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1.もしかして?
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ふわふわと舞い落ちる桃色の花びらに私は目が覚めた。
さわさわと頬を撫でる優しい風と、暖かい日差しが眩しい。
視線を上げると、白い壁の荘厳な建物が目に入る。
まるで美術館のような美しさだけれど、ここは私が今日から通う予定の学院だった。
主に12歳から18歳位の貴族の子女が通う。
前を歩く生徒達の、濃紺のワンピーススカートが風を孕み柔らかく揺れる。
ささやかに弾んだ声が、小鳥のさえずりのように聞こえる。
今日からここに通うんだ。
名門校に通える喜びと誇らしさに胸が熱くなる。
その瞬間、ふと湧いた疑問にどうして自分がここにいるのかがわからなくて、私は呆然と学び舎を見つめたまま足を止めた。
ん? 今日から? 私高校生だったっけ? 私、どうしてここにいるんだっけ?
高校はもうとっくに卒業していたはずだよね。
あれ? 私は誰だっけ?
私はエジェ・ヘルツォ。
本当に?
頭の中を駆け巡る疑問に気を取られていたせいで、後ろから歩いてきた人とぶつかってしまった。
トスッという軽い衝撃が肩に走る。
「あ、ごめんなさい」
反射的に謝罪したけれど、ぶつかって来た女の子はこちらを振り向きもせずハーフアップにした金の髪の毛をなびかせて歩いて行ってしまった。
急に立ち止まった私が悪いから無視されるのはいいんだけど、謝ったのは聞こえたかな。
まぁ、彼女に怪我がなさそうでよかった。そう考えを切り替えた私は、ふと石畳の上に白いレースのハンカチが落ちているのに気が付いた。
あの子の落とし物かしら?
私は膝を曲げ、ハンカチに手を伸ばした。
視界の隅に、誰かが同じように拾ってくれようとしている姿が目に入ったけれど、それより先に私が拾い上げた。
「あの、落としましたよ」
汚れてはいなかったけれど、ハンカチの埃を払う仕草をする。
小走りで彼女に近付き、にっこりと笑顔を意識して作る。今日が登校一日目だもの、誰であっても第一印象を良くしておきたい。
でも振り返った彼女は、私を訝し気に見るとサッと身を翻して行ってしまった。
「……あ、れ?」
ハンカチを渡すために伸ばした手がむなしい。
あの子のじゃなかったのかな?
でもそれならそれで「違う」くらい言ってくれても……。
「それ、私から渡しておきますわ」
ハンカチを握ったまま棒立ちしていた私に、赤みがかった髪の女の子が声をかけてくれた。
ブラウンの瞳が少しばかり困ったような色を浮かべていた。
「あ、でも……」
今、私無視されたけど……。という気持ちが伝わったようで、彼女は安心させるように微笑んだ。
「あの方と親しくさせてもらってるから大丈夫よ」
「そうなんですね。では申し訳ないのですがお願いしてもいいでしょうか?」
私はお言葉に甘えてお願いすることにした。
このままハンカチを持っていてもどうしたらいいのかわからないし。
赤毛の彼女はハンカチを受け取ると、何か言いたげに私の顔を見たけれど結局曖昧に微笑むと踵を返した。
足早に金髪の生徒に近付くと、その側にいた他の生徒たちと一緒に彼女も校舎の中へと入っていった。
スッキリしない出来事だったけれど、私も立ち止まってるわけにいかないので校舎の中へと入って行った。
さっきは急に知っている景色だったような気がして立ち止まってしまったけど、多分デジャヴ……だったんだと思う。
私は教室の前で立ち止まると、息を整えた。
職員室に寄ってから来たので遅くなってしまった。たぶん、ほとんどの生徒はもう来ているだろう。
「よしっ」
私は気合を入れると室内に入った。
すると一斉に視線が集まる。
不躾な視線に目を瞬かせる。
な、何? 私どこか変?
