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《前編》

孝明の場合③──和也の選択

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 特に急患もなく時間通りに上がる。和也からの連絡はない。と言うことはいつも通り家にいるんだなと思った。雪の降りが段々と強くなってきた。あっという間に積もり、良く磨かれた革靴半分くらい埋まる。和也が折角磨いてくれた革靴なのに……。片栗粉のような粒子の細かな乾いた雪は、歩く度にキュッキュッと音をたてた。
 ベランダから、和也を後ろから抱きしめて、音もなく降り積もる雪を見たいと思った。家の近くの花屋に寄って大きな白い薔薇の花束を受けとる。
 左手には、もうひとつのプレゼント。綺麗な凝った箱に入った百貨店の高級ブランドのチョコレート。前々から予約をしておいた。喜んだ顔が見たかった。
 これからはもう、絶対酒は飲まない。和也と付き合って二十年目の節目だ。もう孝明は四十も過ぎた。今までのことを謝って、『これから』をつくる。昔みたいな、付き合ったばかりのような。視線が合うだけで満たされていた頃のような。
 謝って、謝って、謝って。許されることではないだろうけれど。一生引きずることだろうけれど。そうだ、いつか約束していたワインを和也と開けよう。きっとあいつ、忘れてる。サイドボードの端に鎮座しているワイン。孝明はご相伴を遠慮して、残りは和也に飲んでもらおう。和也は酒が弱いのでかなり余ってしまうが、余ったら料理用に使ってもらおう。少しもったいないけれど、自分が飲むよりずっと良い。
 和也の生まれた年の和也の誕生日に作られたワイン。少し良いものでインターネットで見つけて買った。『和也の誕生日に』そう言い、二人でPCの画面を見ながら、『購入する』のボタンを押した。椅子に座った俺の肩に腕を絡める和也の手を解き、口づけあった。そのまま和也を押し倒し、和也を抱いた。孝明の部屋だった。ベッドまで待てず、カーペットで半ば無理やり抱いた。和也は孝明が必ず最初に首筋に顔を埋めるのを知っていて、小さく笑う。昔からの癖だ。それから見つめあってから口づけをするのも。長い睫毛が、綺麗だ。和也を抱いた後、
「孝明は僕の首筋が好きなの?」
 と訊かれたことがある。孝明は少し照れながら、
「良い匂いがするんだ。甘い、花みたいな」
 と答えた。
「じゃあ、何で、その後必ずキスするの?」
 大きな茶色い瞳に嘘がつけない。
「和也が、消えてしまいそうで、怖い。いつも、何かに怯えてるような、不安そうな、悲しい顔してる」
「消えないよ。ずっと孝明と一緒にいるよ。そんなに僕、悲しそうな顔してる?こんなに幸せなのに」
 言い終わる前に和也はポロポロと涙をこぼした。大きな瞳から流れる涙は、夏に降る雨粒のようだった。孝明は思わず抱きしめて、和也の髪を撫でる。
「孝明、消えたりなんかしないから。大丈夫だよ。孝明。僕は何も不安なんかないよ。悲しくもないよ」
 涙をこらえる瞑られた和也の目尻からは、それでも涙が伝い続ける。ひしひしと感じる和也の漠然とした、大きな『不安』。一体何に怯えているんだろう。
 そして、いつからだ?和也にあたるようになったのは。『恋人』から、ただの『物』のように扱うようになったのは、いつからだろう。きっかけは、いつだ?解らない……。

『もう作らないから──ごめんなさい、ごめんなさい』

 ふと、フラッシュバックのように、和也の声が聴こえた。こういうのは加害者の自分が忘れているだけで、きっと和也は憶えているんだろうと、思う。孝明は思わず、俯く。綺麗な思い出が霞み、今までの和也への酷い扱いばかりが脳裏をよぎる。
   ***
 和也にいくら電話をしても繋がらない。連絡がつかないことは、今まで一回もなかった。杞憂きゆうだと思いつつ足は早まった。雪がやまない。黒い足跡だけを残していく。突風が雪を横に運び、頬を刺した。グレーの皮の手袋だけが外気を遮断する。和也が二年前の誕生日にくれたもの。自分は何をやったかを思い出そうとした。しかし、答えは出てこない。当たり前だ。その年の和也の誕生日に孝明は、
