者の女の子たちは不憫だが、一介の大道具係に何ができるわけでもない。こうなってしまっては公演を取りやめるほかなかった。団員のほとんどがそう考えていた。今回は特に尽力してチケットを捌いたのに、と漏らす者もいたが、それでも所詮、埋まった客席は半分だ。
ハルカを目当てに来るお客もいたかもしれないのにね、とは誰も言わなかった。そんな客などいないことを薄々と察していたからだ。今までの公演にはハルカの関係者も来ていたようだが、そのハルカ自身が公演を捨てたのだから、今回はチケットを配っていないだろう。ならば純粋なファンとして訪れる客がいるかというと、おそらく、それも否だ。彼女が神格化されているのはこの劇団の中だけで、世間ではパッとしない下手な女優でしかない。捨てられてからようやく、従者たちはそのことに気付いた。まるで、膨らみきったシャボン玉がぱちんとはじけるように。
公演は取りやめ。次はどうしよう。役者はまだ四人残っているけど、ハルカのいない状況を知らない。主役の経験のある者がいない。このままやっていけるだろうか。さざ波のような不安と相談が稽古場の床を転がり、部屋の隅に溜まった。ジャックが立ち上がって窓を開ける。季節は春になったばかりで、草木の萌える匂いが漂っていた。ぬるい風が吹き込んでくる。そして、お茶でも淹れてこようかと訊くような声色で、公演はやめなくていい、と言った。
「やめる必要はない。このままでも開幕できる」
団員の集う舞台――二間続きのここが、全員収まることのできる唯一の場所だ――の片隅まで歩いたジャックは、ドレスを着たトルソーに手を掛ける。そのとき初めて、私はそれが作業場から持ち出されていることに気付いた。普段は衣装だけ脱がせて稽古に挑んでいる。なぜか今日に限って、主役ふたりの駆け落ちが確定した日に限って、出番を失くしたドレスがトルソーごと皆の前にあった。
白い身体を抱き上げる。左手で腰を掴み、右手の指を絡める。もし足首より先があったならこの位置になるだろう、と思われる高さに全体を浮かせる。そうしてみると、まさにひとりの女性が佇んでいる姿と変わりがなかった。後ろから支えられていることは明らかであるのに、汚れたエプロン姿の人影が隠れることなく見えているというのに、彼女は確かにひとりで立っていて。
「ハルカはここにいるじゃないか」
そうだ、主役はまだここにいる。残念ながら〝型〟の方はどこかへ行ってしまったが、外骨格の彼女は我々を見捨てはしない。見てみろ、台座から外された今なら分かるが、あれほど細い真鍮の柱だけで支えられていたのだ。ほとんど自分の意思で立っているようなものじゃないか。主役くらい務まるさ。頭がないから口は利けないが、言葉を話せることが何だっていうんだ。彼女には必要ないだろう。顔なんて、表情なんて、声なんて、花の一輪でも挿しておけば十分だ。
そんな、狂気じみた考えが、ドッと私の中を渦巻いて。
衣装係が自分の作ったトルソーを抱えている。光景としてはただそれだけであるのに、到底それだけには思えず。おそらく他の団員たちも、言語化するまでは至らずとも、似たようなことを考えていたのだろう。誰もジャックの言葉に反論しなかった。
「主役は彼女だ。王子の方は考えなくてはならないが……少し時間をくれ、何とかしてみせる。なに、あいつは元よりうちの団にはいなかった奴だろう」
彼女の身体を台座へと戻す。人体をそっくり模って作ってあるのだから、重心さえ見誤らなければ人間と同じように立つのだ。そう理屈では分かっていてもやはり不思議だった。本当にそこにいるように感じた。否、たとえ話はよそう。この日から彼女は役者のひとりとなったのだ。いるように、ではなく、いる。単なる衣装の展示台ではなく、我々の公演の主役として。
ジャックがせっかく衣装を作ってくれたものね――誰かが言った。誰かが呟くようにそう言ったが、そうではないことは皆わかっていた。型崩れしないように専用のトルソーを作るほど、気合を入れてこしらえたドレスがもったいないから。だから公演を中止にしたくない。それは建前としてあまりに綺麗だったが、そんな理由ですっかり固まった未来を覆そうとするような人間ではないのだ、奴は。
ジャックの中に「衣装だけが残ってしまった」という認識はない。ドレスもトルソーも無事なままで、ただハルカがいなくなっただけだ。何の演技力もないが、人を率いる才能と魅力を持っていたハルカ。それは団の発足や演目を決定する段階では重要だったのかもしれないが、稽古の進んだ今となっては些末な要素だ。王子の方さえどうにかすればやり直しは利く。私欲で皆を振り回そうとしているわけではなく。団の窮地を救った英雄になりたかったわけでもなく。本当にただ、それだけのつもりだったのだろう。
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