上 下
38 / 43

《第36話》奏の遺言

しおりを挟む
その日以来、貝を拾いに行こうと、奏は言わなくなった。

 けれど奏は夜明けに涼を起こし、 

毎日の日課、朝日を二人で見に行くことは欠かさない。



涼は傍らの細い影が消えてしまうことが怖かった。何よりいとしい奏が、いのちをかけて産んだ子供を、奏がいなくなった後、責めてしまいそうな自分も怖かった。 

けれど自分は、奏が残した言葉をその子を育てるんだろうと涼は思った。 ──『正しく愛してあげて』といい、涼のことを暖かな眼差しで見つめる奏を思い出しながら。 ──────────────── 

「今夜だね」

 「そうだね」


思い出を作るのも、多分最後。

もう、会えない。

 触れられない。 

癖のない長い髪に、
桜貝みたいな可愛らしい爪に
細い白い指に。 
虹彩の薄い茶色い瞳に映ることもない。

 柔らかいアルトの声も、 
吐息も肌の温度も。すべて、最後……。




涼は泣くのを必死で我慢するのが精一杯だった。 

「涼、キスしてよ」 

「え?」 

「キスしてよ」 

「手術のあとにしてあげるから、元気に戻ってきて。夕飯軽く何にしようか」 

「グループフルーツの百%ジュースとミモザサラダ」




 奏が笑う。一生懸命笑っている。だから涼は笑う。最初の、ここに来たとき作ったメニュー。

トマトソースのツナと茄子のパスタは無し。
ラムネもつけた。 サラダを食べて奏は笑う。 


「涼は何でもできるんだね。僕は最後まで料理は苦手だったなぁ」

 「最後じゃない。あと数%残ってる!」


 ハッとし、涼は、泣いた。 数%と自分で言った瞬間、あまりにも、奏に死が近いことが可視化され愕然とした。 

しばらく泣き続ける涼の手を奏が握りしめる。 勇気づけなきゃならないのに。 目を見てありがとうも言ってない。






愛してるとも、
好きだとも。
言葉が出てこない。 

そして、君を一生忘れない。
そして、俺にはずっと君だけ。
君以外いらない。

別れに似た言葉は言いたくない。



涙が邪魔をして、ぐしゃぐしゃになって伝えたい言葉が出てこない。

 「そろそろ時間だよ。流さんのお陰だ。何も心配なく、この子を産める」

 楓が迎えに来た。涼は涙に濡れながら奏に言った。 

「君を待ってる。ずっと待ってる」





奏を連れに白い服のひとが来た。奏が乗るストレッチャーが用意される。

最後、玄関で奏は振り向き、
涼に駆け寄ると、触れるだけのキスをして

『あいしてる』

と言い残し、部屋から消えた。


誰よりもいとしいこいびと。
何よりも大切なこいびと


まだ、どんぐりも拾えてない

いとしいひと。
運命に翻弄された星のもとの
何より美しい儚い蛍のようなひとだった。 





「かみ……さま…………」

 信じたことはなかった。けれど繰り返した。 

「かみさま、かみさま……かみ、さま……」 





────────────続
しおりを挟む

処理中です...