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《第16話》ドクター、楓。

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もう、陽は落ちて辺りは暗い。暫く車を走らせると、豪邸の囲いがあった。
 まるで城だと、ドクターは思う。
これで別荘か、と。少しこのヒエラルキーの世界が嫌になる。

 趣味はよく、石を積み上げそこに柊の生け垣がある。
ドクターは頬を撫でる夏の湿った風があまり好きではなかった。
 あの手を思い出す。 涙を流して抗っているのを何とも思わない様子で無理矢理、奪うような口づけをするくせに、頬に流れる涙を『泣くな』とやさしく指先で拭ったあの手。

 衣服を無惨に破くように剥がれ、
泣きながら抵抗しても、
身体中を這うように触れ、
心も、身体も、
今までの信頼も全て犯して壊した
熱い湿った手。

 
入り口の門の前でドクターは車から降り、
運転手を帰した。
ポケットから札束の入った袋を渡すのも忘れない。 
『他言無用』 ようはそういうことだ。 
玄関といっても、ここからでは建物さえ見えない。
九条の財力も相当だが、
鷹司の家も中々だ。
ベルを押し、スピーカーに話しかけた。

 「夜分すみません。九条楓と申します。話があって参りました」 

自動的に門が開き、広い庭を歩く。
美しい整った庭だと楓はライトアップした玉砂利と日本庭園を見て思う。

そして沢山の防犯カメラ。
セキュリティは称賛の一言だ。
 監視カメラか、玄関の前につくと、何もしていないのに内側から、若く屈強そうな男がドアを開ける。

使用人だろう。ドアマンにしては物騒だ。
ドクターは小さく笑ってしまう。 

「お待ちしておりました、楓さま。流さまも、お会いされるのを楽しみに……」 

「鷹司様はどちらに?」 

「書斎でお待ちです。誰も近づくなと。廊下の突き当たりです。では私はこれで」

 ふっと風のように使用人らしき男は消える。
 廊下の突き当たり。
ドクターの心臓が軋む。

もう、会うことはないと、
この十六年思ってきた。 

忌々しい、記憶。 
忌々しい、感覚。 
忌々しい、身体。 
全てを呪いドアを開ける。 

「楓………」 

一言、ドクターの名前を呼ぶ、耳にやさしく響く懐かしい声がドクターを

『九条楓』に戻していく。 

そして、目の前の男の、昔見たときとまるで変わらない穏やかな微笑みで肌全体が嫌悪と恐怖と悲しみで粟立つのを感じた。

 「お久し振りです。鷹司様はおかわりなく」 

ドクターは頭を下げた。 

「電話で社交辞令は聴き飽きた。楓。今日はゆっくりしていけ。
今日ともいわず、いくらでも。
あんな研究所なんて戻る必要はない。
ずっとここにいればいい。俺がお前を守るよ。 まあ、お前の頭にあるのは奏のことだけだろうがな。
あそこの医療は世界レベルだ。
安心しろ。涼には言ってある 『人魚』は海に返さないと死ぬと。 
お前の大切な奏を奪ったりしない。
『人魚』は返す。
涼も馬鹿じゃない。
初恋に浮かれてるだけだ。
可愛い息子に夢くらい見せてやりたくてな」 

まあ、座れと言い、見るからに高価そうな皮張りのソファに流は腰掛け、
楓を隣に座るよう促す。

 嫌だが、楓は座る。やさしい瞳をした隣の男を前にしてカタカタと小さく楓は震えた。

『あの時』組み敷かれ、無理矢理抱かれた恐怖と嫌悪は消えない。 
それは、一時的に楓の身体を守った唯一の方法だったが、楓のそれからの未来を真っ黒く塗り潰した。

 「どうした?楓。震えて──風邪でもひいているのか?電話でも、声が震えていた。どうした?」

頭は頗る賢いのに、楓が流を生理的に受け付けないことすら解らない。
鈍いところ、少し間の抜けたところが、昔と変わらない。
泣きたくなる。
それでも、昔の流なら気づいているはずだ。 
時間は全てを変えていく。
砂丘の風紋だ。 
流は悪くない。
悪いのは自分の呪われた身体だ。
『異端』を排除しろという父の考えは全て自分からだった。
 
昔は博愛主義だった。
αβΩそれぞれ個性だと。
生まれついたのは必ず意味がある。
 自分を蔑むな、
自分を愛せ。
他人を蔑むな、
他人を愛せ。
 慈善事業も積極的に取り組んでいた。
それが、一日で百八十度変わった。

 それは、楓も同じだった。
自分の呪われた身体と事件──楓は確かにαだった。なのに、研究所でヒートを突然起こした。
 同僚、上司、後輩。集団で犯されそうになった。
 助けたのは流だった。鍵のかかる個室に匿われた。

 そして、流もαだ。ヒートに煽られたαのとる行動は、一つしかない。

 あの時、楓にとって
尊敬し、憧れた、流は死んだ。
 『番』になった。
一番望まない相手と。
『番』になり、妊娠した。

 目の前の男は何もなかったように楓に談笑を求める。
 『懐かしい。会いたかった』
と繰り返す。
十六年前に自分に何をしたか。
そんな罪などまるで関係ないかのように。

 あの頃のやさしく、
憧れ、尊敬した、
朗らかな流はどこにもいない。

楓はかつて兄の面影を探したが、見つけることができなかった。例えあの頃かけてなかった眼鏡を外して、あの時の自分に戻ろうとしても。
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