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《第22話》すれ違うふたり

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あれから、楓は流の別荘にいる。失われた時間を取り戻したいかのように、流は楓に話しかける。
けれど、いきなり流の手が肩に置かれたりするようなことがあると、楓の身体は強ばる。
怖い、と身体が訴えるが、流に悲しい顔をさせたくなくて、楓は振り向いて懸命に笑う。

「どうしたの?兄さん」

上ずる声を必死で隠そうとするが、流は楓に、

「昼飯にしないか。テラスで食べよう」
 
と、声とは裏腹に悲しそうな顔をする。二人は硝子張りの窓の多い廊下を歩く。楓が見事な庭に見とれていると、流が話しかけた。

「楓」

「何ですか?」
 
 少しの沈黙のあと、

「俺のことが、怖いか?嫌いか?」

流はそう言ったきり下を向いたまま黙った。

「そんなことは、ない、です」
 
落ち着いた低い声。流のαの無意識の強い『圧』。楓は正直、逃げ出したかった。

楓自体もαの力は弱くはない。けれど流は段違いだ。けれど次に出た流の言葉はあまりに弱々しいものだった。

「いつになったら、俺を……本当に、許してくれる?」

「え……?」

「もう、怯えた顔をしないで欲しい。何をしたらいいか解らないんだ。どうやって償えば良いかも。何をすればお前が笑ってくれるかも解らない。解らないんだ……。楓……楓は何を望む?俺に出来ることならなんでもする」
  
正直、楓は、ここに、もう一ヶ月経つが何も不満も不自由もなかった。
高級ホテルのスイートに連泊するより贅沢だと思う。
服も、泊まった次の日からは、誂えたかのようなサイズの肌触りが良いシルクのシャツと履き心地の良いスラックス。足を包む柔らかい生地の靴下。毛布なんて、楓が幼い頃、古くボロボロになっても気に入って離さなかった毛布と同じものを、流は用意してくれていた。
  
細かな気遣い。やさしい声音。でも、何かが拒否する。
穏やかな、思いやりに溢れる兄が伸ばす手を、掴めない。
消えたと思っていたのに。染み付いた嫌悪感と恐怖感が邪魔をする。
そして流は、楓の手を掴んだら、怯えて振りほどくことを知っている。だから、決して触れない。

「なにも」
  
『もう、充分過ぎる』
という楓の中で意味を、流は別な意味
『もう、何も要らない』
という意味でとった。一気に表情が翳り、

「そうか」
 
 とだけ言って俯いた。ハッとした楓は、流に、

「わ、悪い意味では、無いんです。
ただ充分過ぎます。
奏の件で来た、ただの居候扱いで結構です。自分で料理も作ります。
それくらいの扱いで良いんです」

「……お前は残酷だな。『楓は『弟』だ。だから、触れてはいけない、抱きしめてはいけない、──口唇に触れてはいけない。もう『番』じゃないんだから』
そう爪が食い込むまで手を握りしめている俺に、お前は『弟』ですらいたくない?『居候』になりたいと?
じゃあ、俺は?お前を失いたくなくて、怖くて、何を話せば良いのかかすら、話しかけるのすら躊躇って、
肩に手を置くだけで、どうしようもないくらい悪いことをしている気持ちと、
元に戻りたいと、
そして……それとは違う感情が拮抗する。俺はな、楓。お前が『弟』じゃなければ、ただの『居候』だったら、
もう俺はお前をとっくに触れてる!無理やりにでも!」
  
吐き捨てるようにそういうと、
流は深紅の絨毯を楓から目を逸らし、
足早に歩いていく。オールバックの三揃えのスーツの黒い革の靴が遠ざかっていく。
走ろうとしたら躓き転ぶ。

「………兄さん、待って下さい、兄さん!」
 
小走りに楓は、振り向きもせず歩いていく流を追いかける。永遠に追いつけない気がした。

「置いていかないでください。もう、独りにしないで下さい。独りはあのときだけで充分です」
  
  蹲る。やっぱり兄さんは変わらない。と楓は思った。やさしくなんかない。自分勝手な気紛れを、やさしさと、勘違いした。
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