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15.嘘よ

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 ルーカスは殴った右手を振ると、伸びているホーリンには目もくれずソフィアに話しかけた。

「え、ええ……」

 ソフィアの夜会用手袋に包まれている手をいたわし気に触れる。
 その手に傷がついていないことを確かめるように、するりと撫でると温めるように握りしめた。

「手を引かれていたようだった。あざになっているかもしれないから控室に行こう」
「ええ……。ホーリンさんはどうしましょう……」

 ルーカスは目を回して倒れている男を冷たい目で見つめた。
 ソフィアはルーカスがこんなに冷たい目をすることを知らなかった。まるで、見る物全てが凍ってしまえと望んでいるような瞳の冷たさだ。

「憐れむ必要はないように見えたよ?」
「ええ、もちろん……」

 ルーカスはソフィアの返事を確認する前に、室内への扉を開いて素早く中に招き入れた。
 館の外からドォンという大きな音と歓声が聞こえてきた。
 花火が始まったようだった。
 
 控室の前の長い廊下は閑散としていて、歩いていると今さらながらに身体が震えてきた。
 ルーカスは空いている控室を見つけると、ソフィアを部屋に押し込み長椅子に座らせた。
 そして自分は急いで部屋を出ようとする。

「待って、ルーカス。お願い行かないで」

 ホーリンが現れたらと思うと震えが止まらなかった。
 さっきルーカスの強烈な一発を食らって、しっかり伸びていたが本当にまだあそこで寝ているだろうか? もう起きて憤怒の表情でソフィアを探し回っているのではないか?

 殴ったのはソフィアではない。しかし殴られたのはソフィアのせいだと思うだろう。
 今にもその少し空いているドアの隙間からギラギラと怒りで顔を真っ赤に染めたホーリンが覗きこむのではないかと思うと怖かった。

 ルーカスは困ったように眉を下げると言った。

「メルトランド子爵夫人を呼んでくるよ。すぐに呼んでくるから大丈夫だ。それとももう馬車を呼んで帰るかい?」

 それなら男爵を呼ぼう、と言われて首をふるソフィア。
 義父に余計な心配をかけたくなかった。
 
 ソフィアの瞳にじわりと涙が滲んだ。
 
 ルーカスにさっきのホーリンの言葉はどこから聞こえていただろう?
 そんなに聞いていないと信じたい。
 それにさっきの様子をみて、ルーカスはどう思っただろう?
 ソフィアはルーカスに恋をしているのだ。
 英雄のように助けられて嬉しかった。けれど一方で、あんな下劣な男に迫られて可哀そうとか、そんな憐れみも持ってほしくなかった。

 好きな人に惨めに思われたくない。その一心でソフィアは気丈に微笑んだ。
 頬は引きつり、唇が震えないようにするのに精いっぱいだったけれどうまく微笑めた気がする。

「ルーカスありがとう……。そういえばお礼を言うの忘れていたわ」
「お礼なんていいんだよ。君を助けられてよかった」
「あなたの右手が犠牲になってしまったわ」

 ソフィアはわざと冗談めかせて言った。
 今度はいつも通りに笑顔を作れた気がする。
 
 ルーカスもソフィアの緊張をほぐすためか、わざとおどけて言う。
 
「人を殴ったのは初めてだけれど、なかなか爽快な気持ちになるものだったよ」
「あなたに体験させなくても良いことをさせてしまったわね」

 目を伏せるソフィア。
 栗色のまつげが瞳に影を落とす。

「違う!」

 ビクリと身を震わせるソフィア。
 急に大声を出されて驚いたのだ。
 ソフィアの怯えた顔を見て、慌てるルーカス。

「いや、驚かせてすまない。私は、あの男を殴ったことを後悔していないよ。むしろ、君を助けられてよかったとも思っているんだ」
「気を使ってそう言ってくれるのはありがたいけれど迷惑をかけたことは事実だわ……」
「違うよソフィー。私はね、可笑しいと思うかもしれないけれど、君に迷惑を掛けられて嬉しいとまで思っているんだ」
「そんな奇特な方がいらっしゃるなんて、王都は広いわね」

 冗談めかして返そうと思ったが、声に力が入らず弱弱しくなってしまった。
 
「ソフィー茶化さないでくれ。私は真剣なんだ」
「私も真剣よ。真剣に、自分を保とうとしているの。あなたに、あなただけには可哀そうって思われたくなくて!」
「可哀そう? そんなこと思うわけないじゃないか」
「じゃあどう思っているの? こんな未亡人の、あんな男にさえ言い寄られるような女のこと」

 ソフィアは普段なら決して心に閉じ込めて絶対に言わないようなことを口走っていた。
 自分でも冷静な頭ではないことはわかっていたのに止められなかった。こんなことをルーカスに言うのは間違っている。彼を困らせるだけだから。

 ソフィアはルーカスを見ることができなくて、視線を朱色の絨毯に落とした。
 さんざん来客者たちに踏まれた絨毯は毛がぺたりとへたっていた。

「……ルーカスごめんなさい。私、冷静じゃないみたいで……」

 ルーカスの反応が怖くなり、ソフィアはすぐに謝ることにした。
 今ならまだなかったことに出来ると思ったからだ。
 今日の非日常的な出来事に動揺して、可笑しなことを口走ったと思われただけで終わりたい。
 ルーカスに、まるで気持ちを聞くようなことを言ってしまったが、忘れて流してほしかった。
 
 そして明日はまたいつも通りの友人に戻りたかった。
 恋人にはなれなくても、友人のままでいたかった。

「シエナを呼んできてもらえるかしら? あなたにこんな事を頼むのは申し訳ないのだけど……」
 
 ルーカスは押し黙ると、何事かを呟いた。
 そして、控室のほんの少しだけ開けていた扉を完全に閉めるとゆっくりとソフィアの元へ近づいていった。
 ソフィアの手を優しく取ると言った。

「君は綺麗だよ」
「え?」

 ソフィアはぽかんと口を開けて、ルーカスを呆然と見つめた。

「な、何を突然……?」
「君をどう思っているか聞かれたから私の気持ちを伝えたんだ。君は美しいよ」
「ば、馬鹿な事言わないで」

 自分が美しいと言われる人間じゃないことは知っている。
 榛色の瞳が綺麗とか、栗色の髪の毛が艶めいているとか、そばかすが少ないとか。そういうパーツは褒められるべきところが少しはあると信じているが、それが寄り集まってソフィアという人間を形成した時に、美しいと言われたことはなかった。
 
「だから、自分を卑下しないで欲しい」
「卑下ですって?」

 さっきの突然の誉め言葉に思考が止まっていたけれど、その言葉でソフィアの中にある怒りの炎がチリチリと燃え始めるのを感じた。
 
「自分を貶めるのは自分であってもしないで欲しい」
「何なの? ルーカスに何故そう言われなければならないの?」
「大切な人を貶められて怒らない人はいない」
「え?」

 戸惑いながら目線をあげると、予想外に近い位置にルーカスの穏やかな顔があった。
 鼻筋がすっと通っていて、まつげが長い。そして眉毛はきりりと整えられていた。
 こんなに近い距離は二人で舞踏会で踊ったダンス以来だった。
 
「本当は、こんな時に言うものじゃないってわかってるんだ。でも、今言わないといけないような気がして」
「何のこと?」
「私に、君の側にいる権利を与えて欲しい。これから先、いつまでも君と時間を重ねていきたいんだ。結婚してくれ、ソフィー」

 ソフィアは間抜けな顔をしていたと思う。
 ぽかんと口をあけて目をきょろりと動かした。
 そして呟く。

「う、嘘よ」
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