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番外編

【番外編】啓介の夏休み(最終話)

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    院長室には写真が三枚かざってある。
一つは秋彦と祥介と小さな啓介。もう一つは歳を重ねた秋彦と祥介と薬剤師になった啓介。もう一つは少し古びた写真。秋彦と金髪で青い瞳の白衣を着た男のひとが映っている。

「もうすぐ、会えるのかな、潤ちゃん」

皺々の指先で秋彦は笑う谷崎をなぞる。

「こんな皺クチャなおじいさんじゃ、潤ちゃん解らないかな」

写真を撫でているうちに、暖かな春の日差しの中、秋彦にぼんやりと、霧のような眠りに落ちた。
外ではカルガモを、子供たちが追いかける。
《今日もいつかの夢を見る》
もう二度と戻ることはできない過去に目を閉じて、想いを馳せる。
……………………………………………………………

『大丈夫?咳してたでしょ。柚子の喉あめ、なんだけど、よ、よかったら』

躊躇いながら、少し遠慮がちに秋彦は谷崎に飴を差し出した。

『あ、飴、有難うございます。何だか喉がいがらっぽくって。先輩、名前、何て言うんですか?』

消え入るような声で、秋彦は、

『は、支倉…秋彦』

と言った。

『俺、名前…』

秋彦はまるく笑う。

『谷崎潤一郎くん、だよね。一度聴いたら忘れないよ。綺麗な髪だね。ライオンみたいだ。ご、ごめん。馴れ馴れしくて…嫌、だったよね…』

語尾がしぼんでいく秋彦が谷崎に可愛らしく映った。可愛い黒目の仔ウサギが、ライオンに精一杯の勇気を出す。

『じゃあ、谷崎くん、風邪ひかないでね。暖かくして休んで』

…………………………………………………………………

目が覚める。おかしい。春の田んぼ…。

『秋彦さん』

ずっと聴きたかった声に、ゆっくりと振り向く。

『秋彦さん。やっと、会えた』

涙が溢れる。走って、飛びつくように抱きついて、子供のように大声で泣き喚いた。
この温度、匂い、胸の厚み。全て焦がれたひとのもの。

『会いたかった、会いたかったよお。ずっとずっと、会いたくて、謝りたくて。気づけなくて、ごめんね。寂しかったよね。許して。僕を許して、ゆるして…』

泣き続ける秋彦の背中を撫でて言った。

『寿命だったんです。仕方がなかったんです。許すもなにも、罪悪感でいっぱいになって泣くあなたを見るのがつらかった。もう少し秋彦さんと居たかったけど、これからはずっと一緒ですから』

『うん、そうだね。ずっと一緒にいられるね』

…………………………………………………………………

その日の空は青かった。白い煙突の煙が、空の青と混じり合う。喪服姿の二人が外で缶コーヒーを飲みながら秋彦の話をする。

「アキにいちゃん、眠ってるみたいだったね」

「ああ。しあわせそうに微笑んでたな…」

やっと会えたか?しあわせか?秋彦。

『色々…ありがとう、祥介』

ふわりとまるい囁きがそよ風のように聞こえたような気がした。
家に帰り、啓介はずっと行っていなかった秘密の庭に行った。
荒れ放題だと思っていた庭は手入れが行き届いていて、金木犀が満開だ。眩しいほどに、咲いている。秋彦が笑っているようだった。

「アキにいちゃん…秋彦さん。あなたは僕の初恋でした。幼い頃の、思い出です」

啓介は秋彦がよく学校に行くのに持たせてくれたアイスティーをマイボトルに入れ、一気に飲み干した。

「さよなら、秋彦さん」

金木犀の香りが匂いたつ。そう言えば父が大切にしている香水も金木犀の香りだった。そして、昔見たアルバム。あのひとに注ぐ、包み込むような目差し。それはやさしく、けれどいつも寂しそうだった。ずっと想いを胸にしまってきた?

「父さん…ずっと、あなたも…」

支えて見守るだけの愛しかた。それが父の愛しかただった。昔話してくれたカルガモの話を思い出した。

『啓介、カルガモは誰かと見てはいけないよ。そのひとを追いかけ続けてしまうかもしれないから』

叶わないと、知りながらもね。
秋彦さん、アキにいちゃん…想い続けたひとには会えましたか?

あなたは僕の初恋でした。
甘い、優しい笑顔のあなたを、僕はずっと好きでした。叶わないと、知りながら。
ずっと…ずっとあなたを。
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