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《後編》

佐伯の場合⑤──色違いの花火

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 相模にシャワーを勧めた。芯まで冷えきっていて、手が氷のようだった。服は洗っている。着替えてリセットして欲しかった。シャワーと雨音の隙間。佐伯の初恋。相模を裏切った、恋。
「医者になったら褒めてあげるよ」
 高校時代、佐伯が美術室で絵を描いている時、小さな身体でトラックを走る一人の少年の姿に目がいった。あまりにも懸命で、いたいけとすら感じさせる、名前すら知らないその小さな姿を、いつの間にか窓越しに、佐伯は毎日その姿を探すようになった。佐伯は躊躇いながら、声をかけた。相模はそんな佐伯を慕ってくれた。良く中庭の花壇を二人で見に行った。佐伯の絵がとても好きだと言ってくれた。笑顔が可愛らしかった相模。けれど零れそうな瞳で泣きながら笑わないで欲しかった。
  ***
「相模、着替え、洗濯機の上に置いておくよ。俺のいつものなんだ。我慢してくれ。下着は出張用の新品だから」
「すみません」
 暫くして湯気を身体に纏い、相模はバスルームから出てくる。相模は小柄なので大人の部屋着を子供が着ているようだ。佐伯は良く冷えたアイスティーを差し出す。嬉しそうに笑い、喉を鳴らして飲む姿は、いつも通りに見せている相模。
「夜景が綺麗ですね」
 相模は外を見ていた。けれど、視線の先には佐伯がいた。反射した佐伯を相模は優しい目で見ていた。ソファに腰かけ眠そうだ。佐伯もシャワーを浴びた。浴び終わってから、指先にハンドクリームを塗る。爪が弱く、すぐ割れてしまう。相模はソファで眠ってしまっていた。大きな瞳は閉じられ、無防備な顔はあどけない。佐伯もかなり若く見られがちだが、相模は佐伯と三歳しか違わないのに、段違いだ。印象はただ、可愛らしい。寝顔を、こうして眺めるのは初めてだ。たくさん泣かせて少し腫れぼったい目蓋。噛み締めすぎた赤い唇に胸が痛んだ。
「相模。お前は俺に色んな暖かいものをくれた。感謝してる。相模……お前は俺に何を望む?」
 空調を整えブランケットをかけた。そっと、触れるだけのキスをした。ソファで眠る相模の傍らに座り、髪を撫でながら語りかけた。
「好きだよ、相模が好きだよ。遊びの相手なら、このまま寝室につれていくんだけどな。出来ないな。嫌われたくない。ずっと一緒にいたいな。俺は前に話したけど大学時代の両親の事故があったから……だからあんなにも孝明に執着したのかもしれない。あの時、寄りかかれたのは孝明だけだったから。相模、お前を、傷つけたくない。我慢して涙をこらえて微笑まれるのが一番つらいんだ。泣きながら笑われるのはつらい」
海のことは……言えなかった。部屋に響く静かな雨音。眠ったはずの相模が静かに呟いた。
「………先輩。僕、佐伯先輩のこと、好きです。嫌いになんてなったりしません。佐伯先輩の寝室……見たい」
 目を閉じたまま相模は呟く。
「起きて、たのか?」
『佐伯』先輩と相模が溶けそうに甘い声で名前を呼ぶ。耳が赤くなる。相模は続ける。
「すみません。でも、嬉しかった。シロクマ、ボロボロでも、ずっと持っているつもりだったんです。付き合った人でプレゼントをくれる人はいたけど、一番嬉しかった。だって先輩だから。留学先の大学でもユリを見るとニッコウキスゲに見えました」
「相模に前から訊きたかったんだが何処に留学したんだ………?」
「イギリスのKB大学に留学しました。ちゃんと向こうで博士号も取りましたよ。パスケースにあの野外写生旅行の写真を入れてました。先輩の絵も。淋しいときは写真や絵を見て、あの頃を思い出していました。一番幸せだった」
「大丈夫なのか?」
 相模は気にしないでと言うようにニッコリ笑う。この笑い方……急に海のことを思い出した。あの子のように相模も居なくなってしまうのではないか。もう、波打ち際に白い花びらを流したくないと思った。指先が冷えていく。
「あ、雨が上がりましたよ。テールランプがガーネットみたい。ルビーよりも、ガーネットの方が色が近い気がします。綺麗ですね。夜景も。あの一つ一つに物語があるんでしょうね。ああ、綺麗ですね。手を伸ばせば掴めそうで……」
 佐伯が孝明の目の前から消えるときに言った言葉に似ていた。佐伯はその言葉の続きを聞くことが怖くて、相模に無理矢理口づけた。相模は抵抗しなかった。佐伯はじっと、相模を見つめた。優しい目差しだと思った。佐伯は「相模、好きだ」細い指に口づける。首筋や項に口づける、相模は微笑ってた。困った子供を見る母親のように。佐伯は相模の名前を呼んだ。怖い。ただ、怖くてたまらない。
「相模──俺にお前を失わせないでくれ」
「何処にも行きませんよ。ずっと先輩の傍にいます」 
 相模は佐伯だけに溢れるくらいの優しさをくれる。『自分だけ』と言うのは麻薬のような陶酔感を呼び起こす。相模は佐伯に犯されるように抱かれる今も困ったように微笑んでいる。相模は佐伯の全てを許す。それはきっと良いことではない。だから相模をずっと、愛して、ずっと、守る。他者からも、佐伯自身からも。
 佐伯に抱かれながら相模は甘い声をだしながらも、ずっと静かに微笑みながら泣いていた。泣きじゃくるのではなく声もなく、音もなく。ソファに涙の跡がつく。動きを止め、訊いた。
「身体、つらいか?相模」
 相模は首を横に振り、俺の問いに、苦しげな呼吸で言った。
「『明彦』って呼んで下さい『光宏先輩』……僕を、全部、光宏先輩に、あげます………僕のこと、要らなくなったら、壊して、捨てて下さい。光宏先輩なら、出来るはずです」
 佐伯は相模と身体を繋げる。抱き寄せると堪らず相模は声をあげた。。
「愛してる。ずっと愛してるから」
 繰り返す佐伯の言葉を、快楽に喘ぎながらずっと相模は受け止めていた。佐伯に揺さぶられながら両手を佐伯の背に這わし、途切れ途切れ相模は言う。
「光…宏先輩……だけ。ずっと、僕の世界は、先輩だけだった。僕、幸…せだよ。今なら……」
 死んでも構わない。声にならない声で相模は言う。瞬間、佐伯は苦しそうに眉根に皺根を寄せる。相模が佐伯の背に爪を立てる。お互いの二十年が、色違いで昇華した瞬間だった。
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