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〖第6話〗朱鷺side②

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「朱鷺くん?どうしたの?」

 俯いた顔をあげる。心配そうに僕を見つめる先輩。これが今。現実。

 でも、今ぼんやりと輪郭を整えつつある、張りついた笑顔の男の人──も多分本当の先輩。あの日、スーパーで茄子を買った日何があったんだろう。

「大丈夫?」

 先輩が優しく、僕の右手に手を添える。冷たい手。まるで水のような──その瞬間僕は先輩の手を振り払っていた。

「どう、したの?」

 びっくりした、とでもいうように先輩が目を丸くして僕を見た。僕は悲しくて悔しくて、目に涙が滲んだ。僕は俯き、ぽろぽろ泣いた。

「話してくれなければ解らない。どうして泣くの」

 手だけではなく、声も震える。

「──思い出したんです。あの日トローチをくれたのは先輩ですね。僕に優しくしてくれたのは香織先生との関係の口止め料ですか?大丈夫です。誰にも言ったりしませんから!珈琲ご馳走さまでした!」

 僕は泣きながら教会まで走った。

 今までの事は全部、そういう訳だったのか。親切や善意の対価。それは口止め。

 教会の自転車置き場に着きポケットをあさる。自転車の鍵がなかった。落としてはいないはずだ。鈴がついてる。でもこの雨だから音が紛れてしまったのかもしれない。

 目を凝らす。ない。ない!気持ちだけが焦る。暗くて見えない。

 夏の雨なのに冷たい雨だと思った。鍵を先輩の家に置いてきたと気づくのに、暫くかかった。もう、濡れてもいい。

 捨てられた犬みたいに、とぼとぼ先輩のマンションへ歩く。大間抜けだ。あんな啖呵を切っておいて。身体が芯から冷えた。
 何となく鍵を受け取ったら、もう会うことはないだろうな、と思った。

 そして僕はなんでまだ泣いているんだろう。苦しいんだろう。憧れの香織先生の彼氏だったから?なら、教会で会った日、

『この前は見られてしまったね』

 そう、いつものように、こんな言い回しで紹介されれば良かったのだろうか。

 傷ついたのは、全部が嘘だったからだ。ただ、二人の関係を黙っていてもらうだけの口実だった。

 
 親身に根気強く見てくれたレッスンも、
 優しい態度も、
 穏やかな喋り方も。すべて。
 

 僕はそんなものだった。

 そして加えるとすると、そんな存在の僕が、先輩との時間を楽しみに待つようになってしまったからだ。だから傷ついた。簡単なことだ。簡単なことなのに。涙がとまらない。

 ボタンを押す。七〇二号室。

「忘れ物をしました。深谷です。開けてください」

 入り口のガラスのドアが開く。エレベーターで七階へ。インターフォンを押す。

「忘れた鍵を取りに来ました。あと、色々お世話になりました」

 すぐにドアが開く。頭から足元までびしょ濡れの僕を見て先輩は目を伏せた。

「お風呂、沸かすから入っていって」

「結構です」

「このまま雨の中君を返して、君が肺炎にでもなったら俺が嫌なんだ。解る?」

 あがって。今タオル持ってくるから。棘のある言葉だけど先輩の声音は優しかった。僕に部屋着を貸してくれた。大人物を着る子供だ。僕をソファに座らせ先輩はタオルを手渡した。

「珈琲、飲む?」

「珈琲なんですけどお願いがあるんです」

「何だい?言ってごらん」

 先輩の声はレッスンをする時の声と同じだった。

「あの──牛乳を半分、砂糖スプーン二杯、お願いできますか?」

 先輩は軽く微笑んだ後、言った。

「君は俺より十歳も年下なんだよね。君の歌声は一度聴いたら忘れられない。品も迫力も。タオルもう一枚持ってくるね。それに、今までの事は『あのこと』とは関係ないよ」

 さらりと気にしていたことをかわされた。その日、僕は先輩のマンションに泊まらせてもらった。

 雨がひどくてとても帰れるような状態じゃなかった。お風呂で暖まったあと、

『君はベッドで寝なさい。冷えたら風邪を引くから』

 ソファで寝ると言う僕の意見をあっさり却下し、先輩はどう見ても窮屈そうに見える格好ながらもソファで寝た。

 夜中、喉が乾いて起きた時、先輩が寒そうに小さく丸まっていたので、僕は被っていた毛布を寝室から持ってきてかけてあげた。一瞬、ほんの一瞬だったけれど、眠りの中の先輩は優しく微笑みを浮かべ、毛布をかけてあげた僕の右手の指先を弱い力で握った。
 
 胸が、かきむしられるような気がした。さらさらの前髪に触れたくなった。


 僕は、そっと、触れた。


 あんなに降った雨はいつの間にか止み、窓の外が白んできた。僕は小さく、

『おやすみなさい』

 と言い、寝室へ帰った。ごく淡く煙草の甘い匂いがする。先輩は普段はここでも煙草を吸うみたいだ。何だか急に苦しくて、泣きたい気分になった。

 いつしか漂う甘い香りが僕をなぐさめ、微睡みへと誘った。明ける夜を前にして、僕はまた眠りについた。 
      
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