怯みそうになる自分を叱咤すると、空いている座席を探す。
席は決まっていないから。
室内を見回すが、座席の多くはもう誰かに取られてしまった後だった。
私は一番近くの空いている席に座ったけれど、相変わらずジロジロと見られている。
小さく「知らない人」とか「誰だろう?」という言葉が聞こえるから私の噂をしているのだと思う。
多分、見知らぬ顔があるのが気になるんだと思う。
落ち着かなくて控えめに視線を巡らせると、なんとさっき外で会った赤毛の女の子がいた。彼女のそばには金髪の女の子も。普通に談笑をしているようだったから、赤毛の子が言っていた「親しくしている」は嘘じゃなかったんだろう。
本当は近くの席の子にこの学校について聞きたかった。あわよくば知り合いも増やしたかったし。でもどことなく遠巻きにされている空気を感じて、私は諦めて鞄から教科書を取り出すと今日の予習をすることにしたのだった。
* * *
私はエジェ・ヘルツォ。
出身はここ王都から離れた田舎の、一応男爵家の娘で今日からこの学院の高等部に通う18歳だ。
でも貴族と名乗るのもおこがましいくらい、庶民を同じような暮らしをしている。
料理はお母様が手ずから作り、家の雨漏りはお父様が修理した。
イノシシが作物を荒らすと聞けばお父様やおじい様が率先して退治に動き、洋服を縫っているのはお母様だった。
王都の貴族たちとは何もかも違うと思う。
だからこんな王都の美術館のように美しい学び舎に通うことになるなんて、本当なら天地が逆さにでもならないかぎりなかったはずだった。
この国は近隣諸国に比べて、就学率や学力が低いらしい。特に女子の。このままだと、周辺の国に大きく後れを取るかもしれない。それを憂慮した政府が、女子の学習機会の創設と学力向上を目指すというプロジェクトを立ち上げたそうだ。
就学率も学力が低いのも主に平民女性の話なのだけれど、急に平民女性にちゃんと勉強しろ。王都の学院に通え。だなんて言えないでしょう。通う平民女性も大変だけれど、受け入れる側の学院や生徒たちの心の準備だってある。だからそのプロジェクトの最初の対象として、地方の学校に進学した成績優秀の貴族女性が選ばれることになったのだ。
そして私はそれに選ばれた。奇跡が起きたんだと思う。
王宮から来た突然の手紙に驚いたけれど、それ以上に喜びが湧き上がるのを感じた。
これは田舎の学校を卒業して、婚約者と結婚するんだろうと漠然と思っていた私に差し込んだ一筋の光だと思った。
結婚が嫌なわけじゃない。
学校を卒業した後に親の決めた相手と結婚する子だって多いから。
でもその道に少しやるせなさを感じていたのも事実だった。
婚約者はこの知らせに当然反対した。勉強ばっかりして何になる? って。
けれど、それは父が説得してくれた。
実はプロジェクトに参加するとお金がもらえるのだ。制服や教科書、寮費も出してもらえるし、それ以外の生活費に使うようにと十分な額も貰える。
この学院には高等部の2年間だけ通うことになっている。無事に卒業すれば補償金としてさらにお金がもらえる仕組みになっているのだ。女性の婚期を遅らせるからね。
補償金を貰えば持参金が増える。それを聞いて渋々了承してくれたという訳だ。
なんだかなぁって思わないでもないけれど、彼も私と同じ地方貴族でお金がないから当然の反応だと思う。
それから、知らせを貰ったばかりの時は無事に学院を卒業して戻ることを考えていたけれど今はちょっと違う。
勉強を頑張って、私のような子に道を開いてあげられたらって思うのだ。
プロジェクトは始まったばかりらしいから、ある意味私が指針になったりするんだと思う。
私が良い成績を残したりすれば、後の子達にもっと可能性を広げてあげられるんじゃないかな?
この考えの変化も朝のデジャヴの後からだ。
そのためにも今は一生懸命勉強を頑張らないとね!
