だからその声で抱きしめて〖完結〗

カシューナッツ

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〖第5話〗朱鷺side①

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「忙しいひとだから、仕方ないよな」

 僕はあの日からスマートフォンばかり見ている。そして早起きをして夕方も、授業が終わると必ず教会に寄る。そう言っても、先輩に会うあてもないけど。

 ピアノを教えてくれる日は、必ず少し前の日に先輩は電話をくれる。
 先輩には四回ピアノを見てもらった。けれど、もう最後に会ってからゆうに十日以上がたっていた。

「会いたいなぁ」

 夕方の教会に言葉が反響する。残照の橙色の乱反射。僕は人付き合いが苦手だ。苦手というより怖い。
 僕は他人に自分の領域に入られるのが怖くて、仲の良い『友達』が出来ない。でも先輩は違った。僕はピアノを弾く時、視線を感じるのは苦痛だ。でも先輩は気にならなかった。レッスンの後での、喫茶店でお喋りはとても楽しかった。

 久しぶりに自主練習のピアノの練習ではなくて歌を歌う。サティの『天使たち』。高音が少し苦しいが好きな曲だ。今日は『ジュ・トゥ・ヴー』も歌った。何故かこの歌を歌えば先輩に会えそうな気がした。

「電話、来ないなぁ」

 完全に日が暮れ、外は暗い。雨も降りだしたみたいだった。ついてないなぁと思う。そういえば今日の朝にテレビでやっていた星占いも最下位だった。帰ろうと、ドアを開ける。人にぶつかり「すみません」と下を向いたまま謝る。左手首を急に捕まれて、僕は驚いてその人を見上げる。瀬川先輩だった。

「ごめん、ずっと連絡しなくって。朱鷺くん。もしかしたらまだいるかなって思って、来た。あと、ずっと君の歌を聴かせてもらっていた。声をかけなくて、ごめん。外、ゲリラ豪雨だ。朱鷺くん、家どこ?」

「ここから自転車で十五分くらいです」

「雨止むまで家に来なよ。お詫びもしたい」

 先輩は眉を下げて困ったように笑った。

「……先輩は仕事もあるから仕方がないって思ってました。でも正直にいうと──忘れられてしまったんだなぁって思っていました」

「ごめんね。俺から言い出したのに。あと、君のその歌声を聴いて、君を忘れる人も中々いないよ」

 先輩は、また笑う。雨足が強くなる。もう、教会は真っ暗だ。

「5分位だけど走れる?」

 先輩が僕の片手を引く。濡れないように先輩は薄地の上着を脱いで頭から被せてくれた。先輩に手を引かれ、着いたのはマンションだった。
 オートロックの七階の二号室が先輩の部屋だった。神経質なんだろうな、と思うほど余計なものが少なくて綺麗に掃除してあった。まるで他人を拒むような冷たさを感じさせた。

「あがって。タオル持ってくるから。適当にかけて」

「お邪魔、します。」

 僕はキョロキョロと辺りを見渡す。先輩は髪を片手で髪を乾かしながら僕を珍しい動物でも観察するみたいに少し愉しそうな顔で僕を見ていた。それから白いふわふわのタオルを僕に手渡し、先輩はソファに腰掛けて、煙草に火を点ける。

「あ、煙草ごめんね。空気清浄機があるから、君の方に煙はいかないから大丈夫だよ。どうしても吸いたくて」

 銘柄は『Peace』だった。深い紺色の箱。甘い香りがした。

「仕事の準備があって。ごめんね。電話しようにも時間を考えると出来ない、というのが続いてしまって」

 しばらくし、先輩は珈琲を淹れてくれた。温かい。良い香りがする。

「いえ、いいんです。綺麗な部屋ですね。僕の部屋はキッチン以外はごちゃごちゃです」

 雨足はいっこうに弱くならない。話の邪魔をするくらいの音がする。

「料理、好きなの?」

「はい」

「俺も」

 先輩が一気に嬉しそうな顔になった。しばらく料理の話で盛り上がった。好きな料理。苦手な食材。思い出の料理。苦手な料理。

「寒くなってきたら、おでん作るんで、良かったら家に遊びに来て下さい」

 楽しみにしてるよ。そう言いながら先輩は美味しそうに煙草のけむりを吸い込む。そしてすぐ脇にある空気清浄機に向かって白いけむりを吐く。
 窓に、映る、煙草を片手に眼鏡を外し、髪の毛が乱れた先輩は紛れもない色男だった。この前とはまた違った──。僕はただ見惚れる。
 先輩を見つめる僕に視線に気づいたのか、先輩は「どうしたの?」と言い煙草を消した。

「いえ、先輩は色男なんだなぁ、と思って」

「面白いこというね。照れるな」

 先輩は笑い、すぐ後ろの棚から何かを取り出す。そして、僕に言った。

「トローチ、食べる?」

 ドクンと胸が軋む。どこかで聞いた声。カップを持つ手が震える。テーブルにカップを置き、眩暈がして床に倒れこむように膝をつく。
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