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〖第32話〗朱鷺side④
しおりを挟むこの前、喧嘩をした。
喧嘩というより僕が一方的に怒鳴っただけだけれど。
大学へ行こうとしている時だった。スマートフォンがなくて探していたら、ソファに座りながら目の前で先輩が悠長に僕のスマートフォンをいじっていた。
ロックは指紋認証だったはずなのに。
「何でこういうことをするんですか!」
僕は先輩からスマホを取り上げる。
「なにもやましいことなんてないですよ!着信も発信も全部先輩だったでしょ?プライバシーくらい守って下さい!あと、何処に行く、いつ帰る、誰と会うか、なんてもうやめてよ。僕はもう、子供じゃないよ
!」
「俺より十も下なら十分子供だよ。あと二日前と三日前と八日前と鷹との通話記録があったけど?俺じゃ不満?つまらない?」
先輩はパチリと、綺麗な銀色のライターで煙草を点ける。
「先輩、何で僕を縛るの?息苦しいよ。疲れたよ。何処にも行かないよ。先輩の傍にいるよ。傍にいるから、いい加減お酒やめて、ちゃんとピアノの練習してよ。ご飯食べて下さいよ。──ちゃんといつも戻ってくるでしょう?今日もそう。明日もそう!ずっとそう!これで満足ですか!」
とっくに手を離した方がいい。
そんなことは解っていた。
ただ僕を失ったあとの先輩を見たくなかった。
怖かった。傷は自然と癒えるものだ。人はそう言うけれど果たしてそうだろうか?ベッドで眠りにつく前に言われた言葉を思い出す。
『君がいないと、死んでしまいそうだよ。俺の世界は君で出来てる』
悲しそうに微笑みながらこの人は言った。そんなことは狂言だ、みんなきっとそう言う。
でも、この人は『そういう人』だ。そして、その因子を持っていたのは先輩自身だとしても、引き金を引いたのは無意識の僕なのだ。
「行ってきます」
「何処に、行くの?」
「大学へ」
「戻ってくる、よね?君は俺を置いていかないよね?俺を、捨てないよね?悪かったよ。言い過ぎたよ」
先輩は悲痛な声で言った。後ろから抱き締められた。
「放して下さい」
耳に息がかかる。肌がざわつく。怖い。
「俺を──選んではくれないの?行かないで、嫌いにならないで──朱鷺くん」
「行ってきます」
「朱鷺くん!」
パタンとドアがしまる。振り向かなかった。耳から離れない先輩の僕を呼ぶ声。涙が混じった声だった。エレベーターの前で引き返し、玄関のドアを開ける。
先輩は靴箱の前で、捨てられた子供みたいに、丸まって泣きそうな顔をしていた。
「先輩」
優しく努めて、僕が声をかけると、先輩は驚いたようにハッと顔をあげる。
顔つきが最初は喜んだ顔をしていたけれど、だんだんと最近見せるようになった拗ねたような顔に変わる。
「大学、行かなくていいの」
あからさまに不機嫌な声だった。
不意打ちのように自分の姿を見られたのが気に食わないんだろう、と思った。
「少しくらい、遅れても平気です」
「あんなに行きたがってたのに」
皮肉交じりの可愛くない言い回しだった。隣に腰を下ろし、僕はじっと先輩を見つめた。
「教会へ行ってきます。すぐ帰りますから。帰ったら一緒にご飯を作りましょう。──久しぶりに先輩のピアのを弾くのを見たいです。水の戯れ、弾いて欲しいです」
先輩の瞳から音もなく頬に涙が伝う。
僕はバッグからハンカチを取り出して、先輩の涙を拭いてあげた。
拭いても、拭いても先輩の涙は止まらなかった。僕は先輩を抱きしめて、
「泣かないで」とだけ言った。
「あなたに泣かれるとつらい」とも。
「どうして?」の問いには、
「解らない」と答えた。
「──俺を選んで、くれたの?」
僕は曖昧に頷く。先輩は優しく綺麗な微笑みを浮かべた。
「すぐ、帰ってきますから」
「下ごしらえをして、待ってる。美味しいもの、一緒に食べよう」
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