って思ってたんだけどなぁ。
「はぁ……」
勉強が難しすぎる。
私はため息を吐きだすと、机に突っ伏しそうになる身体をお腹に力を入れて耐えた。
その途端、ぐぅっとなるお腹。
私は素早く左右に視線を巡らせ、誰も聞いていなかったのを確認すると安堵した。
もうランチタイムになったので、皆早々にカフェテリアに移動してしまった。
「わからないところ多かったな」
小さく呟くと教科書をぺらりとめくった。
知らない部分だった。
私は18歳で地元の学校を卒業している。対して、王立学院では高等部の2年生つまり大体16、7歳の子たちに混じって勉強をしているのだ。
「勉強、甘く見てたかも」
学校も卒業してるし、年下の子と勉強なんて簡単だろうって思ってた。
でも実際は半日過ごしただけでもレベルの差を見せつけられたような気がする。
これは自習を頑張らないとついていけなくなる……。
成績が悪くても退学になることはないらしい。でも、自ら学院を去ることは止められていない。
絶対に辞めない! 食らいついて最下位でも卒業してみせるわ。
私は鼻息を荒くしながら教科書を閉じた。
どこか勉強できる場所も探さないとね。でも今はお昼ご飯だ。
教科書を鞄にしまうと、クラスの子達が噂していたカフェテリアに向かうことにした。
地図を見ながら廊下を歩いていると、前から見覚えのある子が歩いて来た。
「あっ」
赤毛の子だ。
向こうも私に気が付いたみたい。
足を止めると微笑んでくれた。
「どうかなさったの?」
すっと伸びた背筋。立ち止まった時のさりげない仕草まで優雅だった。
「あ、お昼を食べようと思って」
「ああ、カフェテリアかしら? それともレストラン?」
レストラン?
そんな場所もあるの!
「カフェテリアだったら、ショコラ・ショーが美味しいわよ。今はレモンのジェラートもあるの」
「ショコラ・ショー?」
「サブレもお茶の時間に人気よ。それからレストランにもタルト・タタンがあるわ。迷っていたらこれもどうかしら」
「タルト・タタン……?」
何それ、呪文ですか? 聞いたことのない言葉の羅列に私はただ言葉を繰り返すだけが精いっぱいだ。
私の戸惑いがどう伝わったのか、彼女は近づくと小首を傾げた。
赤い髪を束ねているリボンが揺れる。
褐色がかった瞳に、少し日焼けした肌の私が映っている。
「他にもデザートはあるから行ってみるといいわ」
「あ、ありがとう」
私は、突然この綺麗な少女の瞳の中に自分が映っていることが恥ずかしくなった。
私は年齢のせいもあると思うけれど少し周りの子よりも背が高い。肌は生まれつき日焼けをしているような色で、濃い茶色の髪の色もよくある色だった。
ただ、海のように青い目とはっきりとした顔立ちは異国風なのも相まってよく褒められるポイントだった。
けれどそんな私のささやかなチャームポイントも、彼女の気品の前では消えてしまうくらい小さなものだった。
「行ってみるわ」
私は視線を逸らして微笑んだ。
「ええ……。あの、待って」
迷った末、思い切って話しかけてくれたような雰囲気があった。
そういえば、ハンカチを渡した時も何か言いたそうな様子だった。
「気を悪くしないで欲しいんだけれど名前をお伺いできる?」
「あ、ヘルツォ男爵家のエジェと申します」
「ヘルツォ?」
聞き馴染のない家名に戸惑っているのだと思う。
「タウルアス山脈の麓が出身です」
「遠いのね……。貴方もしかして殿下がおっしゃってた新しい試みでいらした方ね?」
で、殿下??
「女子の学習機会の創設と学力の向上を目指すプロジェクトだって聞いています」
「そうでしたの」
彼女は頷くと口を開いた。
「私はコルネリア・ヴォイシュ。ヴォイシュ子爵家の娘よ」
子爵家は男爵家のひとつ上の階級だ。
私は似たような階級の子だったことに、こっそりと胸をなでおろした。
優しいし、この学院のことを聞いてみてもいいかもしれない。
「それからハンカチの金髪の子だけれどね、あの方はローザリンデ様よ。レルヒェン公爵家のご息女」
「こ、公爵家ですか」
思わず出た声は少し上擦っていた。
世間知らずの田舎者でも知っている家名だった。
吹けば飛ぶようなヘルツォ家とは違い、由緒正しい公爵家。
その公爵家の娘とご学友のコルネリアがただの子爵家の娘なはずない。
顔を青くする私に「知らなかったみたいだから……」と言うと、コルネリアは少し困ったような顔で微笑んで教室へと向かって行った。
その場に残された私はじっと手に持っていた地図を見つめた。
レストラン、ゆれるスカート、公爵家の娘……。
知っている気がする。
これもデジャヴ?
デジャヴって何? どうして私そんな言葉知ってるの?
だってそれは――。
前世で聞いたから。
「あっ!」
私は人目もはばからず大きな声を出してしまった。
廊下の窓から見える桃色の花をつける可憐な木。
――もしかしてここって、乙女ゲームの世界じゃない?