『そうだったっけ?』
 そんな言葉しかやってない。最低だ。手袋は暖かく、センスも良い。孝明は十一月生まれだから和也より誕生日が早い。いつも、手作りの暖かいご馳走とで祝ってもらっていた。いつも近いと感じていた駅前から家への道程が異常に遠く感じる。早足で歩く。最初は寒さから。次に和也に大きな白いバラの花束を見せたくて。最後は何かしらの恐怖感。虫の知らせというやつかもしれない。最後には走った。何かが知らせる。朝の『早く帰って来て』と必死に訴えていた和也がちらつく。
 あんなこと、なかった。いや、一回だけ同じ顔を見たことがあったことを思い出す。和也に手紙が届いた時だ。今月の一日。差出人は書いてなかった。気味の悪い手紙で、白い紙に、赤い口紅で『1221』と書いてあった。ただそれだけの手紙。何かの暗号のような。ふと思う、あれは和也の誕生日の日付?今日の日付だ。あのとき和也は顔色を蒼白にして震えていた。
 風は弱まったが寒さが身を切るように痛くなってきた。辺りは真っ暗だ。そういえば今日が冬至だと思い出す。身体を占めていく嫌な考えを振り切るように今日帰ってからのことを考える。冬至なら柚子でも買って来ればよかったな。いや、あいつの事だから、柚子くらいは用意してあるだろう。
『一緒に風呂に入るか?』
 と誘ってみよう。昔みたいに真っ赤な顔をして首を横に振るのだろうか。ケーキの代わりのチョコレート。和也はチョコレート以外の甘いものが苦手だ。チョコレートとバラ、喜んでくれるといいな。『美味しい』と言って笑ってくれるかな。作られた笑顔から、昔のような柔らかい微笑みになるまで、どんなことでもする。無理やり不安を肩に積もった雪を払うように振り払い、笑顔を浮かべる和也を思いながら鍵を回した。
「和也、帰ったぞ。」
 返事がない。ホテルをとったのか?いや、何か変だ。玄関の電気をつける。気配がある気はするが、いない。それに真っ暗く、寒い。いつも和也はスリッパの音を響かせながら、丁度良く空調を整え『おかえり』と、微笑んで迎えてくれていた。苦しそうな笑顔で。ふと、気づいた。何か嫌な臭いがする。鉄のような。
 暗い部屋を明かりを一つ一つ点けながら、和也を探す。ソファに大きな立派な箱に入ったチョコレートと鞄を投げるように置く。何だか寒気がする。空調の寒気か、和也の不在か。綺麗に磨かれた、何もないキッチン、孝明の書斎。机のライトが灯っていた。木の机に可愛らしい表紙の厚地のノートが置いてあった。表紙には何も欠いていない。怖々、開く。中は俺の好きなメニューの事細かに書いた和也が作ったレシピ本だった。全部丁寧に手書きで書かれていて、色鉛筆まで使ってある。春夏秋冬、季節に分けられ、良い野菜の見分け方までかいてある。パラパラとめくると、一番最後のページに、小さく和也の少し丸い優しい文字があった。
『孝明へ 長く君を束縛してごめん。君の第二の人生が幸せなものでありますように。君を憎んだよ。これ以上もなく憎んでいたよ。でも、愛していたよ。本当だよ。こんな結果になってしまったのは残念だけれど。ごめんね。さよなら。 和也よりメリークリスマス』
 ぞっとした。『さよなら』?『第二の人生』?そこにお前はいないのかよ。お前のいない人生なんていらねぇよ。『さよなら』ってなんだよ。やり直したいんだよ。少しずつでも昔みたいに戻りたかったんだよ。微笑みだけで完結する関係にまで。
   ***
 孝明は和也の名前を半狂乱になって叫びながら、最後に、一番開けるのが怖かった『何故かそこだけ明かりがついている』バスルームのドアを開けた。
 夕陽がさしていたー本当はただの間接照明のオレンジ色のライトなのに、孝明は確かにそう感じた。和也が夕陽に怯えていた気持ちが少し解った気がした。和也が頭から出血し、血だらけで倒れていた。首にはぐるぐる巻きになった紐。倒されたキッチンの昔使っていた、今となっては何処にいったか解らなかった丸椅子、血の気が引いた。首を吊っていた紐が切れたようだった。不幸中の幸いだ。鬱血した後がないから、吊ってから間もなく切れたんだろう。タイルに頭をぶつけたらしく、外傷があり出血がひどい。ご丁寧にアルコールと相性の最悪な精神科の薬まであのワインで大量に飲んだ跡があった。佐伯が薬剤の本を読んでいたのをみて、覚えていた。呆然と立ち尽くす。
