蝶々の繭

カシューナッツ

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〖第1話〗

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 車は蛇行しながら山道を登っていく。雲が近い。空も近い。窓を開けると蝉の声が耳鳴りのように聞こえる。夏特有の湿度は標高の高さと共に剥がれ落ちるように無くなって、真っ直ぐな陽射しが肌に刺さる。シュークリームみたいに膨らんだ入道雲は夕立を連れてくるけれど、俺は夏の雲が好きだった。

 そんな俺は今、父の車で知らないところへ運ばれている。父は朝早く、眠る俺にいきなり身支度をするよう言い、大きなスーツケースに荷造りをさせて、俺を何処かへ連れていく。母親が旅行から帰ってくる時間と鉢合わせないための不器用な気配りだと解り、まだ眠く無感動だが、ありがたいと思った。車は山の奥へ、緑の中へと入っていく。蝉が高原の蝉の声だと思った。シャワシャワと、可愛らしい音がする。
  
 ***

 夏の入道雲。白くつやつや太陽を反射して光るそれが、掴めそうだと思っていた幼い頃、瓶に入れて取っておけると思っていた。そのことを高校生の頃、あのひとに言ったら、

「もし取っておけたら、柔らかい綿毛みたいな触り心地がするんだろうね」

 子供じみたことを言った俺を馬鹿にすることなく、あのひとは目尻を下げて笑った。ふわふわして柔らかな、希望や、やさしさが夏空にはある。白く湧く、シュークリームのような入道雲を見ると思い出す。

 こんな言い方はしたくないけれど、あのひとは、やさしすぎた。だから早く神様が欲しがった。そう思わなければ押し潰されそうだ。

 柔らかな声も、

 何処か北国を感じさせるあったかいイントネーションも。

 奥二重のきっと誰も気づかない長い睫毛に縁取られた茶色い瞳も。

 シンプルな服装と眼鏡も、

 ビーカーを持つ綺麗な手も。

 化学準備室の、あのひとを照らす西日の長さで解る、以外に高いすらっとした体躯も。最後に見たあのひとは白衣にチョークの粉をつけて笑っていた。俺は気づけなかった。あのひとがそんなに弱っていたなんて。だから、神様のせいにする。あの人の死を背負うのは、俺には重すぎる。

 昔、高二のとき、あのひとに出会った夏、両親にカミングアウトした。俺は同性愛者だから、本家を継げないと頭を下げた。家は田舎の何代も続く名家で大きな法律事務所と不動産業を営んでいた。

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