さわさわと頬を撫でる優しい風と、暖かい日差しが眩しい。
視線を上げると、白い壁の荘厳な建物が目に入る。
まるで美術館のような美しさだけれど、ここは私が今日から通う予定の学院だった。
主に12歳から18歳位の貴族の子女が通う。
前を歩く生徒達の、濃紺のワンピーススカートが風を孕み柔らかく揺れる。
ささやかに弾んだ声が、小鳥のさえずりのように聞こえる。
今日からここに通うんだ。
名門校に通える喜びと誇らしさに胸が熱くなる。
その瞬間、ふと湧いた疑問にどうして自分がここにいるのかがわからなくて、私は呆然と学び舎を見つめたまま足を止めた。
ん? 今日から? 私高校生だったっけ? 私、どうしてここにいるんだっけ?
高校はもうとっくに卒業していたはずだよね。
あれ? 私は誰だっけ?
私はエジェ・ヘルツォ。
本当に?
頭の中を駆け巡る疑問に気を取られていたせいで、後ろから歩いてきた人とぶつかってしまった。
トスッという軽い衝撃が肩に走る。
「あ、ごめんなさい」
反射的に謝罪したけれど、ぶつかって来た女の子はこちらを振り向きもせずハーフアップにした金の髪の毛をなびかせて歩いて行ってしまった。
急に立ち止まった私が悪いから無視されるのはいいんだけど、謝ったのは聞こえたかな。
まぁ、彼女に怪我がなさそうでよかった。そう考えを切り替えた私は、ふと石畳の上に白いレースのハンカチが落ちているのに気が付いた。
あの子の落とし物かしら?
私は膝を曲げ、ハンカチに手を伸ばした。
視界の隅に、誰かが同じように拾ってくれようとしている姿が目に入ったけれど、それより先に私が拾い上げた。
「あの、落としましたよ」
汚れてはいなかったけれど、ハンカチの埃を払う仕草をする。
小走りで彼女に近付き、にっこりと笑顔を意識して作る。今日が登校一日目だもの、誰であっても第一印象を良くしておきたい。
でも振り返った彼女は、私を訝し気に見るとサッと身を翻して行ってしまった。
「……あ、れ?」
ハンカチを渡すために伸ばした手がむなしい。
あの子のじゃなかったのかな?
でもそれならそれで「違う」くらい言ってくれても……。
「それ、私から渡しておきますわ」
ハンカチを握ったまま棒立ちしていた私に、赤みがかった髪の女の子が声をかけてくれた。
ブラウンの瞳が少しばかり困ったような色を浮かべていた。
「あ、でも……」
今、私無視されたけど……。という気持ちが伝わったようで、彼女は安心させるように微笑んだ。
「あの方と親しくさせてもらってるから大丈夫よ」
「そうなんですね。では申し訳ないのですがお願いしてもいいでしょうか?」
私はお言葉に甘えてお願いすることにした。
このままハンカチを持っていてもどうしたらいいのかわからないし。
赤毛の彼女はハンカチを受け取ると、何か言いたげに私の顔を見たけれど結局曖昧に微笑むと踵を返した。
足早に金髪の生徒に近付くと、その側にいた他の生徒たちと一緒に彼女も校舎の中へと入っていった。
スッキリしない出来事だったけれど、私も立ち止まってるわけにいかないので校舎の中へと入って行った。
さっきは急に知っている景色だったような気がして立ち止まってしまったけど、多分デジャヴ……だったんだと思う。
私は教室の前で立ち止まると、息を整えた。
職員室に寄ってから来たので遅くなってしまった。たぶん、ほとんどの生徒はもう来ているだろう。
「よしっ」
私は気合を入れると室内に入った。
すると一斉に視線が集まる。
不躾な視線に目を瞬かせる。
な、何? 私どこか変?
