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第2章

あの事件と消えない疑惑と秋彦の傷①

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祥介がいなくなった家。こんなに自分の家は広かったのかと改めて感じる。 


『このワカメ炒めたの美味しいな』
『秋彦、数学のチャートの、この問四教えて』


声も、音もない家。
秋彦の母は、看護師で、夜遅くまで働いていたから独りの夜には慣れていた。

けれど、祥介と暮らし初めて、
夜が明るくなった。
けれど今、穏やかに名前を呼ぶ、あの声が消えてしまった。

 『秋彦』
 『アキ』 




秋彦が何かに夢中になって聞こえないでいると、祥介は少し大きめの声で
『アキ』と呼ぶ。


 「祥介…返事をしてよ。ずっと一緒にいてくれるって、言ったじゃないか…祥介…寂しいよ」


今更自分自身の想いに気づかされた。
夜ガランとした部屋でベッドにうつ伏せになり秋彦は思い出す。


抱きしめられたときの心地よさ。
唇を重ねたとき、本当は心臓がおかしくなるくらい早く脈打ったこと。


泣いて縋ってでも、引き留めればよかった。独りでのいいことが一つだけ。

大声で泣くことが出来る。




祥介はずっとこんな思いをしていたんだろうか。
脳裏に浮かんだのは、
時折見せた祥介の辛そうな顔。 

今、秋彦の胸の中にあるのは、初めて知る部類の


苦しさ、
切なさ。


それは、祥介が居なくなって、独りになって気づいたもの。
どれほど祥介に甘えていたか。
頼っていたか…好きだったか。

甘えて支えられている事実に秋彦は上手に祥介への好きだという気持ちを紛れ込ませていた。

苦しいのは、今更自分の気持ちに気づいた自分の番なんだろうか。 




「傍にいてよ、祥介…しょう…ちゃん…」 

学校では前と同じ。
変わったことと言えば祥介に彼女が出来たくらいだ。
秋彦に対し少しのよそよそしさは感じるが扱いは変わらない。
秋彦は

『祥介が好きだ』

という、しまいこんで隠していた感情を気づかせた祥介に、
自分の感情を気づかせないように振る舞おうと必死になる。

もう、祥介は彼女を作り、気持ちに決着をつけた。秋彦は、自分の気持ちが早く風化すればいい、いつも通り困ったように笑いながらそう思った。 

そんなある日、秋彦は放課後、
図書室へ行く途中、西日の当たる教室で、祥介が彼女──加野絵理子とキスしているところをを見た。

祥介との一瞬の視線の交差。
祥介は立ち尽くす秋彦を睨んで一瞥し、再び加野に誘われるように深いキスを、味わうように繰り返した。
クラスで穏和で優しいと皆言う加野の流れてきた視線。

勝利感が漂う嘲笑だった。
加野は祥介に口づけをねだり、見せつけるように深い口づけを繰り返した。 秋彦は、目を逸らせなかった。あの場所にいるのは、本当は自分のはずだった。

祥介の口唇の奥や温度。祥介はどんな味がするのか。加野はうっとりしているけれど、祥介はどんなキスをするんだろう。そう考えているうちに、身体が反応した。泣きたくなった。

ただ、二人の音をたてて、愉しむような口づけに身体が反応したわけではない。祥介だったから。祥介と自分とのキスを、想像したからだ。 秋彦はトイレに駆け込み、処理した。 

「なんで…なんで…」

 想いが、消えない。消えてくれない。もう、今更手遅れなのに。祥介はどうして、見せつけるようなキスをしたのだろう。あの距離なら解ったはずだ。一度、目も合った。答えは簡単だ。 


《もう自分はどうでもいい存在だから》

自分は祥介にとって、もう『過去』だ。
秋彦は手についた汚れた白を見て泣きそうになる。 
視線が交差したときの祥介の瞳は、まるで強い瞳で『見るな』とでも言いたげに見えた。絵になる二人だった。

自分じゃ祥介には釣り合わない。
心の中で泣きながら小さな思い出の自分に話しかけた。 

もう、カルガモの親子じゃない。お互い、独り立ちした。さよならなんだ。 
祥介は手を繋ごうとした。
でも、自分は応えなかった。あのとき自分の気持ちが解らなかった。

隠すように感情の箱に紛れ混まされていた恋に気づけなかった。

一度離れてしまった手はもう繋がることはない。もう、戻れない。 
今更になって気づかされた想いを忘れたいと思った。
こんなに苦しいなら、
かつての綺麗な思い出も一緒に。

紙で拭った手を石鹸で洗い流しながら秋彦は泣いた。 
それから、暫くして、
秋彦は保健室登校するようになった。
理由は『あの件』があったからだ。


───────────《続》
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