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〖第81話〗瀬川side④
しおりを挟む「俺を名前で呼ぶのはやめて下さい、先生。もう子供じゃないですし、嫌なことばかり思い出します。それに、芦崎くんは──」
「『芦崎くん』か。恋人じゃないのかい?朱鷺くんが話してくれたよ。
恋人じゃないなら私のところで預かっていてもなんの問題もないじゃないか。
私は彼が好きだよ。
優しくて、純粋で、綺麗だ。
言葉の端々に見られる無防備な色香は君が教えたのかな?
──もう二度と、会うことはないと思っていた。冴子さんにもあの日「二度と会わないで欲しい」と言われたからね。
私はその次の日、自分で自分の目を潰した。まるで谷崎潤一郎の『春琴抄』だね。
だからあの頃の朱鷺くんしか私には居なかった。優しい、寂しがり屋の、朱鷺くんだけだ。それで良かった。それが私の贖罪だったからね。しかし彼は一生私の中で綺麗なまま、美しいまま脳裏に住み続けている。全部覚えている。忘れられない。
見えない目がそうさせるのか、解らない。しかし、今まで生きてきて心が動いたのは彼だけ。
幼児趣味の変質者と言いたそうだね。だが、十九歳の朱鷺くんに会えるなんて思わなかった。
雅之くん。君は、さっきあの瞬間、私に彼との関係を隠そうとしたね。どうしてかな?私に遠慮したかね?」
「とにかく、芦崎くんは返してもらいます」
「不眠症は治ったかい?」
びくっとカップを持つ手が震える。
「あの頃は、酷かったね。見ている私がつらくなるくらいに。
君は眠れなくなって、やつれて。食べられなくなって。吐いて。
私が差し入れたものでさえも
「味がしない」
と言ってたね。
事件の前、レッスン中に、お母さんにドアを何度も何度も叩かれ、君は怯えて手が震えていた。
『俺は父さんじゃないよ…………やめてくれ、もうやめてくれよ!』
といってピアノに突っ伏して泣いていた君が可哀想だった。
あの事件の後、君は睡眠薬を大量に飲んで自殺しようとしたらしいね。
あの頃私は視力を失って間もない頃だった。胃洗浄が早くて何とか間に合ったと聞いたよ。見舞いにいけなかったのは本当にすまないと思っている。
意識を取り戻した君は人が変わったように感情を隠すのが上手になった。
そして他人に感情を読まれるのを異常に嫌うようになった。
笑顔で上手に嘘をつけるようになった。
今は眠れているかな?朱鷺くんがお酒ばかり飲んでた時があったというから心配したよ」
先生は穏やかに、まるで珈琲か何かを勧めるかのように話す。
悲しみと怒りが溢れてくる。俺はテーブルに、握りしめた手を思いきり振りおろした。カップの中の紅茶が揺れて波がたつ。この人には言われたくなかった。返す言葉に涙が混じる。
「人の傷を抉って楽しいですか。
正直あの頃の記憶も母の記憶も、父の記憶も全部消したいですよ。
あの家に関することなんて全部、俺にはいらないし、傷痕も全て、嫌悪感しか感じない!今更何でこんなことを訊くんですか。言っていいことと悪いことの分別くらい、あなたにならつくはずだ!」
俺は言葉が潤んでいくのを感じていた。
この人には言われたくなかった。
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