怯みそうになる自分を叱咤すると、空いている座席を探す。
席は決まっていないから。
室内を見回すが、座席の多くはもう誰かに取られてしまった後だった。
私は一番近くの空いている席に座ったけれど、相変わらずジロジロと見られている。
小さく「知らない人」とか「誰だろう?」という言葉が聞こえるから私の噂をしているのだと思う。
多分、見知らぬ顔があるのが気になるんだと思う。
落ち着かなくて控えめに視線を巡らせると、なんとさっき外で会った赤毛の女の子がいた。彼女のそばには金髪の女の子も。普通に談笑をしているようだったから、赤毛の子が言っていた「親しくしている」は嘘じゃなかったんだろう。
本当は近くの席の子にこの学校について聞きたかった。あわよくば知り合いも増やしたかったし。でもどことなく遠巻きにされている空気を感じて、私は諦めて鞄から教科書を取り出すと今日の予習をすることにしたのだった。
* * *
私はエジェ・ヘルツォ。
出身はここ王都から離れた田舎の、一応男爵家の娘で今日からこの学院の高等部に通う18歳だ。
でも貴族と名乗るのもおこがましいくらい、庶民を同じような暮らしをしている。
料理はお母様が手ずから作り、家の雨漏りはお父様が修理した。
イノシシが作物を荒らすと聞けばお父様やおじい様が率先して退治に動き、洋服を縫っているのはお母様だった。
王都の貴族たちとは何もかも違うと思う。
だからこんな王都の美術館のように美しい学び舎に通うことになるなんて、本当なら天地が逆さにでもならないかぎりなかったはずだった。
この国は近隣諸国に比べて、就学率や学力が低いらしい。特に女子の。このままだと、周辺の国に大きく後れを取るかもしれない。それを憂慮した政府が、女子の学習機会の創設と学力向上を目指すというプロジェクトを立ち上げたそうだ。
就学率も学力が低いのも主に平民女性の話なのだけれど、急に平民女性にちゃんと勉強しろ。王都の学院に通え。だなんて言えないでしょう。通う平民女性も大変だけれど、受け入れる側の学院や生徒たちの心の準備だってある。だからそのプロジェクトの最初の対象として、地方の学校に進学した成績優秀の貴族女性が選ばれることになったのだ。
そして私はそれに選ばれた。奇跡が起きたんだと思う。
王宮から来た突然の手紙に驚いたけれど、それ以上に喜びが湧き上がるのを感じた。
これは田舎の学校を卒業して、婚約者と結婚するんだろうと漠然と思っていた私に差し込んだ一筋の光だと思った。
結婚が嫌なわけじゃない。
学校を卒業した後に親の決めた相手と結婚する子だって多いから。
でもその道に少しやるせなさを感じていたのも事実だった。
婚約者はこの知らせに当然反対した。勉強ばっかりして何になる? って。
けれど、それは父が説得してくれた。
実はプロジェクトに参加するとお金がもらえるのだ。制服や教科書、寮費も出してもらえるし、それ以外の生活費に使うようにと十分な額も貰える。
この学院には高等部の2年間だけ通うことになっている。無事に卒業すれば補償金としてさらにお金がもらえる仕組みになっているのだ。女性の婚期を遅らせるからね。
補償金を貰えば持参金が増える。それを聞いて渋々了承してくれたという訳だ。
なんだかなぁって思わないでもないけれど、彼も私と同じ地方貴族でお金がないから当然の反応だと思う。
それから、知らせを貰ったばかりの時は無事に学院を卒業して戻ることを考えていたけれど今はちょっと違う。
勉強を頑張って、私のような子に道を開いてあげられたらって思うのだ。
プロジェクトは始まったばかりらしいから、ある意味私が指針になったりするんだと思う。
私が良い成績を残したりすれば、後の子達にもっと可能性を広げてあげられるんじゃないかな?
この考えの変化も朝のデジャヴの後からだ。
そのためにも今は一生懸命勉強を頑張らないとね!