『これが、結果だ。この光景が今まで自分が和也にしてきたことを凝固させたものだ。お前がやったんだ。お前が和也をこうさせたんだ』
 頭の中に自分の声が反響する。足元に転がる今日二人で飲むはずだったワイン。和也は覚えていた。でも、誕生日に『一緒に』飲もうって昔、買ったとき言ってたよな。もう、お前は、希望をもてなくなったんだな。そうだよな。一昨年も、去年もまともに祝ってなんてやらなかった。首を吊るために和也が選んだ紐は、孝明が昔、誕生日にプレゼントしたネクタイだった。
「孝明はセンスが良いね。凄くお洒落だ」
 それをあげたとき、鏡の前に立ったお前は、嬉しそうに笑っていたっけ。気に入ってくれてそればっかりしてたな。自分の持ってるのでずっと良い奴もあるのに。白い薔薇、好きだっただろ?このくらいは覚えているんだよ。ワイン、独りで飲んだんだな。お前、酒弱いのに。白い大理石の床が赤ワインとお前の血液で赤くて、酒だか血だか、解らない。片手に握りしめていた白い薔薇の花束も、落としたおかげでじわじわと赤くなって、白いのに赤い。そっと頸動脈に触れる。微かにとれる和也の脈。しかしそれも、細く、消えてしまいそうで。救急車に連絡しているうちに流れていく血。涙が止まらなかった。呟くように名前を呼んだ。
「和也、和也、和也………!」
 段々と和也を呼ぶ声は大きくなる。名前を泣き叫びながらの、人工呼吸。心臓マッサージをした。和也と最後に唇を重ねたのは一体いつだっただろう。和也の唇は、冷たくて死体に口づけしているみたいだった。
「頼むから、頼むから、和也」
 悪かったから、全部俺のせいだって解っているから。何だって耐えるし、何でもする。だから死なないでくれ。置いていかないでくれ。もう置いていかれるのは嫌なんだ。振り向きもせずいかないでくれ。そう孝明は、心の中で叫んだ。必死で和也に心臓マッサージと人工呼吸をし続ける。救急車を呼ぶ。搬送先の病院が俺の勤めている病院の系列だった。脳外の斎藤がいてくれた。佐伯は精神科でこっちの薬には詳しい。二人とも腕が良い。大丈夫だ。きっと和也は大丈夫だ。しかも佐伯は孝明のことを全部知ってる親友だ。
 和也がERにかかり、遠く暫く苦しそうな音が聞こえる。胃洗浄だ。胃を洗われてる方は地獄の苦しみだと聞いたことがある。でも和也は意識がない。それを味合わないのは不幸中の幸いなのだろうか。和也が戻ってきそうな気配に、少しだけほっとする。頼むから、生きてくれ。
 俺は待合室の椅子で下を向きながら手を組み、今まで信じたこともない神様に何度も何度も祈った。
『俺を全部あげます。だから、和也を連れていかないで下さい。あいつは何にも悪いことなんてしてないんです。お願いですから、助けて下さい』
 斎藤が大きめな声で看護師に指示をする声が聴こえる。救急処置室から出てきた和也が可動式ベッドで移されたのは搬送されてからかなり時間が経っていた。時計を見る余裕なんか、なかった。個室に移されるようだった。
「助かった………」
 孝明は顔を両手で覆った。身体中の力が一気に抜けた。細身の女性の看護師が孝明を呼びに来た。立ち上がって会釈をしようにも足に力が入らない。
「佐伯先生から説明があるそうです」
 通されたのは、和也が眠る個室だった。
   ***
 疲れた顔の佐伯が口を開く。
「完璧な量の薬とアルコール。発見があと少しでも遅かったら助からなかった。流石だな。名医守屋和也は健在だよ」
 佐伯は孝明を冷たく見る。
「気になるのは頭部の外傷だな。CTと、レントゲンでは特に目立ったことはなかったが。今日の担当、脳外の斎藤で助かった。少し出血がひどかった。血圧も低下してるし。まだ要観察だな。医者としての俺の話は以上だ。友達としてはまだまだある」
 そう言い終わった瞬間、佐伯は孝明を見据え思いっきり横っ面を張った。あまりにも突然で、孝明は口の中を切った。
「てめぇ!なにすんだよっ!」
 孝明が怒りを滲ませてそう言うと冷めた声で佐伯は言った。蛍光灯がチカッチカッと切れかかって、消毒薬臭い室内を際立たせる。
