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〖第31話〗

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顔をあげる。思い出すのは、出会った頃。今にも泣き出しそうな正一。俺を映す瞳に光がない。今日の正一の瞳は曇り空のように暗いと思った。


『悲しい』
『苦しい』
『助けて欲しい』


そう正一が言っているように見えて、俺は正一を抱きしめた。

「話して、き、聞かせて。正一、苦しい、分けて」
 正一は、ポツリポツリと、呟くように語りだした。
「簡単に話すよ。あまり楽しい話じゃないから」
───────────────
昔は名医と呼ばれていたこと。忙しく、自分の仕事が誇らしかったこと。その名声で格式高い武家や公家の依頼も受けていたこと。

「天狗になっていたんだろうね。バチが当たった。だからあんなことが起きた。身分の低い人をないがしろにしてきてしまった。ある日、診療所に身分の高い武家が来た。その頃はここも繁盛していてね。武家が、順番を守るよう言った肺を病んだお婆さんの、背中を切りつけた。笑いながら、手打ちにしたんだ。騒ぎを聞いて駆けつけて様子を見たら、糸がお婆さんを庇って袈裟斬りに切られていた、それきり、だった。診療所が騒然とする中、その武家は私に言ったよ「足の傷の治療をしろ」ってね。拒否したら刀で脅された。首の皮を切られて、殴られて、蹴られた。私は、治療をした。私は自分が、かわいくて、糸を殺した人間の足の、一日で治るような擦り傷の治療をしたんだよ。私は医者をやめた。それ以来、薬は渡しても、治療はしない。私は医者である資格を、あの瞬間、捨てたんだ。雪、私は卑怯だ。私のことを信じるな。おしまい。つまらない話だね。君には、話したくなかった。軽蔑、しただろう」

つらそうに顔を歪め、俺から目を逸らす正一の頬に触れる。口唇を重ねる。
つらい言葉を話した正一を慰めてあげたかった。でも、今、どんな言葉も、正一には届かないような気がした。
だから俺は、何度も何度も、触れるだけの口づけをし、ぎゅっと正一を抱きしめる。俺の目からポロリと涙が落ちた。正一は、

「どうして、雪が泣くんだい?」
と言い、親指で俺の涙を拭ってくれた。俺は、
「正一の、悲しい、うつった。泣いて、正一。悲しいとき、泣く。いいこと」

そう言い、俺はまた、正一の唇にそっと口づけた。正一は潤んだ瞳で甘く絡ませた。俺と正一はそのまま『悪い事』をした。激しさを伴うものではなく、ただ温もりを確かめあった。
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