って思ってたんだけどなぁ。
「はぁ……」
勉強が難しすぎる。
私はため息を吐きだすと、机に突っ伏しそうになる身体をお腹に力を入れて耐えた。
その途端、ぐぅっとなるお腹。
私は素早く左右に視線を巡らせ、誰も聞いていなかったのを確認すると安堵した。
もうランチタイムになったので、皆早々にカフェテリアに移動してしまった。
「わからないところ多かったな」
小さく呟くと教科書をぺらりとめくった。
知らない部分だった。
私は18歳で地元の学校を卒業している。対して、王立学院では高等部の2年生つまり大体16、7歳の子たちに混じって勉強をしているのだ。
「勉強、甘く見てたかも」
学校も卒業してるし、年下の子と勉強なんて簡単だろうって思ってた。
でも実際は半日過ごしただけでもレベルの差を見せつけられたような気がする。
これは自習を頑張らないとついていけなくなる……。
成績が悪くても退学になることはないらしい。でも、自ら学院を去ることは止められていない。
絶対に辞めない! 食らいついて最下位でも卒業してみせるわ。
私は鼻息を荒くしながら教科書を閉じた。
どこか勉強できる場所も探さないとね。でも今はお昼ご飯だ。
教科書を鞄にしまうと、クラスの子達が噂していたカフェテリアに向かうことにした。
地図を見ながら廊下を歩いていると、前から見覚えのある子が歩いて来た。
「あっ」
赤毛の子だ。
向こうも私に気が付いたみたい。
足を止めると微笑んでくれた。
「どうかなさったの?」
すっと伸びた背筋。立ち止まった時のさりげない仕草まで優雅だった。
「あ、お昼を食べようと思って」
「ああ、カフェテリアかしら? それともレストラン?」
レストラン?
そんな場所もあるの!
「カフェテリアだったら、ショコラ・ショーが美味しいわよ。今はレモンのジェラートもあるの」
「ショコラ・ショー?」
「サブレもお茶の時間に人気よ。それからレストランにもタルト・タタンがあるわ。迷っていたらこれもどうかしら」
「タルト・タタン……?」
何それ、呪文ですか? 聞いたことのない言葉の羅列に私はただ言葉を繰り返すだけが精いっぱいだ。
私の戸惑いがどう伝わったのか、彼女は近づくと小首を傾げた。
赤い髪を束ねているリボンが揺れる。
褐色がかった瞳に、少し日焼けした肌の私が映っている。
「他にもデザートはあるから行ってみるといいわ」
「あ、ありがとう」
私は、突然この綺麗な少女の瞳の中に自分が映っていることが恥ずかしくなった。
私は年齢のせいもあると思うけれど少し周りの子よりも背が高い。肌は生まれつき日焼けをしているような色で、濃い茶色の髪の色もよくある色だった。
ただ、海のように青い目とはっきりとした顔立ちは異国風なのも相まってよく褒められるポイントだった。
けれどそんな私のささやかなチャームポイントも、彼女の気品の前では消えてしまうくらい小さなものだった。
「行ってみるわ」
私は視線を逸らして微笑んだ。
「ええ……。あの、待って」
迷った末、思い切って話しかけてくれたような雰囲気があった。
そういえば、ハンカチを渡した時も何か言いたそうな様子だった。
「気を悪くしないで欲しいんだけれど名前をお伺いできる?」
「あ、ヘルツォ男爵家のエジェと申します」
「ヘルツォ?」
聞き馴染のない家名に戸惑っているのだと思う。
「タウルアス山脈の麓が出身です」
「遠いのね……。貴方もしかして殿下がおっしゃってた新しい試みでいらした方ね?」
で、殿下??
「女子の学習機会の創設と学力の向上を目指すプロジェクトだって聞いています」
「そうでしたの」
彼女は頷くと口を開いた。
「私はコルネリア・ヴォイシュ。ヴォイシュ子爵家の娘よ」
子爵家は男爵家のひとつ上の階級だ。
私は似たような階級の子だったことに、こっそりと胸をなでおろした。
優しいし、この学院のことを聞いてみてもいいかもしれない。
「それからハンカチの金髪の子だけれどね、あの方はローザリンデ様よ。レルヒェン公爵家のご息女」
「こ、公爵家ですか」
思わず出た声は少し上擦っていた。
世間知らずの田舎者でも知っている家名だった。
吹けば飛ぶようなヘルツォ家とは違い、由緒正しい公爵家。
その公爵家の娘とご学友のコルネリアがただの子爵家の娘なはずない。
顔を青くする私に「知らなかったみたいだから……」と言うと、コルネリアは少し困ったような顔で微笑んで教室へと向かって行った。
その場に残された私はじっと手に持っていた地図を見つめた。
レストラン、ゆれるスカート、公爵家の娘……。
知っている気がする。
これもデジャヴ?
デジャヴって何? どうして私そんな言葉知ってるの?
だってそれは――。
前世で聞いたから。
「あっ!」
私は人目もはばからず大きな声を出してしまった。
廊下の窓から見える桃色の花をつける可憐な木。
――もしかしてここって、乙女ゲームの世界じゃない?
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