「お前がしてるのは犯罪だ。孝明。和也の左足、半端ない内出血だな。お前がやったんだろ?あれじゃあ、まともに歩けない。足を引きずっていたんじゃないか?お前それでも医者かよ。気づいてたんだろ?でも何もしなかった。それと、右目、外傷性網膜剥離かもしれない。身体中の痣は完全なDVだよな?いや、その域を超えてる!何でこんなことしたんだ!どうして!酒やめたんじゃなかったのかよ!何か言えよ。言い訳くらいしてみろよ!言えよ、孝明!説明しろよ!」
 佐伯は両肩を揺さぶった。孝明は人形みたいにガクガク揺れて、消え入る声で佐伯に言った。
「俺もずっと理由を探してた。思い出したよ…あいつ、唐揚げ作ったんだよ。しかも……寒天も……そしたら俺………」
 佐伯が思わず息を呑んだのを見た。孝明にとって唐揚げと蜜柑の寒天だけは『絶対に触れてはいけないもの』だということを、佐伯は知っている。口に出すにはまだ平気だ。嫌な気持ちになるが何度でも言える。ただ、今でも店に陳列されている弁当を見るだけでも悪寒がくる。
 大学二年。定食屋のショーウインドーの唐揚げ御膳、デザートの寒天フルーツを見た。同じガラスに映る孝明は顔面蒼白だった。昼飯を食いに一緒に居た佐伯は、孝明の手をこれ以上ない強さで引き、早足で連れ出した。孝明は裏の路地の側溝に胃液を吐いた。佐伯はずっと孝明の背中をさすって、傍にあった自販機であったかいペットボトルのほうじ茶を買って言った。
「飲め。落ち着くから」
 孝明は車通りの少ない道路に背を向け、縁石に小さく背中を丸め座り、ほうじ茶を飲んだ。佐伯は傍らに立ち、煙草を吸っていた。ピースの甘い香りがした。そんな場面を思い出した。
 佐伯が見つめる長い沈黙の時間をかけ思い出せたのは、写真のような断片的もの。音も、感情も思い出せないスナップショット。ダイニングテーブルの上の鳥の唐揚げ。蜜柑の寒天。なにか怒鳴っている自分。割れた白い取り皿。泣く和也──。
 多分それからだ。毎日浴びるようにアルコールを飲むようになったのは。和也を傷つけるようになったのは。一番大切な人に、一番嫌なものを貰ったような気がした。あのとき、孝明は和也にお袋を見た。あのとき助けてくれなかった。ただ見ているだけ。それだけ。しかも置いていった。追いかけたのに──孝明を捨てたお袋。復讐していた?解らない。だがしていることは、酒乱の親父と変わらない。さすが親子だと思い、孝明は笑った。乾いた自虐の笑い。孝明は、一番愛している人を残酷な方法で傷つけた。身体だけでなく、心まで殺した。
「でも、………変わりたかったんだよ」
 秘密裏に佐伯の診察も受けて。依存に効く薬も飲んでいた。断酒会にも通った。量は減った。でも、やめられなかった。
「俺だって、苦しかった。毎日毎日変わろうと思ってた。今日だって。花束もチョコレートも。和也にって。誕生日だからって。もう、変わりたかった。俺だって変わらなきゃって、なのに。何でだよ。何でこんなことになるんだよ!何で今日なんだよ!」
「それにしたって、和也は!これじゃあ、正常な精神じゃいられない。幸せに、幸せになるんじゃなかったのか!お前が幸せになるって言ったから、だから、俺は……」
「……『正常な精神』って?」
 孝明は聴き逃さなかった。佐伯は黙り混んだ。
「佐伯っ!」
「守秘義務だがお前にだから敢えて言う。家族として。お前には厳しいかもしれないがよく聞いて欲しい。和也は俺の担当患者だ。重度の睡眠障害。あと鬱症状もある。投薬治療中だが、中々好転しない。抗うつ剤と、抗不安薬と眠剤を処方している。眠剤は服用しないで貯めてたんだな。目の下の酷いクマ、気づいてないはずないよな?まあ簡単に言えば眠れない。昼も夜も起きっぱなしの日もあったそうだ。意欲の低下も見られる。それでもこの前言ってたよ。
……『毎日美味しいご飯を作ったり、部屋を綺麗に片づけることだけが僕の生き甲斐なんだ。じゃなきゃあの家にいさせてもられない。佐伯くん。いや、今は佐伯先生だね』
……『話づらければ“佐伯くん”でいいよ』
