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〖第8話〗瀬川side②
しおりを挟む「まったく」
口許が少し緩んだ。しかし、着替えて顔を洗おうと部屋着を脱いで鏡に映った胸元の大きな無数の深い切り傷を見て温かい温度が一気に冷める。
でもそのお陰で、大学進学と同時にこの家を手にいれた。誰にも邪魔されずに独りで音楽をできる環境。寂しさはあるけれど自由はある。
「先輩?お味噌汁冷めちゃいますよ」
様子を見に来たらしい朱鷺と鏡越しに目が合う。見られた、と思った。思い出したくもないことを朝からあれこれ訊かれるのかと、瞬く間に嫌な気持ちになった。しかし、朱鷺は何も言わず、
「玉子と玉ねぎのお味噌汁ですから。早く来て下さいね」
とだけ言った。
朝食は美味しかった。少し固めに炊いたご飯。玉子と玉ねぎの味噌汁。つるむらさきのおひたし。鰹節をまぜこんだたたき梅。綺麗に巻かれた、だし巻き玉子。
朱鷺は何も言わず、黙々とご飯を食べている。朱鷺は食べ方も、所作に至るまで、叩き込まれたような品のよさがあった。
「晴れてよかったです。洗濯日和ですね」
朱鷺が白い歯を見せて笑う。
「ああ、君の服まだ半乾きかも。あ、あと食事が終わった後、見て欲しいものがあるんだ」
心なしか朱鷺の食べる速度が速くなる。こういう時、まだ子供なんだなと思う。
食後、食器を片付け、俺は寝室のクローゼットから淡いブルーのシャツを取った。
この前朱鷺に似合いそうだと思ってしまって何故か、衝動買いしたシャツだった。
「俺にはサイズが少し小さくて。一度袖を通しただけなんだ。どうかな?良ければ着ていって」
「でも、そんな、悪いですよ。見るからに高そうだし」
「サイズが合わないから。着れないんだ。気にしないで。あと、これ」
楽譜棚からサティの歌曲集の楽譜を朱鷺に手渡す。
「サティ好きみたいだから。今度伴奏弾いてあげるよ」
「あ、ありがとうございます」
そう朱鷺は頭を下げた。それから帰るまで朱鷺は、ぼんやり黙って外を見ていた。帰り際少し困った顔をして、
「色々頂いてしまって、お世話になりました。鍵はちゃんと持ちました」
一瞬嫌なことを想像した。傷痕の『口止め』なんて朱鷺に思われていないかということだ。
「朱鷺くん!」
「何ですか?」
見送ったばかりのドアを開けると、廊下で朱鷺は振り返る。やはり困った顔をしている。きちんと伝えなければ、この子には伝わらない、そう思った。
「シャツ、似合ってる。本当は少し前に君に似合いそうだと思って、衝動買いしたんだ。帰り道、気をつけて」
─────────
それ以来、朱鷺には会っていない。それから仕事で朱鷺を忘れていた。嘘だ。避けていた。
実際はレッスンをする暇もあった。でも、電話をしなかった。何かが警鐘を鳴らすのだ。深入りするなと。この子は危険だと肌が知らせる。
「瀬川、どうした?ぼっーとして」
「ピアノの音も、声も聴こえない……」
俺はドアを開ける。ムッとした暑さと澱んだ空気。いつも歌っている定位置で倒れている朱鷺の姿があった。
サティの楽譜が右手に握られていた。駆け寄り頬を叩く。返事がない。身体が焼けるように熱い。
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