……『今は少しつらいけど、頑張らなきゃいけないから。孝明は外で頑張っているから。だから大丈夫なんだ。……でも、でも……もう、つらくてどうでも良くなるときがあるよ。自分が生きているのか死んでいるのか解らなくなるときがあるんだ。ロボットや、人形なら何も感じたり悩まなくてすむのに。人がロボットや、人形になれたらどれだけ楽かなあ。佐伯くん、そういうふうになる治療はないの?何にも感じなくなる薬はないの?僕は痛いのも、悲しいのも、もう…嫌なんだ……孝明を愛しているよ。でも、死んで欲しいほど憎んでもいるんだ』
 ということだ。和也、ずっと俯いて、声も出さずに泣いてた。お前には言いづらいが自傷行為もしている。簡単に言えば和也は徹夜続きで家事以外しかしてないということだな」
 佐伯はため息を一つ吐き、続ける。
「この病院の精神科と形成外科に隔週で来てる。あと消化器内科に二ヶ月くらい前からかかり始めた。機能性ディスペプシア。多分ストレスだろ。形成外科は自傷行為の傷の手当て。切った痕は目立つから、足を重点的に切って、自分で応急手当てしてから病院に来てる。まあ、さすが元医者だよ。応急処置も的確だ。見てみたらどうだ?和也、今寝てるし」
 淡々と冷静に、怒りを抑えた様子で、佐伯は言う。孝明は入院着をめくる。膝から上は、えぐいほどの傷跡だった。直視出来ない。縫い目がわかる大きな傷が何ヵ所もあった。昼間の和也。何をしているんだろう、と思ったが佐伯の勤める病院の精神科と形成外科にかかってた。
 和也は白い足を切り刻んだ。その傷と痛みを引き換えに何を刻み込んだのか。それとも何かを捨て去ったのか。その足を自分で手当てして、病院へ来ていた。痛む足で買い物して、義務のように強迫観念にかられて手を込んだ料理を作って。このなんの娯楽もない部屋で、独りで待って、待って、待って。一生懸命作った料理は雑に食われて。待った相手には殴られて、蹴られて……胸がつぶれそうになった。孝明は膝から崩れ落ちた。
 毎日、深夜、あれから眠らずに、いや、眠れなくなってしまわせて。荒らされた部屋の掃除をして、早くからの洗濯、アイロン、そして自分を痛めつけて、かつての恋人の気に入る朝食作り。いつ殴られるか解らない奴がいるとこじゃ、安心して眠れない。意欲の低下か。ここずっと晩酌中、楽しい八百屋のおばちゃんの話してなかったもんな。……ああ、「ごちゃごちゃうるせえ」って言ったんだっけ。テーブルのビールの空き缶を投げつけたんだっけ。この牢屋みたいな部屋で一日一日、かつての恋人の皮を被った化物が帰ってくるのを待ってるしかないんだもんな。眠るときだけ優しく頬を撫でてくれたのは、俺が昔の恋人に見えたからか?あの頃にかえりたかったのか。目を閉じた俺は、昔の俺に見えたか、和也。
 別れるべきだったのか?こうなる前に。確実に死ぬための自殺未遂。計算された薬の量、プレゼントのネクタイは、罰か。孝明はベッドに縋りつく。
「もういい、解ったから、孝明。今は和也の意識が無事に戻ることを祈ろう」
 自分がどれだけの許されることのない苦しみを和也に与えてきたか。佐伯のかいつまんだ説明だけで十分だった。何故か一輪だけコートのポケットに入ってた千切れて短くなった血もワインついていない真っ白い薔薇。枕元においた。孝明は鼻を啜りながら、
「綺麗だろ。毎日薔薇をもって来るよ。お前好きだったろ?花屋を通る度に『綺麗だなあ。僕、白い薔薇好きなんだ』って言っていたもんな。もっと早く買えばよかったな。喜ぶ顔を見たかった。ほんとはずっと此処にいたいけど、俺は医者だから治さなきゃいけない人がいるんだ。お前を殺したのは俺なのにな。人殺しが人を治すんだ。笑っちゃうだろ。佐伯に、何かあったらすぐ来るよう連絡頼んだから、必ず毎日面会にいくよ。夕陽が怖いんだろ?ここは西日が差すから極力西日が差さない個室の部屋を頼んだ。愛してる……和也。ずっと愛してたんだよ。頼むから……」
 目を開けてくれ。償いをさせてくれ。何でもするから。酸欠の金魚のように、言葉にならない声を喉の奥で言う。孝明は泣き続け、
何度も「ごめんな」を繰り返す。傍らには佐伯がいた。肩を二回叩かれ
「大丈夫だ。和也は必ず戻ってくる」
 その言葉が暖かくて、心強くて。孝明の涙は止まらなかった。



─────【続】
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